Donnerstag, 26. April 2012

デミルリ『サドルッディーン・クーナウィーにおける知識と存在』(第2章:形而上学[神学])

Demirli, E., Sadreddin Konevi’de bilgi ve varlık, İstanbul: İz, 2005, 75-99 [II. Metafizik (İlm-i İlâhî)].

前回の第1章につづいて、第2章を読みました。第1章では「学問」一般に関する議論が扱われるのに対し、第2章では「神学」(Demirli の用語法では「形而上学」)そのものに関する議論が直接扱われていきます。論述がかなり徒然なため、論旨を把握するのがきわめて困難なのですが、以下、私が理解しえた限りで、再構成して内容をまとめておきます。

本章でDemirli はまず、キンディーとファーラービー(特にファーラービー)を例に、アラビア哲学史において「形而上学」(あるいは「第一哲学」)という学がどのようなものとして規定されてきたかを概観します。アヴィセンナが形而上学にOntologyC / OntologyP / OntologyS という3つの側面を認めているように(cf. Bertolacci, The Reception2006])、彼らもまた形而上学にいくつかの側面を認めています。それらをわかりやすく図式化すると、次のようになります(ただしDemirli 自身の口ぶりから推測するに、彼の列挙は網羅的なものではないのかもしれません;また本書はBertolacci[2006]よりも前に発表された研究なので、彼による上記の3分類を関連づけた議論は本書中ではなされていません)。

[分類K:]キンディーの第一哲学(『第一哲学』)
 1) あらゆる実在(?)の原因である第一の実在(?)に関する学[= OntologyC]
 2) 自らのあとにくる全ての知識を包括するような学[= OntologyS(?)]
 3) 不変のものに関する知識を与える学(自然学は変化するものに関する知識を与える)

[分類F:]ファーラービーの形而上学(『諸学の列挙』)
 1) 諸存在およびそれらが存在である限りにおいて有する諸様態を探究する学[= OntologyP]
 2) 理論的諸学を構成する証明の原理を探究する学(全ての学が依拠する諸原理を確定する学)
     [= OntologyS]
 3) 物体でもなければ物体の内にもない諸存在を探究する学
 4) 神と神の諸行為についての誤った信念・信仰を確実な証明によって正す学
  (何としても信仰を勝利させるための学ではないという点で思弁神学[kalam]とは異なる)

それではクーナウィーは形而上学について、どのような規定をしていたのでしょうか。まずDemirli によると、クーナウィーは同学を「全ての学を包括する根源的なレベルにある」と語っており、これがF2[= OntologyS]の側面に対応するのだと言います(とすれば、K2 とも対応しそうです)。さらにDemirli はクーナウィーによる質料に対する主題の依存度という観点からの学問分類を参照し、主題が質料から離存している学(II-3; 前回のポストを参照)としての形而上学をF3 と関連づけています(とすると、非質料的なものは変化しないはずなので、K3 とも対応するはずです)。このようにDemirli の議論によれば、クーナウィーはキンディーとファーラービー(そしてアヴィセンナ)によって代表されるアラビア哲学的形而上学観のうち、K2 = F2[= OntologyS]とK3 = F3 の側面を受け継いでいるということになります。ただしクーナウィーは明らかに形而上学において存在である限りでの存在について論じているし、また彼が同学において第一原因としての神について論じていないとは私には思われないため、彼がK1[= OntologyC]やF1[= OntologyP]の側面をも受け継いでいる可能性は否定できないように思います。

いずれにしても、アラビア哲学におけるこのような形而上学観を受け継ぎながら、クーナウィーは形而上学のことを、さまざまな名で呼びます。以下がDemirli の挙げるそのヴァリアントです。

クーナウィーにおける形而上学の呼び名
 1) 神についての真知(ma'rifat Allah)
 2) 主に関する学(al-'ilm ar-rabbani)
  3) 諸実相に関する学('ilm al-haqa'iq)
 4) 真理探究(tahqiq)
 5) 真理探究の学('ilm at-tahqiq)

まずDemirli は「神についての真知」(=1)を神学(al-'ilm al-ilahi)の意であると理解します。神学とは神と神的なものについて知ることを意味するが、「神についての真知」もまた同様に神と神的なものについて知ることを意味するのだ、と(これはもしかするとK1 = OntologyC と対応するのかもしれません)。次に彼はアヴィセンナが形而上学を「自然的存在と数学的存在の第一の原因、諸原因の原因、諸原理の原理に関する学」(OntologyS[= K3 = F3])と呼んでいることを指摘し、これにクーナウィーの「諸実相に関する学」(=3)が対応すると論じます。何故なら(Demirli自身は明言していませんが)クーナウィーの言う「諸実相(haqa'iq)」とは、あらゆる顕現物が形而上に有する原因・原理のようなものだからです。従ってクーナウィーにとって形而上学とは、単に神と神的なものに関する知識を与える学(=1)なのではなく、むしろ神が顕現することによって現れた諸物の本質ないし諸実相に関して究極的な知識を与えてもくれる、そういった学だということになります。そしてこのような確実な知に到達するための学という側面からつけられた名が、「真理探究(の学)」(=4 & 5)です。

それではこうした真理探究の学としての形而上学はどのような構造を有する学だったのでしょうか。クーナウィーはこの点を明らかにするために、哲学的な学問論を援用します。彼によれば、真理探究の学にはそれ固有の「主題」「原理」「問題」があります。まずは主題から見ていきます。周知のとおり、アヴィセンナは形而上学の主題を「存在者である限りでの存在者」と設定します。彼はその際、これを真実在(あるいは神)の存在と設定する人々を批判します。彼によれば、主題とは当該の学において自明のものとして受け入れられるものです。つまりまず自明なものとして受け入れられ、しかる後にその諸様態が探究される、そういったものがその当の学の主題とされるのです。しかしそうであるならば、神の存在は形而上学の主題ではありえないとアヴィセンナは論じます。何故なら神の存在を否定する者たちがいる以上、神が存在するという事実は我々人間にとって自明ではないからです。アヴィセンナにとって神の存在とはあくまで形而上学の探究対象、つまり問題であると見なされるのです。クーナウィーはこうしたアヴィセンナの議論とは異なる路線をとります。彼によれば、真理探究の学に固有の主題とは「真実在の存在(wujud al-haqq)」(あるいは「存在(wujud)」ないし「真実在(al-haqq)」とも)とされます。ただしこれは(またしてもDemirli自身は何も言っていないのですが)、クーナウィーが真実在の存在を自明なものと見なしていたという意味ではありません。むしろ彼は主題論自体を改変して、ある学の主題の実相はその当の学において探究されるとします(Miftah,[4],9)。つまりクーナウィーは真理探究の学の主題を真実在の存在と設定し、しかもそれを同学それ自体のなかで探究するという路線をとるのです。では何故クーナウィーはこのような道を選んだのか。この点に関して、Demirliは何も語っていません。少なくともvan EssやEichnerらの研究を参照した限りでは、思弁神学の領域でも主題を神の存在とするかどうかをめぐって見解の対立があったようで(cf. van Ess, Die Erkenntnislehre[1966],40-44)、クーナウィーの路線もこのあたりの議論と何らかの関係があるものと推察されます。

次に原理について見ていきます。アヴィセンナは形而上学の原理とは自明な概念および論理命題だと言います。ある学の原理とはその学において使用される概念、および(自明かどうかはさておき)真であると受け入れられる判断(つまり命題)であり、それらは当該の学よりも上位の学において探究されると考えられます。ところが形而上学よりも上位の学など存在しません。従ってアヴィセンナは一切の定義ないし証明が必要とされない自明な概念および命題こそ形而上学の原理であると言うことになります、たしか(このへんの議論について、Demirliは一切言及していません)。それに対してクーナウィーは、真理探究の学の原理となるのは神名に関する知識だと言います。原理が神名であるというのは、先の主題論とは打って変わり、哲学的な形而上学観から大きく隔たっているように見えます。何故クーナウィーはこのような「原理」設定を行ったのでしょうか。それは真理探究の学の「問題」設定と密接に関わっています。アヴィセンナは形而上学の問題を、主題である「存在者である限りでの存在者」が自体的に有する付帯性だと考えます。問題とは探究対象の意であり、要するに形而上学においては「存在者である限りでの存在者」がどのような付帯性を自体的に有するかが探究される、とアヴィセンナは考えるわけです。それに対してクーナウィーは、真理探究の学の問題となるのは世界に対する真実在のつながりと真実在に対する世界のつながり(およびこれら2つのつながりについてどこまで知ることができて、どこから先は知ることができないかの線引き)だと言います。乱暴な言い方をすれば、「一者論(Henology)」です。ただし完全無限定な絶対性の観点から捉えられた真実在は世界と何らのつながりももたない超越者。彼は世界とつながるためには、一段(あるいは数段?)下位のレベルにまで下りてこないといけません。では、このように真実在が世界とつながりをもちうるレベルというのは、どのようなレベルなのか。クーナウィーはこれこそ神名のレベルだと言います。神名は真実在と世界とのあいだのつながりとして機能するのです。つまり一なる真実在と多なる世界とがどのように関係しあうのかという問題を探究するために、その原理として神名に関する知識が要請されるというわけです。

クーナウィーはこうした神名に関する知識を、神秘主義的な修行の末に得られる啓示ないし直観を通じて獲得されると考えます。ところがここで1つ重要な問題があります。それは得られた直観の正しさをいかにして測るかという問題です。正しい直観が得られなければ、神名に関する正しい知識も得られません。はたしてクーナウィーは直観の秤を何に求めるのでしょうか。結論を言えば、彼が直観の秤と考えるのは「知性と聖法、そして正しい開示によって受け入れられる真理探究の諸原理」だとされます。ただしこのあたりの議論はトルコ語の意味がよくわからず、この諸原理が具体的に何を指すのか把握できていません。もしかすると『玄秘の鍵』「総括的序論」冒頭部で言及される10の原則(qawa'id)のことを指しているのかもしれませんが、要再読です。

今回読んだ第2章は前回の第1章に比べると、クーナウィーの議論が格段にきちんと取り上げられており、さらにイブン=アラビーやカイサリーの関連する議論も随所で引かれるなど、とても勉強になる内容でした。とはいえ、問題の性質上仕方がないことなのかもしれませんが、やはり期待していたほどには議論が深まっておらず、例えば神名と実相の関係などについては一切言及がありませんでした。またアラビア哲学との関係も冒頭で軽く扱われるだけで、その際、欧米で出版されている先行研究は全くと言ってよいほど参照されないという驚きの事実。またしても苦労したわりには得られるものが少なかった気がしますが、つづく第3章(101-64; 「形而上学の基礎づけ」)と第4章(165-85; 「直観という手段の結果(?)」)では神秘主義的知識論が論じられるようです。気合いで読んでいく必要がありそうです。

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