Donnerstag, 15. Oktober 2020

博論本の序論か結論(のひな型):13 世紀半ばから 15 世紀前半のイブン=アラビー派の歴史とクーナウィー受容

目下、博論の改訂出版にむけて、亀の歩みの作業中ですが、序論か結論で書くであろう全体のまとめ(のひな型)を書いてみました。ひとまず、備忘録もかねて、ここにあげておきます

これまでのイブン=アラビー派研究では、基本的に次のような歴史の流れが想定され、くりかえし描かれてきた。「イブン=アラビー(1240 年没)は生前、膨大な量の書物を書きのこした。そこには、相反する主張、矛盾するアイディアもあちこちで表明されている。彼の死後、直弟子であり義理の息子でもあったクーナウィー(1274 年没)は、アヴィセンナ哲学を大々的に受容し、師の思想遺産の根幹を形成する世界観=存在一性論の体系化をはじめる。こうした哲学的体系化の路線は、その後、カーシャーニー(1330 年没没)やカイサリー(1350 年没)へと継承され、一性論は次第に哲学的要素を色濃くしていく」。さらにすすんで、「カイサリーこそが哲学的体系化のクライマックスだ」と論じる歴史家さえいる

まず考えなければならないのは、「アヴィセンナ哲学受容」の多面性である。たしかにクーナウィー以降のイブン=アラビー派では、皆、多かれ少なかれ、アヴィセンナ(系の)哲学概念をもちいて議論をおこなう(これは当時のイスラム圏で広く観察される、いわゆる「アヴィセンナの伝染」[la pandémie avicennienne]という文脈で理解されるべきもので、同派に特有の現象ではない)。だがそもそも「哲学」自体のもつ多面性が、既存のイブン=アラビー派研究では、ほとんど省みられていない。

クーナウィーにおける「哲学」受容を論じる際、もっともよく引きあいに出されるのは、学問論である。彼はアヴィセンナ(系の)学問構造論をもちいて、師の世界観を「神学」(al-ʿilm al-ilāhī)というひとつの学知として体系化しようとした。これ自体はただしい。問題は彼のこうした学問論的傾向性が、じつは以後の一性論者のあいだで、ほぼ一世紀のあいだ、直接の後継をもたなかったという事実である。実際にカーシャーニーとカイサリーのテクストを読めばわかることだが、クーナウィーが行ったような一性論の学問的体系化を、彼らはほとんど行っていない。「まったく行っていない」とはいわないが、クーナウィーのそれに比べれば、関心の度合いの差は歴然である。クーナウィー的学問論路線が大々的に展開・深化しだすのは、14 世紀の後半にいたってようやくというのが、実情そもそもこの時代より前には、クーナウィーの名前自体がほとんど言及されない(権威化以前ということか)。

ただし、カーシャーニーとカイサリーがアヴィセンナ系哲学を一切受容しなかった、というわけではない。カーシャーニーは哲学的何性分析の文脈でもちいられていた様相論の区分(bi-šarṭ šayʾ / bi-šarṭ lā / bi-lā šarṭ)を自身の存在分析に転用しているし(* これが彼の創意がどうかは未確認)、カイサリーは時間論の分野で詳細な哲学批判(私はこれも一種の「受容」とみる)を行っている。また時代的に二人のあいだか、もしくはカイサリーと同時代に位置するとみられる著者不詳の論考『プラトン的知性的形象』(al-Muṯul al-ʿaqliyya al-Afālṭūniyya)―「形象」あるいは「形相」をめぐる当時のさまざまな議論を網羅的に収録したドクソグラフィ―の記録からは、カーシャーニーやカイサリーよりも高度な哲学的存在論を発展させていた一性論者の活動の痕跡が見てとれる。つまり 13 世紀後半から 14 世紀前半において、哲学の受容はそれぞれの論者が個々の関心にもとづいてすすめていたが、「一性論の学問的体系化」という方向には関心が向かわなかった、ということである。

14 世紀後半からはじまるクーナウィー的学問論路線の継承。具体的には、ハイダル・アームリー(1385 年以降没)、モッラー・ファナーリー(1431 年没)、イブン=トゥルカ(1432 年没)らに、その傾向性は顕著にみてとれるが、では、そもそも何故この時代にクーナウィーへの注目が起こったのか?ただひとつの原因を確定しようとするのは歴史学的に正しいスタンスではないだろうが、それでも最大の要因のひとつと考えられるのが、当時のイスラム圏全域を席巻していた、いわゆるオカルティスト・ムーヴメントである。14 世紀後半以後のイスラム圏では、魔術や占星術、数秘術、錬金術をはじめとする「オカルト的な知」を探究・実践する学者のネットワークが広大な地理的領域に拡がり、これが当時の終末運動とむすびついて、大きなうねりを作っていた。ここにファナーリーやイブン=トゥルカのような一性論者も身を投じていく。

* ただし、このネットワークの存在は同時代史料からほとんど裏づけられないようで、これを認めるかどうかが史料論上のひとつの(かなり決定的な)立場表明になるもよう。個人的には、外部史料がそれを実体として「ネットワーク」視していなくても(そもそもネットワークって、そういうものではないはず)、誰がいつどこで誰のもとでオカルト諸学を学び、そこで誰と知りあって云々という事実自体は史料的に裏づけられる場合があるわけで、これがまさにネットワークが存在した証拠なのではとおもう。ちなみに最近の研究では「14 世紀後半以後、オカルト諸学はもはやエソテリズム(秘教的知)ではなくなり、社会の表層で堂々と実践され、イスラム的にも正当化されだす」といったような指摘がなされているが(メルヴィン=クーシュキーによるギュンター / ピーロウ本への書評 265-67 頁[第 10 章のまとめ部分]を参照)、ここまで十把一絡げに論じてよいのか、秘教性をたもったオカルティズムが本当に存在しなくなったのかどうかは、要検討。

こうして、この時代の一性論者はクーナウィー的学問構造論をものしつつ、占星術や数秘術、さらには錬金術的モチーフまで複雑に交錯させた世界観を紡ぎだす。その「紡ぎかた」に、我々は注目しなければならない。彼らはイブン=アラビーと最初期のフォロワーがのこしたオカルティスト的諸著作から膨大に引用しつつ、自身の議論を作りあげる。イブン=アラビー自身は 12 世紀後半のイベリア半島出身で、同時代当地の星辰魔術伝統の濃密な影響下にある。当代きってのオカルティストと言ってよい(『賢者の目標』[Ġāyat al-ḥakīm]=『ピカトリクス』のアラビア語原典がラテン語訳されたのは、他ならぬ 12 世紀のイベリア半島である)。それを継承するかたちで、14 世紀後半以後の一性論者は占星術的・数秘術的・錬金術的議論を展開するのである。

先にカーシャーニーやカイサリーのような 13 世紀後半から 14 世紀前半に活動した一性論者について言及した。彼らがクーナウィー的学問論に大きな関心を払わず、個々に異なる哲学的議論をのこしているとは、説明のとおりだ。そのなかで存在一性論の体系化は徐々にすすみ、いわゆる存在五次元説(元はクーナウィーが提出した説だが)を中心とする、イブン=アラビー派の中心的諸学説が整備されていった(* その形成史にかんする先行研究は、サーヴェイしなおす必要有)。重要なのは、ファナーリーやイブン=トゥルカと異なり、彼らの議論にはオカルティスト的要素がほぼ見られないということである。おそらく彼らはイブン=アラビーや最初期のフォロワーにみられたオカルティズム(をはじめとする多様な要素)を、一性論体系化のプロセスのなかで、いわば不要な夾雑物として濾過していった。そこに 14 世紀後半、先述のオカルティスト・ムーヴメントが興るわけだ。何がおこるか。マージナライズされていた占星術的・数秘術的・錬金術的諸議論が復活する。典拠となるのは、当然というべきか、イブン=アラビー自身のオカルティスト的諸著作、そして最初期のフォロワーの注釈(特にムアイヤドッディーン・ジャンディー[1300 年頃没]の『叡智の台座注釈』)である。なぜならこれらの著作群のなかでは、まだオカルト的知がマージナライズされずにのこっているからだ。

このような背景のもとで、14 世紀後半から 15 世紀前半の一性論者は、イブン=アラビーと最初期のフォロワーを「再生」させた。そしてそこには、言うまでもなく、の義理の息子クーナウィーという、一性論の学問的体系化を企てた張本人がふくまれていた。14 世紀後半以後のクーナウィー的学問論路線の再発見とさらなる深化は、おそらくオカルティスト・ムーヴメントの隆盛を最大の契機のひとつとして起こった、あるいは少なくともそれと軌を一にする、すぐれて同時代的な現象だったのだ。

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