Freitag, 30. März 2012

デミルリ『サドルッディーン・クーナウィーにおける知識と存在』(第1章:クーナウィーにおける学問理解と神学)

Demirli, E., Sadreddin Konevi’de bilgi ve varlık, İstanbul: İz, 2005, 63-73 [I. Konevî'nin ilim anlayışı ve metafizik].

クーナウィー(1274年没)の存在論と知識論を現状でもっとも包括的に論じたと考えられる研究です。博論第1章ではファナーリーの学問論を扱う予定なので、今回はそこからクーナウィーの学問論を主題的に取り上げた第1章だけを読みました。クーナウィーは『玄秘の鍵Miftah al-ghayb』冒頭部で「学問('ilm / 'ulum)」に関する考察を行っています。彼が意図していたのは、「神学(al-'ilm al-ilahi)」という1つの学としての存在一性論の確立。そしてその際に彼が援用するのが、アリストテレス『分析論後書』に端を発する逍遥学派学問論です。個人的にはクーナウィーが学問構造についてどのような議論を展開しているか(特に「原理(mabadi')」を当該の学において探究できるとしていたかどうか)知りたかったのですが、残念ながらこの部分に関する議論はさほど深まっていませんでした。今回は読んでいて興味をひかれた彼の学問分類論に関わるところだけをまとめておきます。

クーナウィーは『玄秘の鍵』中で諸学を2通りの仕方で分類しています。1つはアヴィセンナ的な理論的(nazari) / 実践的('amali)の区別に対応する分類。クーナウィーによると、諸学は実践('amal)を目標(ghaya)とするかしないかという観点から二分することができるといいます。前者は義務行為や禁止行為といった神の法判断(ahkam)や聖法的諸実践、倫理的諸性質(akhlaq)などを対象とする学に、後者は真実在と世界との関係を対象とする神学のような学に、それぞれ代表されます(ただし後者の学は実践を目標とはしないだけで、必要とはするのだとか)。もう1つの分類は質料に対する主題の依存度という観点からの分類。クーナウィーによると、諸学は主題が(1)質料中でしか実現しえないような学、(2)質料中で実現することもあれば質料から離存することもあるような学、(3)質料中では実現しえないような学に三分されるといいます。このうち(1)はさらに主題が(1-a)絶対的な意味での質料中で実現している学と(1-b)特定の質料中で実現している学とに二分されます。(1-a)は数学、(1-b)は自然学に対応し、(2)は諸神名・普遍的諸実相(生・知・一性・多性・単純性・複合性など)に関する学、(3)は神学(Metafizik)を指します(ただしDemirli はal-'ilm al-ilahi [神学(=存在一性論)]をMetafizik と訳しているので、ここでのMetafizik がアヴィセンナ的な意味での形而上学なのか、それともDemirli がそれと理解するal-'ilm al-ilahi を指すのかはよくわかりません)。これらをわかりやすく図示すると、次のようになります。

[I. 実践が目標であるか否かの分類]
 1. 実践が目標の学(例:神の法判断や聖法的諸実践、倫理的諸性質などを
  対象とする学)
 2. 実践が目標ではない学(例:神学)

[II. 質料に対する主題の依存度という観点からの分類]
 1. 主題が質料中でしか実現しえない学
  1-a. 主題が絶対的な意味での質料中で実現している学(=数学)
  1-b. 主題が特定の質料中で実現している学(=自然学)
 2. 主題が質料中で実現することもあれば質料から離存することもある学
  (=諸神名・普遍的諸実相に関する学)
 3. 主題が質料から離存している学(=神学)

ここで興味深いのは、こうした学問分類論に対して注釈を付す際にファナーリーはクーナウィーとまったく異なる分類を提示しているということです。たしかにファナーリーも『親密の灯』「普遍的神秘の開示章」第1章第12根源(=形象について論じた箇所)において、質料に対する主題の依存度に基づいた学の分類を提示してはいます。しかし学問論自体を論じた「諸言」部で彼が提示する分類は、預言者のハディースに基づいた分類と人間知性による認識可能性という観点に基づいた分類の2つです(「ファナーリーの学問論1」参照)。しかも後者の分類はわざわざクーナウィーの別の著作(『闡明の書簡al-Risala al-mufsiha』)からとってきています。現状ではあまり確たることは言えませんが、おそらくこのあたりのちがいこそ『玄秘の鍵』と『親密の灯』という2つの著作間のスコープのちがいを示しているのではないでしょうか。

今回読んだ第1章はクーナウィーの学問論分析と銘打っておきながら、何故か彼より4-5世紀も後代のハーッジー・ハリーファ(1657年没;『疑惑の解明Kashf al-zunun』)や、タハーナウィー(1745年頃活躍;『学術用語の解明Kashshaf Istilahat al-funun』)といった学者の議論に多くのページが割かれていました。関連領域に関するクーナウィーの発言自体がまとまったものではないので、扱うとするとこうならざるをえないのかもしれませんが、それでもやはりやるからには後続の学者との比較ではなく、先行する学者との比較をしてほしかったし、くわえて以前から知りたかった問題(神学と諸神名・普遍的諸実相に関する学とのちがいなど)については、ほとんど何の解答も与えられておらず、骨折り損の感は否めません。しかしこれとは対照的に、つづく第2章(75-99; 「神学」)では、クーナウィーに先行する存在一性論者や、ファーラービー、アヴィセンナといった哲学者の議論を紹介しつつ、より直接的に神学という学に関する分析に入っていくようです。期待しつつ読みすすめていくことにします。

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