Montag, 9. Februar 2015

メルヴィン=クーシュキー「初期ティームール朝イランにおける哲学・メシア主義への挑戦:イブン=トゥルカの新たな形而上学としての文字学」

Melvin-Koushki, M. (2014): “The Occult Challenge to Philosophy and Messianism in Early Timurid Iran. Ibn Turka’s Lettrism as a New Metaphysics”. In: O. Mir-Kasimov (ed. [2014]): Unity in Diversity. Mysticism, Messianism and the Construction of Religious Authority in Islam (Islamic History and Civilization 105). Leiden: Brill. 247-76.

サーイヌッディーン・イブン=トゥルカ・イスファハーニー(1432 年没)の神秘的文字学に関して、近年精力的に研究を進めている Melvin-Koushki の最新の一本です。内容的にはおそらく(通読していないので断言はしかねますが)浩瀚な博士論文の一部を要約し、まとめなおしたもので、そのせいか論述はかなり冗漫になっています(なお本論文はこちらから、博士論文はこちらから、それぞれ DL 可)。くわえて彼の英語は教養に満ちあふれていて、読むのが大変なため、今回は著者の主張をすみずみまでくみつくすことができていません。以下のまとめは、私が理解しえたかぎりでの、おそらく私の個人的関心に引きずられた再構成です。

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ちなみに彼の研究の根底には既存の思想史叙述に対する強烈な不満があります。たとえば本論文中でも「神学者や法学者のあいだでのアヴィセンナ哲学の受容」というかぎられたテーマだけで、後期の思想史を論じてしまう Gutas / Eichner 的アプローチを、オリエンタリスト的バイアスのかかった歴史叙述と、彼は切って捨てています(p. 270, note 78)。こうした彼の信念については、自身が博論序論部でかなりわかりやすく論じている(と記憶している)ので、まずはその序論部をまとめた以下の記事を読んでから、本記事を読み進めるといくぶん理解が容易になるかもしれません。

関連ポスト:メルヴィン=クーシュキー「イブン=トゥルカにおけるオカルト哲学と初期ティームール朝イランの知的千年王国思想」(序論)
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イスラム圏における神秘的文字学の端緒は、最初期のグラート、つまりシーア派の極端派が奉じていたメシア思想の内に見出されます(なお彼らは古代末期のヘレニズム的グノーシス主義 / プラトン主義からの影響を色濃く受けていたとのこと)。その後 9 世紀半ば頃になると、一方ではスーフィーたちの神秘的・象徴的な瞑想の内に、他方ではジャービル・イブン=ハイヤーンの名を冠した一連の著作群がもつ「オカルト的混淆主義 / 実験主義」(occult syncretism and experimentalism)の内に現れるようになり、さらに 10 世紀になると、今度は純潔同胞団(イフワーン・サファー)の新プラトン主義 / 新ピュタゴラス主義的な百科全書の内に現れてきます。13 世紀に入ると、一方でイブン=アラビー(1240 年没)やサアドゥッディーン・ハムワイー(1252 年没)といったスーフィーらが提示する「ラディカルな理論」(radical theory)のなかで、他方で魔術師アブルアッバース・ブーニー(1225 年没?)による「ラディカルな実践」(radical praxis)のなかで、それぞれ成熟した姿を見せはじめます。そして 14 世紀になると、サイイド・フサイン・アフラーティー(1397 年没[イブン=トゥルカの師])がブーニーの実践的な文字学を受け継いでいきます。

ところで中世末期および初期近代という時代の中近東地域は、ヒジュラ暦 1000 年を目前に控え、一種の千年王国思想に沸き返っていました。おそらくこうした時代状況も影響し、14 世紀以降の文字学は最初期グラート思想内におけると同様、ふたたびメシア主義的傾向を取り戻すことになります。その最たる例が、ファドルッラー・アスタラーバーディー(1394 年没)が創設したフルーフィー教団です。彼らはアスタラーバーディーを到来したメシアと見なし、革命の言語としてペルシア語を重視し、さらには「ポスト・イスラム期」の到来をも宣言しました。ただしイブン=トゥルカの文字学は、14-15 世紀という時代にあって、このようないわばプリミティヴなメシア主義に終始するものではありませんでした。文字学の歴史をみれば了解されるとおり、この学は自らの発展のなかで形而上学・宇宙創世論・自然学・錬金術・占星術・魔術といった、きわめて広範な領域を包括的に探究しうる学となっていました。イブン=トゥルカが構想する「新たな形而上学としての神秘的文字学」という学的企図は、文字学そのものが獲得してきたこの種の包括性を背景にもつのだそうです。

イブン=トゥルカによれば、真に「形而上学」の名に相応しいのは文字学であって、アリストテレスに由来する「自然の後にあるものについての学」などでは決してないのだといいます。何故なら(イブン=トゥルカの理解では)哲学は普遍的なものどもしか探究せず、歴史叙述や天文学、錬金術といった個別事象に関わるものどもを探究対象から除外するけれど、文字学は普遍も個別もすべて引っくるめて扱う、宇宙に存在する万物を探究する学だからです。なお一口に「文字学」と言っても、その内実は一枚岩ではなかったという事実は、イブン=トゥルカ自身も認めています。彼によれば、文字学の実践者たちは(a)文字のもつオカルト的諸特性のみに関心をもつ「諸特性の徒」(ahl-i ḫawāṣṣ[ブーニーに代表される])と(b)文字の根底にある諸実相ないし背後にある諸内実とそれらの有する普遍的知識(ʿulūm-i kulliyya)をも探究する「諸実相の徒」(ahl-i ḥaqāyiq)とに二分されるのだそうですが、彼が与するのは後者のグループのみのようです(ちなみに上述のとおり、彼の直接の師であったアフラーティーはブーニーの実践的文字学を受け継いだ人物ですが、イブン=トゥルカはこの師の学説すら終始拒絶しているのだとか。彼が自身の文字学の直接の主要典拠と考えているのは、イブン=アラビーとハムワイーだそうです)。

それでは彼の構想する新たな文字学とは、一体いかなるものだったのでしょうか。彼によれば、それは「全顕現の諸根源が一者にあることを論証し、そこから多性が発生してくる機序を図式化すること」(p. 264)を目的とした学です(cf. al-Mafāḥiṣ)。一見、これは彼が Tamhīd al-qawāʿid などで論じているイブン=アラビー派の存在一性論そのもののようにも見えますが、内実は別物と彼は主張します。何故なら絶対存在を探究対象と措いたときに必然的に紛れ込んでしまう「存在か非存在か」というある種の「二性」から、「文字」を探究対象として措くことで逃れられるからだそうです。(私はこのような理解は一面的で誤っていると考えますが)以上のような議論を通じてイブン=トゥルカは自身の文字学を、一方では既存の文字学と一線を画する新しいものとして提示し、他方ではさらにこれを自らの奉ずる存在一性論よりも、さらに高次な学として提示することができたわけです。

そして彼はこの文字学の優越性をイマームの血統を頂点とする、カッコ付きのシーア派的階層構造によって、基礎付けます(イブン=トゥルカ自身はスンナ派です)。彼によると、人類(というかイスラム教徒?)は次のような序列に従って階層化されています。

  (1)アリーとイマームの系譜に連なる人々(ūlū l-aydī wa-l-abār
  (2)文字学徒(ramz-ḫwānān-i ḥurūf-i Qurʾānī / arbāb-i ʿilm-i ḥurūf
   [おそらく先の文字学徒の二分類のうち、後者のみを指す]
  (3)真理を探究するスーフィー(muḥaqqiqān-i ūfiyya / ahl-i šuhūd
  (4)照明学派の哲学者(ḥukamā-yi qadīm
  (5)逍遥学派の哲学者(ḥukamā-yi āhir va mutaʾaḫirān
  (6)弁証術を用いる神学者(mutakallimān
  (7)法学者と伝承学者(ahl-i āhir

一見してわかるとおり、文字学徒にはイマームの血統を保有する「力とヴィジョンの人々」(ūlū l-aydī wa-l-abṣār)に次ぐ高次の位階が与えられています。気になるのは(1)と(2)の関係性ですが、このあたりはイブン=トゥルカの議論自体が不明瞭なようで、著者の論述も非常に歯切れが悪いです。著者曰く、おそらくイブン=トゥルカの言いたいことは「(1)の人々が隠れた状態で保持している知を、(2)の人々が解き明かす」というようなことなのだとか。なお彼はこの種の 7 階層構造を別の箇所でも示しているらしいのですが、そこでは(1)の人々は(a)「預言者ムハンマドの家族」maḥramān-i aramsarā-yi ḫatmī(b)「イスラム教徒の完全なる聖者たち、および古代の賢者たち(ḥukamā-yi qadīm)のうちで、(a)の人々が残した謎めいた言葉の真意を解き明かすことができる人々」という 2 つのグループから成り立っているとされているそうです(ちなみに「古代の賢者たち」としては、アナクサゴラス、ピュタゴラス、ソクラテスの 3 人が預言者ソロモンの弟子ないし従者として言及されているもよう)。うーむ、この議論を煩雑かつ意味不明と感じてしまうのは、私だけでしょうか?

ともあれ、こうしたイブン=トゥルカの試みは(少なくとも彼自身の試みは)、挫折に終わってしまいました。彼が生きた時代は、シャー・ルフが「東西イラン」を自身の統治下に置こうと画策し、さらに同地域の宗教界(religious scene)をもスンナ派主義でまとめて支配しようと企図していた、そういう時代でした。イブン=トゥルカは、当時力を増していたフルーフィー教団やナクシュバンディー教団といったメシア主義的傾向をもつ勢力とのつながりを疑われ、結局前者に属するアフマデ・ロルがシャー・ルフ殺害を企てた 1427 年、公職を追われ、財産を没収され、投獄・拷問ののち、ヘラートから追放されてしまいました。彼自身はシーラーズとヤズドという 2 つの都市でシャーフィイー学派の法官として活動しており、さらにフルーフィー教団に対しては自ら痛烈な批判をくわえていた、にもかかわらずです(pp. 249-50)。

果たしてイブン=トゥルカの文字学構想は、彼の死をもって潰えてしまったのでしょうか?それとも後代、何らかのかたちで受け継がれ、命脈を保っていたのでしょうか?詳細は不明ですが、現在判明しているかぎりでは、上で紹介した照明哲学に関する彼の言及は 17 世紀インドで活動したアーザル・カイヴァーンによる重要な「擬ゾロアスター教文献」 Dāstān-i mad̲āhib(1645-58 年に執筆)のなかに、そのままのかたちで引用されているのだそうです(p. 259, note 41)。今後は初期近代以降に著された現存する膨大な文字学写本群をていねいに読み解いていくことが、歴史家たちの課題になりそうです。

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