Mittwoch, 12. Juni 2013

アイヒナー「アヴィセンナ以後の哲学伝統とイスラム正統派」(第11-12章):「神学」の主題論の展開(ラーズィーからタフターザーニーへ)

Eichner, H.: “The Post-Avicennian Philosophical Tradition and Islamic Orthodoxy. Philosophical and Theological Summae in Context, Habilitationsschrift, Univ. Halle, 2009, 275-341.

アヴィセンナ(1037 年没)以降のアラビア哲学とイスラム神学(および法源学)のあいだに見られる重層的な関係性を論じた未公刊教授資格論文から、「神学」の主題論の展開を扱った第 11-12 章を読みました。「神学」とは、一方では al-ʿilm al-ilāhī(哲学における神学もしくは形而上学を指す)の訳語になりながら、他方では kalām(イスラムの護教的思弁神学を指す)の訳語にもなるきわめて厄介な語。ただしこれは何も中世アラビア語の哲学タームを現代日本語へと翻訳することではじめて生じる問題などでは決してなく、当時のアラビアの学者たちのあたまをも実際に悩ませていたややこしい問題でした。以下では要らぬ混乱を避けるため、現代語における訳語としての神学は「『神学』」(鍵カッコあり)、哲学における神学(ないし形而上学)は「神学」(鍵カッコなし)、そして護教的思弁神学、すなわちカラーム学は「思弁神学」と表すことにします。

問題の端緒は思弁神学者たちによるアヴィセンナ哲学(とりわけ彼の神学観および学問論)の受容にあります。Bertolacci が鮮やかに示したとおり(『アヴィセンナ「治癒」におけるアリストテレス「形而上学」の受容』[2006年])、アヴィセンナは古代末期の註解伝統につらなるさまざまな神学観を参照しつつ、アリストテレス『分析論後書』に見られる学問論を同『形而上学』に対して厳格に適用することで、神学を学問階層の頂点に位置するもっとも普遍的な学として捉え、さらにこれに学としての厳密な構造を付与しました。アヴィセンナによれば、神学とはもっとも普遍的な対象である「存在者であるかぎりでの存在者(al-mawğūd min ḥayṯu huwa mawğūd)」を「主題(mawḍūʿ)」とし、自明な概念知(taṣawwurāt)ならびに真であることが明らかな判断知(taṣdīqāt)を「原理(mabādiʾ)」として援用しながら、主題である「存在者であるかぎりでの存在者」の自体的付帯性を「問題(masāʾil)」として探究する―― そういった学でした。ここで重要なのは、彼が「主題は当該の学内では探究されない」と主張していた点です。例えば彼によれば、自然学は「運動する物体」を主題とします。ところがそれがどのようなものを指すのか、さらには本当にそんなものが存在するのか(つまり「運動する物体」の本質と存在)については、自然学自体のなかでは探究されないといいます。彼においては、自然学で探究されるのはあくまで「運動する物体」が自体的に有する付帯性であって、「運動する物体」そのものがどのような本質をもち、さらにそれが本当に存在するかどうかは、同学の上位に位する神学の枠内でしか探究されえないと考えられるのです(「主題と探究対象の区別」)。このようにアヴィセンナは諸学を存在論的・認識論的な階層構造のもとに捉え、上位の学 X が下位の学 Y に対して(さらに今度はこの下位の学 Y がそれよりもさらに下位の学 Z に対して)原理(言い換えれば、探究を行っていくうえでの前提)を提供すると考えるわけです。

しかしながらアヴィセンナ以降の思弁神学者たちは、彼のこうした神学観をそのままのかたちで受け入れることはできませんでした。当時、彼らは基本的には「神学」とは神の本質・属性・行為などを扱う、諸学の頂点に位する学だと考えていました(この時点では、彼らのあいだで、諸学の認識論的階層構造というアヴィセンナ的観念はまだ受け入れられておらず、したがって「主題は探究されえない」とする考えかたも彼らはまだ持ち合わせていませんでした)。ところがアヴィセンナ的な「神学」観に基づくと、「神学」は神の本質や属性よりもさらに一般的・普遍的な対象である「存在者であるかぎりでの存在者」を主題とする学だとされます。つまり思弁神学者たちにとってアヴィセンナ的「神学」観は自分たちが「神学」として奉ずる思弁神学の上位性をおとしめるきわめて危険な学と映ったわけです。アヴィセンナ的神学観に対する彼らの反応は、大まかに次のような流れでシフトしていきます。(a)「神学」的思弁神学観 → (a')創造論的思弁神学観 → (b)存在論的思弁神学 → c)認識論的思弁神学観。なお、以下の文章はほとんど自分用のメモとして殴り書きしたものです。読むに耐えないというかたは、最終段落にあるまとめに飛んでください。

(a)「神学」的思弁神学観(Theological Conception):代表的な人物は、ファフルッディーン・ラーズィー(1209 年没)、サイフッディーン・アーミディー(1233 年没)、スィラージュッディーン・ウルマウィー(1283 年没)。[i]ラーズィーは初期の著作である Nihāyat al-ʿuqūl(『知性の限界』)中では「思弁神学とは神の本質・属性・行為をトピックとして扱う、もっとも高貴な学である」と論じています(この著作では「主題」とか「探究対象」といったアヴィセンナ・タームは使用されていない;なおこの著作はバイダーウィーの Ṭawāliʿ al-anwār[『黎明』;後述]に対する註釈伝統のなかでくりかえし参照されるのだそう)。他方、最晩年の著作 al-Maṭālib al-ʿāliyya(『高貴な探求』)中では、彼は「神学(al-ʿilm al-ilāhī)とは神の本質と属性を主題とする学である」と論じています(こちらでは思弁神学ではなく、あくまで神学の主題が論じられているが、その神学が何を探究する学であるかについては厳密には論じられていないもよう;なおここでは Nihāyat al-ʿuqūl とは異なり、「行為」が主題として明言されていない)。以上のことから、ラーズィーは思弁神学と神学を同一視し、さらに「主題と探究対象の区別」というアヴィセンナ・テーゼを無視することで、「どちらの学も神の本質と属性(ならびに行為)を主題とし、かつそれらを探究する学である」と考えていたように見えます。ちなみに彼はこの al-Maṭālib al-ʿāliyya 中で、被造物に関しても思弁神学の枠内で探究できるようにすべきだと力説しています(このような主張自体はガザーリー[1111 年没]が al-Mustaṣfā min ʿilm al-uṣūl[『法源学提要』]で提示している「思弁神学は全存在者を扱う」とする見解と軌を一にする)。何故そんな必要があるかと言えば、アヴィセンナが行っている神の存在の「存在論的証明」は証明として無効であり、神の存在を証明するためにはあくまで被造物という神以外の存在を参照しなければならないと、ラーズィーは考えるからです。いずれにせよ、こうしたラーズィーの考え方は、つづくアーミディーにも部分的に受け継がれていきます。具体的に言えば、アーミディーは思弁神学に関する著作 Abkār al-afkār(『思考の新機軸』)中で「思弁神学とは神の本質・属性・行為ならびに彼に関わりのあるものども(mutaʿalliqātu-hū)を探究する学である」と言っています(「彼に関わりのあるものども」が新たに挿入されている)。くわえて彼はこれらの探究対象を思弁神学の主題とも捉えているため(この点についてはアーミディー自身が明言しているわけではないそうですが、Eichner によれば、文脈的にそう考えられるとのこと)、彼もまたラーズィー同様、「主題と探究対象の区別」を無視し、神の本質・属性・行為などを思弁神学の主題と捉えていると推察されます(ちなみに彼はラーズィーとは異なり、思弁神学と神学の関係性には触れていないもよう)。[ii]ただしこの「神学」的思弁神学観には、以上[i]のようなラーズィー=アーミディー的な考え方とは一線を画す変種も存在します。その一例がウルマウィーの議論です。彼は Risāla fī l-farq bayna nawʿay l-ʿilm al-ilāhī wa-l-kalām(『神学と思弁神学という 2 種類の学のあいだのちがいに関する論考』)中でアヴィセンナ同様、主題と探究対象を厳密に区別し、ここから神学と思弁神学とのあいだも截然と区別しました。具体的に言えば、彼は神学の主題を「存在者であるかぎりでの存在者」とし、探究対象を神の本質としました。そしてこれと並行するかたちで、思弁神学の主題を神の本質とし、探究対象を神の属性および行為としました。つまりウルマウィーは思弁神学の主題それ自体にかぎって見れば、ラーズィーやアーミディー同様、「神学」的思弁神学観をとってはいるものの、その内実は同学をアヴィセンナ的な神学の一段下位に位置づけるという他の思弁神学者たちにとってみれば到底許容できない学説になっていたわけです。

(a')創造論的思弁神学観(Creationalistic Conception):代表的な人物は、シャムスッディーン・サマルカンディー(1276 年頃活躍)、イブン=シャイヒルアラビーヤ・マウスィリー(1323 年以降没)、マフムード・イスファハーニー(1348 年没)。サマルカンディーは aṣ-Ṣaḥāʾif al-ilāhiyya(『神学覚書』)中で、思弁神学の主題を「神の本質それ自体(ḏāt Allāh min ḥayṯu hiya)」および「神への依存性によって限界を定められているかぎりでの可能的諸存在」と定め、これら 2 つの主題がそれぞれ自体的に有する付帯性(つまり「神の本質の諸属性が自体的に有する付帯性ども」と「可能的諸存在が神を必要とするかぎりにおいて有する自体的付帯性ども」)を探究対象としました(ここからもわかるように、サマルカンディーは主題と探究対象を厳密に区別している;なお Eichner によると、ここで彼は神の本質と属性を同一視しているらしい[→ マートゥリーディー派思弁神学とムウタズィラ派思弁神学のつながり?])。このように彼は可能的諸存在をも思弁神学の主題の 1 つとして取り込んでおり、この点で被造物に関する探究をも思弁神学の枠内で処理しようとするガザーリー=ラーズィー的な路線を、彼は(b)で言及するイブリーよりも先にずっと明確なかたちで推し進めていたと言えます。ただしここでさらに重要なのは、彼において思弁神学史上おそらくはじめて、主題と探究対象の関係だけでなく、原理と探究対象の関係までもが考察されるようになったという点です。サマルカンディーはアヴィセンナ以降の思弁神学者たちのなかではじめて、ラーズィーの al-Mulaḫḫaṣ fī l-ḥikma(『叡智提要』)で示された哲学の構造と全く同じ構造を思弁神学にも付与しようとしました。具体的に言えば、彼は自身が構想する思弁神学の「原理」を「包括的諸要素(al-umūr aš-šāmila)」「付帯性」「実体」という 3 つのカテゴリーから構成し、同じく「問題」を狭義の「神学」(つまり神の属性や行為に関する議論)から構成しました(つまりal-Mulaḫḫaṣ fī l-ḥikma を構成する「共通要素(al-umūr al-ʿāmma)」と可能的諸存在に関する議論がサマルカンディーの思弁神学においては原理に、それ以外の議論が問題にそれぞれ対応させられている)。このようにサマルカンディーはアヴィセンナに由来する「原理 / 問題」という概念対を思弁神学内に受け入れながら、両者のあいだの区別をぼやけさせ、問題の一部を原理と呼んでいます。なおこうしたアプローチは後述(c)のとおり、イージーらによって批判されつつ受け継がれていきます(ちなみにサマルカンディーはこうして確立した思弁神学という学と神学との関係性についても論じている。彼によれば、神学も思弁神学同様、神の本質について論じる学だとされる。ただし思弁神学が「イスラムの原則(qānūn al-Islām)」に基づいて探究を行うのに対して、神学ではそうした原則は省みられない。この点でのみ、これら 2 つの学は互いに区別されるのだ、と彼は言う。こうした理解の仕方は後述のとおり、イスファハーニーやイブリーにも受け継がれていく)。つづくマウスィリーもまたバイダーウィーの Ṭawāliʿ al-anwār に対する註釈(タイトル不詳)中で、こうした創造論的思弁神学観を断片的に提示しています。ただし彼において特筆すべきは、「主題と探究対象の区別」という件のアヴィセンナ・テーゼとの折り合いの付け方です。先にも見たとおり、このテーゼは基本的には(a)「神学」的思弁神学観、およびその亜種である(a')創造論的思弁神学観とは相性の悪いものでした。アヴィセンナ・テーゼによれば、ある学の主題の存在はあくまでその当の学よりも上位の学で論証されるか、さもなければ自明でなければならないとされていました。ところが(a)(a')というこれら 2 つの思弁神学観においては、神の本質が主題とされているにもかかわらず、同学の枠内で平然と神の存在証明が行われていました。この矛盾を解消するためにマウスィリーが援用したのが、ラーズィーの提唱した「存在共有説」あるいは「存在付帯性説」です(例えばこちらを参照)。神において存在と本質が一致するというのは、アヴィセンナが唱えた有名な説です。これに対してラーズィーは神においても被造物同様、存在と本質は区別される、あるいは存在は本質に対して付加される(zāʾid)と主張します。つまりラーズィーにおいては、神であれ被造物であれ、「存在」は等しく本質の付帯性とされるわけです。マウスィリーはラーズィーのこの学説を援用し、神の本質にとってその存在は付帯的だと論じます。存在は神の本質が自体的に有する付帯性の 1 つである。ところである任意の学において探究されるのは、その当の学の主題が有する自体的付帯性であった。従って思弁神学の主題を神の本質としながら、その存在を同学の枠内で探究することは、問題のアヴィセンナ・テーゼと何ら矛盾しない。これがマウスィリーの議論です。こうしたマウスィリーの議論は、その後のイスファハーニーにもほとんどそのままのかたちで受け継がれます。彼もまたサマルカンディーとマウスィリー同様、Maṭāliʿ al-anẓār(『眼差し射す場所』;バイダーウィーの Ṭawāliʿ al-anwār に対する註釈)中で創造論的な思弁神学観をとり、さらにマウスィリー同様、ラーズィーの存在付帯性説を根拠に自身の思弁神学観と「主題と探究対象の区別」説とを和解させています(ちなみにイスファハーニーもまたサマルカンディー同様、思弁神学と神学との関係性について論じている。彼によれば、思弁神学と神学は独立した 2 つの学であり、どちらかがどちらかに下属するなどということはない。ただし神学の場合は啓示ではなく知性に基づいて探究が行われるため、そこには想像力による改ざんないし歪めが介在してしまう余地が残る。この点においてのみ、そうした歪めが介在しえない思弁神学のほうが神学よりも認識論的に上位に位する、と彼は言う)。

(b)存在論的思弁神学観(Ontological Conception):代表的な人物は、ファルガーニー・イブリー(1342 年没)。彼は Šarḥ aṭ-Ṭawāliʿ(『黎明註釈』;バイダーウィーの Ṭawāliʿ al-anwār に対する註釈書)と Kitāb al-īḍāḥ(『解明の書』;同じくバイダーウィーの Miṣbāḥ al-arwāḥ[『精神の灯』]に対する註釈書)という 2 つの著作中でウルマウィー同様、アヴィセンナの神学観に従い、神学の主題を「存在者であるかぎりでの存在者」と論じています。ところがイブリーは神学に思弁神学を下属させるウルマウィーの議論に対しては異議を唱え、これを斥けるべく、神学と思弁神学をほとんど完全に同一視します。具体的に言えば、彼は神学と思弁神学を「存在者であるかぎりでの存在者」という共通の主題を有する 2 つの学と捉え、これによって思弁神学を神学と同列の学にまで押し上げるわけです(なお彼によれば、思弁神学はこの主題が有する自体的付帯性を「イスラムの原則」にのっとって探究するが、神学はそれらをイスラムの原則に従って探究するわけではなく、この点でのみ両者は区別されるとのこと)。ちなみに古典期の思弁神学では、存在者は「永遠なもの(qadīm; =神)」と「有始的なもの(ḥādiṯ)」という 2 つのカテゴリーに分類されますが、イブリーはこれら 2 つのカテゴリーをともに「存在者であるかぎりでの存在者」の随伴性(lawāḥiq; ここでは自体的付帯性と同義)と捉えており、この点では彼の神学観は上述のラーズィーのそれと同様、被造物に関する探究を思弁神学内に持ち込もうとするガザーリー的な議論と共通するところがあると言えます。とはいえ、こうしたイブリー的神学観は後の思弁神学者たちにはほとんど受け入れられなかったのだそうです。

(c)認識論的思弁神学観(Epistemological Conception):代表的な人物は、アームリー(1350 年頃活躍)、イージー(1355 年没)、タフターザーニー(1389/90 年没)。アームリーはバイダーウィーのṬawāliʿ al-anwār に対する註釈(タイトル不詳)中で、以上全ての思弁神学観を否定します。まず彼は(a)および(a')を次のように斥けます。アヴィセンナが提示した諸学の認識論的階層構造は、ゆるく再解釈したりせず、そのまま厳格に受け入れなければならない。この原則を受け入れたうえで(a)および(a')が無矛盾的に確立するためには、マウスィリーやイスファハーニーが主張したように、ラーズィーの提唱する存在付帯性説が不可欠となる。だがアヴィセンナの言うとおり、神において存在と本質は同一である。従って矛盾をきたすことなく、(a)および(a')を主張することは不可能である。さらに「共通要素」を思弁神学の原理として立てながら、それを思弁神学自体のなかで探究しようとするサマルカンディー的なアプローチも、認識論的に不適切と言わざるをえない。原理と言いながら自明と見なさずに探究するならば、それはさらに上位の学において探究されねばならない。つづいて彼は(b)を次のように斥けます。思弁神学では神の様態(aḥwāl)や非存在者(maʿdūm)といったものも探究される。しかしこれらは実在性を欠くため、明らかに存在者の自体的付帯性とは考えられない(=心的存在[al-wuğūd aḏ-ḏihnī]の否定[→ こちらを参照])。そのため(b)を主張することもまた不合理である。このような議論を通じて、アームリーは最終的に思弁神学の主題として「知の対象(maʿlūm)」を立てます(ちなみに彼の議論の背景には、存在者よりも知の対象を普遍的と見なすアシュアリー派神学的な存在論が潜んでいるものと推察される)。こうしたアームリーの議論を受け継ぎながら、イージーも al-Mawāqif (『神学教程』)で同様の認識論的思弁神学観を提示します。ただし彼は(a)を主張したアーミディーや(a')の創唱者とも言うべきサマルカンディーからも強い影響を受けており、ここからアームリーとは部分的に異なる見解も提出することになります。なかでももっとも注目すべきは、原理を問題の 1 つとして探究しようとするサマルカンディー的アプローチの受容です。すでに見たとおり、サマルカンディーはラーズィーが al-Mulaḫḫaṣ fī l-ḥikma で論じた共通要素などに対応する議論を思弁神学の原理として立て、これを同学の枠内で探究しようとしました。これに対しイージーは次のように論じます。まず思弁神学の原理は他の学によって探究されるようなものではない。従ってそれは自明なものと、思弁神学それ自体のなかで探究されるものとに二分される。ところでこのうち後者の原理は思弁神学内で探究される以上、同学の問題でもあるということになる。そのため一見すると、探究対象が原理として前提されるという循環が帰結するようにも見える。しかし実際のところ思弁神学で探究される他の全ての問題はこの「原理でもある問題」に基づいて探究されるわけではない。そのため問題が原理になっているとはいえ、循環は帰結しない。このようにして、イージーは諸学の認識論的階層構造を厳格に受け入れながら、サマルカンディーの半ば循環に陥りかけていた議論を見事に救い出してみせるのです。そして最後にタフターザーニーも Šarḥ al-Maqāṣid(『思弁神学の目的註釈』)や Šarḥ al-ʿAqīda an-Nasafiyya(『ナサフィーの信条註釈』)、Tahḏīb al-manṭiq wa-l-kalām(『論理学と思弁神学の精錬』)などの著作中で、同様の認識論的思弁神学観を提示しています。彼の議論は主にイージーの al-Mawāqif  とサマルカンディーの aṣ-Ṣaḥāʾif al-ilāhiyya に基づいて構成されているそうで、とりわけサマルカンディーからイージーへと受け継がれた思弁神学の「本質(māhiyya)」「定義(taʿrīf)」「名称(ism)」に関する議論に多くの紙幅が割かれているようですが、残念ながら同様にサマルカンディーからイージーへと受け継がれた「原理でもある問題」という上述のカテゴリーの設定に関しては、タフターザーニーは何も論じていないようです(ただしこのへんは議論にきちんとついて行けなかったため、再読の必要有)。

最後に以上の流れを簡潔にまとめておきます(cf. p. 306)。まず初期のテクスト(とりわけラーズィーの諸著作)では、(a)「神学」的思弁神学観(「思弁神学は神の本質・属性・行為を扱い、これを探究する学である」)がとられていました。そこから時代を下るにつれ、サマルカンディーの aṣ-Ṣaḥāʾif al-ilāhiyya のように、(a')創造論的思弁神学観(「思弁神学は神と被造物の本質を主題とし、それらの自体的付帯性を探究する学である」)がとられるようになっていき、神について知るためには被造物についての知が原理として要請されると強調されはじめます。ところがこうしたテクストでは(時折の言及はあるものの)一貫性のある仕方でアヴィセンナ的な諸学の認識論的階層構造論を取り込もうという試みは見られませんでした。アヴィセンナ的学問階層論と「神学」の主題論とをはじめて整合的に連関させたのが、ウルマウィー([a.ii])です。ただし彼は学問階層論を重視するあまり、思弁神学を神学に下属させてしまいました。そのため今度はイブリーが彼を批判しながら、(b)存在論的思弁神学観(「思弁神学は存在者であるかぎりでの存在者を主題とし、その自体的付帯性を探究する」)を提示することになります。しかしイブリーの学説は広い支持を集めることができず、ある者は(a')創造論的思弁神学観へと戻り、またある者はこれらとは全く別の新たな方向性を模索しはじめます。その新たな方向性というのが、(c)認識論的思弁神学観(「思弁神学は知の対象を主題とし、その自体的付帯性を探究する学である」)です。このような一連の流れのなかで、諸学の認識論的階層構造は徐々にその意義を認められはじめ、最終的には(c)を唱える思弁神学者たちにおいて、きわめて厳密なかたちで同学の構造内に移植されることになったのです。

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