Donnerstag, 13. Februar 2014

ファズルオール「15世紀オスマン朝における宗教・政治・哲学・科学」

Fazlıoğlu, İ“Historiographical Introduction to the Fifteenth Century. The Islamic Perspective. An Age of Exploration. Forcing the Boundaries in Religion, Politics and Philosophy-Science in Fifteenth Century”. Paper read at the Conference: Before the Revolutions. Religions, Sciences and Politics in the Fifteenth Century, 13-15 January 2005, Berlin.

ひきつづき、Fazlıoğlu の研究です。今回紹介するのは、15 世紀(そして部分的には 16 世紀後半くらいまでの)オスマン朝における政治権力と哲学・科学・神学などのさまざまな思想潮流との関係を概観した発表原稿です(本文はこちらのページで読めます)。発表原稿ということで、注はほぼ皆無なので、書かれている内容すべてが信頼に足るかどうかはわかりませんが、いちおう簡単に内容をまとめておきます。

オスマン朝スルタンのメフメト 2 世がコンスタンティノポリスを征服し、環地中海世界に「征服者」の名をとどろかせたのは、1453 年のことです。彼が征服先のビザンツの文化を積極的に吸収し、宮廷内でギリシア語・ラテン語の古典作品がそのまま、あるいはアラビア語訳・トルコ語訳などを介したりもしつつ、広く読まれていたことは、以前にもこのブログで紹介しました(こちらの記事を参照)。彼はモッラー・ホスロウ(1480 年没)やアフマド・クーラーニー(1488 年没)といったムスリム学者からイスラム諸学を学びつつ、まだスルタンとして即位する前からイタリアの人文主義者たちを宮廷に招き、ギリシア世界・ラテン世界の歴史についても手ほどきを受けていました。

ただしこのようにオスマン朝領内でキリスト教文化圏(とりわけここではビザンツ)との交流がはじまったのは、君府征服以前からのことでした。オスマン朝が帝国と呼ぶにふさわしい勢力を獲得していくなかで、ビザンツの学者たちはイスラム教徒との融和の道を模索していきます。14 世紀前半のグレゴリオス・パラマス(1359 年没)がその先駆だそうですが、本格的にこの試みに着手したのはゲミストス・プレトン(1450/52 年没)でした。彼はパラマスの仕事を補完しつつ、新プラトン主義の体系を援用することで、キリスト教とイスラム教の双方を(一方を他方に還元することなく)統合的に把握できると考えます。そうしてブルサやエディルネにあるオスマン朝の宮廷を訪問し、スーフィーの修道場なども見てまわるなかで、彼は興味深いことに、同朝の存在一性論派がすでに自らのその試みを実現していたと認識したのだそうです(この点、何を典拠にしているのか非常に知りたいのですが、注はありません)。存在一性論は、ビザンツ末期のプラトン主義者によって、一種の新プラトン主義哲学として認識されていたわけです。

しかしオスマン朝領内で影響力をほこったプラトン主義的思潮は、存在一性論だけではありませんでした。遠く中央アジアのサマルカンドで生み出された数学的・天文学的な知は、15 世紀前半頃にはオスマン朝下アナトリアでも受容されていきます(本格的な受容は先日のポストでも書いたとおり、15 世紀後半からですが、それ以前にも部分的な受容はあったとのこと)。そして彼らの知の背後にあったのが、プラトン主義的な宇宙観です。同朝の学問領域には、それが数学・天文学をいわばチャンネルとして受け継がれていきました。さらに当時のオスマン朝では、おそらくヒジュラ暦 1000 年を目前(といっても、そこまで「目前」ではないが)にひかえた千年王国思想ともあいまって、プラトン主義的・ピュタゴラス主義的な傾向をもつ meta-religious な数秘術思想も活発な活動を展開していました(当時の千年王国思想と数秘術との関連については、たとえばこちらの記事を参照)。

このような時代を生きたメフメト 2 世は、アリストテレス哲学やストア派哲学、古代末期のアレクサンドリア学派の数学(特に幾何学・天文学)などにも関心をよせていましたが、やはりプラトン哲学に対して一方ならぬ携わりかたをしていました。彼がプラトンのイデア論の諸相を学んでいたということは、著者不詳の『プラトン的知性的形象 al-Muṯul al-ʿaqliyya al-Aflāṭūniyya』を彼が熱心に読みこんでいたという事実から確証されます(なお彼の実際に使用していた写本は、Ms. Ayasofya 2455[ヒジュラ暦 740 年書写]として現在スレイマニイェ図書館に所蔵されています;ちなみにこの写本は後に彼の息子のバヤズィト 2 世も同様に使用したとのこと)。興味深いのは、このようなプラトン哲学への関心から、彼は自らをプラトンの哲人王になぞらえていた節があるということです。

例えば彼に献呈された『王国の政治と意思の倫理 Kitāb as-siyāsa al-mulūkiyya wa-l-aḫlāq al-iḫtiyāriyya [?]』(トルコ語なまりの転写しかあげられていないので、正確な原題は不明)と呼ばれる著作があります(著者不詳?[Ms. Ayasofya 3990 / ヒジュラ暦 875 年に Aḥmad al-Qudsī なる人物により書写])。この著作中で、著者はプラトンの発言(政治学と倫理学に関わるものが中心)を引用しては、それをメフメト2 世に重ねるということをしています。そうしてこの著作中で、メフメト 2 世は世界帝国統治にふさわしいプラトン的哲人王であるということが主張されます。同様にトレビゾントのゲオルギオス(1486 年没)やミカエル・クリトブロス(1470 年頃没)らも、メフメト 2 世を知性と哲学によって統べられる、来たるべき世界帝国の王として描いています。Fazlıoğlu の論述からでは、メフメト 2 世自身が哲人王を自称していたかどうかはわかりませんが、少なくとも彼の周囲の人間たちは彼をそのように表象していた(あるいは持ち上げていた)ようです。

このように初期オスマン朝では、プラトン主義的傾向をもつさまざまな潮流が盛んに活動を展開していました。存在一性論、サマルカンド学派の数学・天文学、秘教的数秘術、そしてビザンツから来たプラトン哲学。これらすべてが醸成した広い意味での一種のプラトン主義的な雰囲気ともいうべきものが、メフメト 2 世の世界帝国統治の理念形成に一定の寄与をなしたとは言えそうです。

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