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Samstag, 6. Februar 2010

ファナーリーの形象論7

・知性的諸形象は質料から完全に離存しており、その形象の対応先そのものである。
・神学の探究対象は質料から完全に離存している。
→それ故、知性的諸形象と神学の探究対象(=神、つまり絶対存在?)との間には(何らかの?)対応関係があり、前者の存在を証明すれば、それの対応先である後者も外界において存在するということになる。

てことなのでしょうか?
自分でもかなり安直な気がしていますが、とにかくことの真偽を確かめるためには、(1)神学の探究対象が神(=絶対存在)だということ、並びに(2)知性的諸形象の存在証明において示されているのが知性的諸形象の「外界における存在」だということ、の二点をまず確認しなければなりません。

しかももしそうだとしても、「それなら、知性的諸形象の存在証明のみで事足りるところを、何故想像力的諸形象の存在証明までしているのか」「知性的諸形象と想像力的諸形象との間での絶対的形象の共有という議論にはどういった意義があるのか」などといった問題が今度は出てきます。とりあえず今日はこの後、学問論の周辺を読んでみます。
3 月3 日には、nikubeta さんに論文の検討会を開いて頂くことになりました。そしてそれに先立ち、2 月末日までに原稿を送ることにも。集中集中。

また今日はnikubeta さんのご指摘で、以下の研究書の存在を知りました:

L. Spruit, Species intelligibilis: From Perception to Knowledge, 2vols. (Leiden: Brill, 1994-5).

遅ればせながら、先ほど注文しました。全くお恥ずかしい限りです。

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[後日付記]
記述に不正確なところがあったので訂正します。ファナーリーは神学の探究対象が「質料から完全に離存している」とは言っていませんでした。正確には「絶対的に捉えられた何性」とか「質料の中に生ずることが不可能なもの」(al-mumtani' husulu-hu fi al-maddah)という言い方をしています。とはいえ、「質料の中に生ずることが不可能なもの」は質料から完全に離存している、と言えるのでは?(自信はないですが…。)そして「質料の中に生ずることが不可能なもの」と
「絶対的に捉えられた何性」が同じものだというのが、よくわかりません。

Montag, 11. Oktober 2010

ファナーリーの形象論14

もう2か月も前になりますが、ファナーリーの存在種説2の中で、ファナーリーが絶対存在のことを限定存在どもにとっての種であると考えていたのではないかと思わせる一節を引用しました。しかしこの周辺を読み直していて気付いたのですが、やはりファナーリーは絶対存在を種であるとは考えていなかったのではないか。いや、正確に言うと、種であるとも種でないとも考えていなかったのではないか、という考えに至りました。問題の一節を再び、以下に引用します。

思惟対象たる諸形象が全ての普遍的何性どもに対して定立されるなら、それは我々の示唆したところである。他方でそれらが種どもに対してのみ定立されるなら、それはプラトン的[諸形象]であるが、そのような場合は絶対存在が限定存在どもにとっての種であることは可能である。

المثل المعقولة إن ثبتت لجميع الماهيات الكلية فذلك ما أشرنا إليه وإن ثبتت للأنواع فقط وهي الأفلاطونية فيجوز أن يكون الوجود المطلق نوعاً للوجودات المقيدة.

Fanari, Misbah al-uns, ed. Khwajawi, p. 430, par. 4/504.


2か月前の時点でも、ファナーリーが絶対存在を限定存在(=固有存在 / 関係的存在?)どもにとっての種だと捉える説に対してある程度のシンパシーを抱いていたという点は読み取れました。しかし
「我々の示唆したところ」とは何を指すのか、また彼の論調が何故こんなにも歯切れの悪いものになっているのかという点については、全く理解できませんでした。ところが今回改めて『プラトン的知性的諸形象』の下訳を見直していてハタと気付きました。これは恐らく同書第3章第2探究(「絶対存在がそれ自体において必然的に存在することがあり得るということがそれを通じて証明され得るような[議論]について」)の中で列挙されている第10の根拠との関連で理解すべき一節です。少し長いですが、以下に全文を引用します。

あらゆる種は
相互に対立しあう個体化どもを受容するにもかかわらず、自らがそれによって他の種どもから識別されてあるような或る個体化を有す。故に絶対存在は互いに矛盾しあう一性どもを受容するにもかかわらず、一なる何性であり、その一性によって外界において他の何性どもから識別されてあるのである〔→前者の主張〕。ところでこのようなことを主張する者は皆「絶対存在はそれ自体の故に必然的に存在するものである」〔→後者の主張〕と言っている。それ故絶対存在はそれ自体の故に必然的に存在するものである。そしてこれこそが求めるところであった。
 ここでお前が以下のように言ったとする。前者の主張から後者の主張が帰結することはない。何故なら諸形象[の存在]を主張する者は前者を主張しはするが
後者を主張することはないからである。故に我々は「前者を主張する者が皆後者を主張する」とは認められない。
 そうしたら我々はこう言う。前者の主張は後者の主張を結果させる。とはいえ
[確かに]それは「帰結」と言えるようなものではない。むしろ帰納[によって得られた結果]を証拠として慣習的にたまたまそう見解が一致しているという類のものである。しかし諸形象[の存在]を主張する賢者たちは[そもそも]前者を主張しない。何故なら彼らは種どもにしか諸形象[の存在]を認めず、類どもに、ましてや類比的本性どもに諸形象[の存在]を認めることはないからである

كل نوع له تعيّن يمتاز به عن سائر الأنواع مع قبوله التعيّنات المتقابلة فالوجود المطلق ماهية واحدة ممتازة بوحدتها في الخارج عن سائر الماهيات مع قبولها الوحدات المتباينة وكل من قال بذلك قال بأن الوجود المطلق واجب الوجود لذاته فيكون الوجود المطلق واجب الوجود لذاته وهو المطلوب فإن قلتَ القول بذلك لا يستلزم القولَ بهذا فإن القائل بالمثل يقول بالأول دون الثاني فلا نسلّم أن كل من قال بالأول قال بالثاني فنقول إستتباع القول بالأول للقول بالثاني وإن لم يكن لزومياً لكنه إتفاقي بشهادة الإستقراء والقائلون بالمثل من الحكماء لا يقولون بالاول فإنهم إنما يقولون بالمثل للأنواع دون الأجناس فضلاً عن الطبائع المشكّكة.

Anon., Al-Muthul al-'aqliyah al-Aflatuniyah,
ed. Badawi, p. 140, lines. 4-13.


この一節は絶対存在が存在必然者であるということを示す根拠(=同書執筆当時の存在一性論者が行っていた議論?)の1つとして言及されているようです。重要なのは最後の段落の下線部です。それによると、形象の存在を主張する者たちは種に対してしか形象の存在を認めません。つまり彼らは類や類比的本性といった種以外のものについては、形象をもたないと考えるわけです。そして私見では、このうちの「類比的本性」の方に絶対存在は含まれます。というのも、一般に哲学において絶対存在は類比的なものとして捉えられているからです。例えば神も被造物も同様に存在すると言える。しかし神の存在の方が被造物の存在よりも、より強くまたより先である。従って存在には類比性が認められる。これが絶対存在の類比性を主張する根拠です。『プラトン的知性的諸形象』の著者もまたこの論理に従って、絶対存在を類比的なものとして捉えているのだと思われます。ここで重要なのは、どうやら「種のみが形象をもつ」と考えるか「種のみならず、類も類比的本性も形象をもつ」と考えるかで見解の相違があったということ、しかもこの違いは「絶対存在=存在必然者」とし得るかどうかという違いにも直結してくるものだったということです。
どういう理屈でそうなるのかはまだ理解できていませんが、いずれにせよ、こうした見解の相違があったということを銘記しつつ、冒頭で引用したファナーリーの発言を参照すると、これまで理解できなかった上記の疑問点が解消されるように思います。彼の発言をもう一度以下に引用します。

思惟対象たる諸形象が全ての普遍的何性どもに対して定立されるなら、それは我々の示唆したところである。他方でそれらが種どもに対してのみ定立されるなら、それはプラトン的[諸形象]であるが、そのような場合は絶対存在が限定存在どもにとっての種であることは可能である。

Fanari, Misbah al-uns, ed. Khwajawi, p. 430, par. 4/504.

ここでファナーリーが意図しているのは、恐らくこういうことです。「1) 種のみが形象をもつのか、それとも 2) 種だけでなく類や類比的本性(=絶対存在)も形象をもつのか。それはわからない。しかしいずれの説を採っても、絶対存在が存在必然者であることに変わりはない」。では何故いずれの説を採っても、絶対存在が存在必然者となると言えるのか。
ここから先はまだスペキュレーションの段階ですが、根拠としては次のような議論が想定されているのではないでしょうか。まず 1) の場合は、絶対存在という類比的本性が形象をもつことになるし、2) の場合も絶対存在が限定存在どもにとっての種である(ことはあり得る)のだから、やはり絶対存在は形象をもつということになる。そして形象を有するようなものと形象自体は、(実在レベルでは)同一である(cf. Fanari, Misbah al-uns, p. 421, par. *: 「質料から離存してしかあり得ないようなものの形象は、その形象の対応先そのものである」)。従って形象の離存説が正しいとされる以上、形象を有する絶対存在も離存するということになる(ただ、ここから先、どうして「絶対存在が離存する」が「絶対存在は存在必然者である」につながっていくのかについては、よくわかりません)。

ということで、こうした仮説が正しいのかどうか明らかにするために、まず以下の点をテクストレベルで調べます。

1) 『プラトン的知性的諸形象』の著者はそもそも絶対存在を存在者でないと考えていたのかどうか(これが実は微妙だったりします)。
2) 種(ないし形象を有するようなもの)と形象そのものを同定するような議論が本当に為されているのかどうか(種が離存的なものとして語られているのかどうか等)。

Sonntag, 19. September 2010

ファナーリーの形象論13

やはり存在種説は形象論と切り離して調べられる問題ではないと思いなおし、最近は再び形象論 について調べています。その一環として、先のポストでも書いた通り、11月の学会発表では『プラトン的知性的諸形象』で展開される形象論について取り上げることにしました。同書の構成は大雑把には、以下の通りになります。各章各節(「探究」)のタイトルは意訳してあります。

第1章 プラトン的諸形象(muthul Aflatuniyah)
 第1探究 形象の定義と形象をめぐる学説の数、及び学問別の探究対象
 第2探究 数学的なものと自然学的なものは両者共に形象を有すという見解
 第3探究 数学的なもののみが形象を有すという見解
 第4探究 自然学的なもののみが形象を有すという見解
 第5探究 数学的なものと自然学的なものは両者共に形象をもたないという見解
 第6探究 照明哲学における形象論
 第7探究 形象はあらゆる普遍者を包含する

第2章 中間的諸形象(muthul mu'allaqah)
 第1探究 中間的形象とはどういったものか、その定義
 第2探究 中間的形象界が存在するということを示す証明
 第3探究 中間的形象界の存在否認に対する逍遥学派的反証と照明学派的回答

第3章 絶対存在と存在必然者との関係
 第1探究 絶対存在が存在必然者であることの不可能性を示し得る証明 
 第2探究 絶対存在が存在必然者である可能性を反証し得るような証明

第2章と第3章は今年の春頃にメモを取ったり翻訳したりしながら概ね目を通してあります。あくまでざっと目を通しただけですし、そもそも難しくて飛ばしてしまった箇所も多少あるため、理解できていないことはまだ山のようにあるのですが、ひとまず現在は第1章に集中している状態です。第1章で論じられているのは、形象の存在(=質料ないし個物からの離存)をめぐる5つの見解について。著者自身の証言では、第2探究で論じられる「数学的なものと自然学的なもののいずれもが形象を有す」とする見解、これが彼自身の立場に最も近いものなのだそうで、全体の論述もそうした彼自身の見解に基づいて、この5つの見解を適宜批判・擁護する中で、進められているようです。ページの内訳は、第1探究(pp. 5-15)、第2探究(pp. 16-43)、第3探究(pp. 44-6)、第4探究(p. 47)、第5探究(pp. 48-65)、第6探究(pp. 66-81)
、第7探究(p. 82)。第2と第5-6探究に多くの頁が割かれていることがわかります。

いまは第5探究のはじめの辺りを読んでいる段階で、まだまだ先は短くないのですが、現実問題として持ち時間は30分(質疑応答を長めに取りたいので発表自体は20分くらいでまとめる予定)。実際に取り上げられる問題はほんの一部です。ではどのような問題を主たる考察対象として選ぶべきか。第2探究を読んだ限りでの印象では、取り上げるべきは絶対的なもの (mutlaq)と抽象的なもの(mujarrad; =離存的なもの)との関係であるように思います。一般に哲学においては、絶対的に捉えられたものと抽象的に捉えられたものとは厳然と区別されます。「抽象的に捉えられたもの」というのは個物どもとのつながりから離れた状態で捉えられた、いわば否定的な条件の下で(bi-shart la shay')考察されたものになります。その一方で「絶対的に捉えられたもの」は個物どもとつながっているとは言えないが、そうしたつながりから離れているとも言えないような状態で捉えられた、いわば条件なしで(bi-la shart shay' / la bi-shart shay')考察されたものとなります。
しかし「数学的なものと自然学的なもののいずれもが形象を有す」とする者たち(及び論考の著者)は、両者をほぼ同定します。

我々は言う。どうして具体的個物のレベルでの[普遍者の]離存が、[それの]意識内での[離存]と同様に多に対する述語付けを妨げない、ということがあり得ないのか。ここで次のように言うことはできない。「具体的個物のレベルでの[普遍者の]離存は、多に対する[それの]述語付けを妨げる。理由は以下の通り である。具体的個物のレベルでの離存[を認めるということ]は、絶対的に捉えられた人間を離存的な人間と相等しいものとする[ことにつながる]。しかし意識内における離存[を認めること]は、前者を後者と相等しいものとはしない。従って両者は異なる〔つまり意識内における離存においてそうだからといって、 具体的個物のレベルでの離存でもそうだという議論は成り立たない〕」 。何故[このように言うことができない]かと言えば、それは我々がこう言うからである。具体的個物のレベルでの離存は、両者〔絶対的に捉えられた人間と離存的な人間〕が実現において〔=実在レベルで〕相等しいということを必然化するだけで、当てはまりにおいて〔=概念レベルで〕相等しいということまで必然化しはしない。何故なら我々は確かに諸形象の存在〔=具体的個物のレベルでの普遍者の離存〕を主張するが、しかし当てはまりにおいては絶対的に捉えられた人間の方が離存的な人間よりも一般的だからである。というのも、例えば「ザイドは離存的な人間である」とは言われ得ず、「ザイドは人間である」としか言われ得ないからである。一般的なもの〔例:動物〕がその特殊的なものどものうちのどれか1つ〔例:人間〕に対して当てはまり、そしてそれに対応するかたち で、その特殊的なもの〔人間〕が存在においても帰結するとしても、その当の一般的なもの〔動物〕がそれ以外の特殊的なものども〔例:馬〕に対して正しく述語付けられる[可能性]は排除されない。

ونقول له لم لا يجوز أن يكون التجرّد العيني كالذهني في عدم المنع عن الحمل على الكثرة لا يقال التجرّد العيني يمنع ذلك لأنه يجعل الإنسان مطلقاً مساوياً للإنسان المفارق والتجرّد الذهني لا يجعله مساوياً له فإفترقا لأنّا نقول التجرّد العيني إنما يوجب تساويهما في التحقق لا الصدق لأن الإنسان مطلقاً أعمّ من الإنسان المفارق في الصدق وإن قلنا بوجود المثل إذ إنما يصح أن يقال مثلاً زيد إنسان لا إنسان مجرّد ولزوم أحد الخواصّ بحسب الصدق العامّ في الوجود لا ينافي صدق حمله على بقيتها.

Anon., Al-Muthul al-'aqliyah al-Aflatuniyah,
ed. 'A. Badawi, p. 33, line 19-p. 34, line 7.


ここで批判者の側は普遍者の外界での離存を否定する立場にあります。「もし普遍者が外界に具体的に存在するとしたら、絶対的に捉えられた何性が質料から離れている限りで捉えられた何性(=普遍者)と同一になってしまう」。これが批判者の論理です。
何故?と言われると、その理屈についてはまだよくわかっていないのですが、少なくともこれがとても受け入れられない帰結であるということは理解できます。というのも、上で見た通り、一般に絶対的に捉えられた何性と抽象的に捉えられた何性とは別ものとされるからです。「ザイドは(絶対的に)人間だ」と言うことはできるが、「ザイドは抽象的(離存的)な人間だ」とは言い得ない。だったら、両者は別ものと考えざるを得ないだろう、と。こ のような批判に対する論考の著者の回答は、簡単にまとめれば次のようなものになります。「確かに普遍者が外界に具体的に存在するとしたら、絶対的に捉えられた何性は質料から離れている限りで捉えられた何性と同一になる。しかしそれはあくまで実在レベルでの事態であって、概念レベルでは両者の相違は確保される」。つまり論考の著者は絶対者と普遍者との関係について、「概念レベルでは異なるが、実在レベルでは同一」と考えるわけです。第2探究全体での議論は、こうした普遍者(=形象、何性)観に基づいて展開されているようです。

それでは、こうした論点が論考の著者と形象の離存を全く認めない立場、及び照明哲学における形象論との間の見解の相違について考える上でも重要なポイントになってくるのか。この点を確認するためにも、まずは早いうちに第5-6探究に目を通さなければなりません。
まぁ、そう甘くはないという気もします。ちなみにファナーリーは「知性的諸形象〔=プラトン的諸形象〕が定立されたならば、絶対存在は全ての場から離れ、またあらゆる固有存在どもから離存して、外界において存在するということになる」と言っています(Fanari, Misbah al-uns, ed. Khwajawi, p. 429, par. 4/497; 但しこれも 「サッラマイニー[سلميني]はこう言っている」というかたちでの言及)。少なくともこの一節を見る限りでは、「絶対」と「離存(抽象)」が重ねあわされているようにも見えますが、これもそう甘くはないという気がしています。

Dienstag, 8. September 2009

ファナーリーの形象論1

『親密の灯』「普遍的神秘の開示」第1 章第12 根源 Shams al-Din al-Fanari, Misbah al-uns, in Miftah al-ghayb li-Abi al-Ma'ali Sadr al-Din Muhammad ibn Ishaq al-Qunawi wa-sharhu-hu Misbah al-uns li-Muhammad ibn Hamzah al-Fanari, ed. M. Khwajawi, 2nd ed. (Tihran: Intisharat-i Mawla, 1384 [2005 or 2006]), pp. 413-39

に取りかかり始めました。同所では形象の世界('alam al-mithal)を定立することの必要性が論じられているようなのですが、これがどういう訳か途中から「〈存在〉は存在する」の証明へと向かっていくことになります。よくわかりませんが、恐らく重要な箇所になるはずです。昨日はとりあえずp. 425 まで目を通しました。たぶん全体の構成としては以下のようになるんだと思います:

1. 形象(或いは形象の世界)についての存在一性論的説明(クーナウィー、ファルガーニー、イブン=アラビー(引用量順)からの引用)
2. 逍遥学派、照明学派における形象論の紹介と反駁?(照明学派の形象論は肯定的に引用されているか?)
3. (で、何故かこの後に)「〈存在〉は存在する」の証明(謬見への反駁含)

特に論点2 と3 がどうつながるのかを知りたいのですが、やはり翻訳するくらいのスタンスで向き合わないとダメですね。大体85%は何を言っているかサッパリ理解できませんでした。ただ、興味深い点もちらほら。特に巻末インデックスには立項されていないので気付きませんでしたが、普遍者についてけっこう言及がある(特に論点2 のところ?)という点が驚いたというか、うれしくなったというか。まぁ、考えてみれば当たり前なのかもしれません。全体をくまなく探せば、もしかしたら『親密の灯』中にも或る程度、普遍者に対する言及があるのかも。何でこんな重要な語を立項しないのかが不思議です。

とまれ、ここでは気になった諸節を試みに訳出してみます(意訳大いに含):

(1) p. 415, par. 4/440: [クーナウィーによれば、形象の世界というものを考えなけれなばらない、その理由を理解する為の]第一の前提は以下のようなものである。即ち純粋な光(al-nur al-mahd)は、それに相対するものとして〈非存在〉が思惟され、またそこに闇(al-zulmah)がある〔混在している?〕ところの神の真なる純粋存在(al-wujud al-haqq al-mahd)と何も変わらない。

(2) p. 416, par. 4/444, lines 1-3: [形象の世界を定立する根拠を理解する為の以上五つの前提を]お前が確認したならば、我々は以下のように言う。即ち〈存在〉に相対するものとして思惟された〈非存在〉はその思惟無しでは実現をもたない。また純粋存在は知覚することが不可能である。それ故〈存在〉に相対するものとして思惟された限りにおける〈非存在〉の階梯はそれ〔つまり〈存在〉〕にとっての鏡のようなものである。そして[これら]二つの側〔つまり〈存在〉とその鏡〕の間に個体化するものというのが、形象の世界の実相〔或いは定義?〕(haqiqah)である。

(3) p. 420, par. 4/461: 私は言う。あらゆる何性(mahiyah)は絶対的に捉えられる[ことがある]。[その場合]それ〔つまりその何性〕には神学的探求が関わってくる。他方で[その何性が]質料(maddah)に関わりをもつものとして捉えられた場合、それが或る何らかの質料(maddah ma)に関わりをもつものとして捉えられたならば、それは数学で探求されるものであり、個体化した質料(maddah mu'ayyanah)に関わりをもつものとして捉えられたならば、それは自然学で探求されるものである。

特に興味深いのが(3) です。これは明らかに何性の様相論(i'tibarat al-mahiyah)を意識した書き方です。通常、何性の様相論では、何性は以下の三つの捉えられ方をします:

1. al-mahiyah la bi-shart / al-mahiyah al-mutlaqah(無条件的何性 / 絶対何性)
2. al-mahiyah bi-shart la / al-mahiyah al-mujarradah(否定的条件における何性 / 抽象的何性)
3. al-mahiyah bi-shart shay' / al-mahiyah al-makhlutah(肯定的条件における何性 / 混成的何性)

証拠は無いですが、恐らくファナーリーは上の「絶対的に捉えられた何性」「或る何らかの質料に関わりをもつものとして捉えられた何性」「個体化した質料に関わりをもつものとして捉えられた何性」を、それぞれここでの1、2、3 に対応させて考えていたのではないかと思います。

このうち問題となるのは2 です。否定的条件における何性 / 抽象的何性とは、通常あらゆる付帯性から離れた状態で(つまりそれらとのつながりを否定された状態で)捉えられた何性を意味します。我々が経験的に出会うものどもは全て何性に様々な夾雑物が付帯したようなものなので、それらとのつながりを断たれた何性は外界においては(人によっては「意識内においても」と主張しますが)存在をもち得ません。ここからこの何性2 は普遍者と同定されたりするようです。しかしここでファナーリーは、この何性2、或いは普遍者を数学と関連付けることで、「或る何らかの質料に関わりをもつものとして捉えられた何性」と読み替えているように思います。そしてファナーリーは普遍者を形象と関連付けて論じているような印象を受けます。もしかしたらこれによって普遍者、及び形象の外界における存在を主張することができるようになり、それが「〈存在〉は存在者である」の証明へとつながっていくのかもしれません(勿論ちゃんと読み直したら全く見当外れかもしれないので悪しからずです)。何にしても、今日中にp. 439 まで目を通すことを目指します。

それと『親密の灯』冒頭部には学問論を扱ったらしき箇所もあるようなので、ちゃんと時間をつくってそこも読んでみなければいけないのかもしれませんね。

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[後日付記]
というような見通しは、現段階ではほとんど与太話でしかない訳ですが、とりあえず数学が言及されていることは事実なので、R. Rashed, ''Mathématiques et Philosophie chez Avicenne'', in J. Jolivet and R. Rashed (eds.), Études sur Avicenne (Paris: Les Belles Lettres, 1984), pp. 29-39 を読んでみました。が、何だかよくわかりませんでした…。これはこれで後で再び読み直すことにして、とりあえずは以下の二つの論文に更に目を通そうと思います:


2. R. Rashed, ''Metaphysics and Mathematics in Classical Islamic Culture: Avicenna and His Successors'', in T. Peters, M. Iqbal and S. Nomanul Haqq (eds.), God, Life and the Cosmos: Christian and Muslim Perspectives (Aldershot: Ashgate, 2002), pp. 151-71.

そしてその後は読もう読もうと思いつつ先延ばしにしていた M. Sebti, ''Le statut ontologique de l'image dans la doctrine avicennienne de la perception'', Arabic Sciences and Philosophy, 15 (2005), pp. 109-40 を読みます。

Freitag, 22. Januar 2010

ファナーリーの形象論5

相変わらずFanari, Shams al-Din al-, Misbah al-uns, ed. M. Khwajawi, 2nd ed. (Tehran: Intisharat-i Mawla, 2005), pp. 413-39 の翻訳を断続的に続けています。全くいやになるくらい遅々として進みません。目下はpp. 420-30 の翻訳を作成中。昨晩は多少集中して、p. 424 (+数行)を訳しました。

現状では完全に暗中模索状態ですが、以下の二つの点は問題の核心に触れてくれるものではないかと思ったりしています。

1. 質料から離存してしかあり得ないようなもの(恐らく神学の探究対象を指す)の形象は、その形象の対応先そのもの('ayn al-mumaththal)であるが、質料とともにあり得るようなもの(恐らく自然学の探究対象と数学の探究対象を指す)の形象はそのもの自身ではな い。

2. 知性的形象(al-mithal al-'aqli)と想像力的形象(al-mithal al-khayali)という二つの形象が論じられており(とはいえ、これら以外にも具体的にどういったものを指すのかわからない「~的形象」という表現は散見さ れるのですが…)、前者は質料から完全に離存しているが、後者は不完全なかたちでしか離存していない、とされる。

いずれにせよ、このままでは話になりません。今日は夜に用事がありますが、その前後もきちんと集中したいと思います。

Dienstag, 1. September 2009

投稿後記

さんざん迷走しましたが、論文、何とか投稿することはできました。学会のほうからも受理の報告メールが届いていました。審査結果は大体10 月のあたまには届くとのことです。

ふぅ〜、疲れた…。

でも、結局納得のいく水準には全然達していなくて、色々とお世話になった諸先輩方には本当に申し訳なかったです。すみません。そのせいもあって、ここ二日くらいはずっとヘコんでいたんですが、まぁ、仕方ない!やるだけのことはやりました、たぶん。それと嘘はついてない(はず)です。わからないところや(紙幅の都合もあって)原文に必ずしも沿えなかったところなどは、注でそう書いたし。

どのくらい直させられるのか(たぶん直すとしたら第II 章が中心となるはずですが)、或いは掲載を見送られるのか、全くわかりませんが、とりあえずもう出してしまった以上、どうしようもありません。次へ行きます。目下やるべきは、1. 今回の論文で棚上げした問題の再調査、2. 以前から調べようと思っていた問題の調査の二つです。今回の論文では、触れられるものなら触れたかったけどよくわからなくて断念した問題が二点あります。

i. タフターザーニーが「存在」と「存在者」をどう区別しているか
ii. ファナーリーが「必然者は〈存在〉である」を証明することの意味

i は、今回の論文でわたしを最も疲弊させてくれた問題です。タフターザーニーは或る箇所では必然者(という存在者)と可能的なものども(という存在者ども)の間での〈存在〉(=絶対存在)の共有などを論じているように見えますが、別の箇所では必然者の存在(この「存在」は〈存在〉とは違うもののはずです)と可能的なものどもの諸存在との間での共有を論じているようにも見えます。これらは意図的に論じ分けられているのか、或いは彼の中で混同があったのか。タフターザーニーの議論を何度も読み返しましたが、やはりよくわかりません。

何となくこの問題は〈存在〉と何性との区別という問題と関わるような気がします。或る任意の存在者x は〈存在〉と何性に分割される。しかしこれはあくまでその存在者の構造を概念的に分析した場合にのみ真なのであり、概念的分析を行う前の生の実在のレベルではそもそも分割を云々する余地は無い。何故なら或るのはその存在者x ただそれだけだからである。

これが〈存在〉と何性の区別という問題の梗概です。但しこれを必然者にまで適用できるのか否か、つまり必然者も〈存在〉と何性にまで分析することができるのか否か、という点については見解の相違が見られます(たぶんタフターザーニーは「できる」と考えています)。ただ、これが「存在」と「存在者」の区別という問題に具体的にどう関わってくるのか、それが問題です。とにかく〈存在〉と何性の区別については、最近ではWisnovsky が研究しているので、彼の論文、著作を読まなければなりません。しんどい…。目下読むべきは以下の二つの研究でしょう。

・R. Wisnovsky, Avicenna's Metaphysics in Context (Ithaca, New York: Cornell University Press, 2003).
・id., ''Avicenna and the Avicennian Tradition'', in P. Adamson and R. Taylor (eds.), The Cambridge Companion to Arabic Philosophy (Cambridge: Cambridge University Press. 2005), pp. 92-136.

後者は簡単に言うと前者のサマリーなんですが、それだけでなく、新たに付け加えられている情報もあります。それがイブン=スィーナー以降の哲学者たちの間で〈存在〉と何性はどう区別されていたのか、という議論です(とはいえ拾い読みしかしていないので、もしかしたら既に前者の中にもそういう議論は盛り込まれているのかもしれませんが…)。Wisnovsky によれば、イブン=スィーナー以降の哲学的神学者たちは概ね、イブン=スィーナーにおける〈存在〉と何性の区別に従っているそうです。それではイブン=スィーナーは両者をどう区別しているのか。これについては、まだきちんと読んでいないのでわかりかねるのですが、少なくとも彼の議論には「存在者」(mawjud)と「もの」(shay')、「存在者性」(mawjudiyah)と「もの性」(shay'iyah)との区別という、彼に先行する神学者(mutakallim)たちの間で議論されていた問題が影響を与えているのだそうです。あと、古代末期のアリストテレス注釈者たちの間でのエンテレケイア解釈(だったか?)も。

そして重要なのは、Wisnovsky によれば、「この区別はスフラワルディーやモッラー・サドラーが行うようなラディカルなものではない」のだそう。彼らは〈存在〉と何性のいずれかに本源性(asalah)を認めていて、Wisnovsky が言っている「ラディカル」というのはこの点を指してのものだと思いますが、イブン=スィーナー及び彼に続く哲学的神学者たちはこういう区別をしないのだ、ということなんじゃないかと思います。そうであるなら、この議論はタフターザーニーにも当てはまるでしょう。この点を調べてみます。

それとii ですが、わたしが読んだ限り、ファナーリーは「〈存在〉は必然者だ」ということを証明しようとしています。でも、それ以外にも彼は「必然者は〈存在〉だ」という点を証明しようともしています。これはどういうことか。仮に必然者が〈存在〉だということを示せたとしても、タフターザーニーにとって〈存在〉は「必然性」や「普遍性」と同じような、外界に対応するものをもたない第二次思惟対象(al-ma'qul al-thani; =第二志向)でしかないのだから、意味がないのでは、とも思ってしまいます。或いは単純に「A→B」∧「B→A」→「A=B」ということなのでしょうか。

これについてもよくわかっていないのですが、タフターザーニーの批判の中に三段論法第二格の成立用件を根拠とした批判が見られます。これがもしかしたら鍵となるのではないか。具体的に言うと、三段論法第二格は以下のような構造をとります(Sは小概念、Mは中項、Pは大概念を指します):

           (大前提)P-M
           (小前提)S-M  
             (結論)  S-P

これが成立する為には、大前提と小前提の「質」(肯定か否定か)が異なり、且つ大前提が「全称」(「或るPはMである / でない」ではなく「全てのPはMである / でない」)でなければなりません。 しかしタフターザーニーによれば、存在一性論者は「〈存在〉が必然者と同じ性質?をもつということから、〈存在〉は必然者である(或いは必然者は〈存在〉である?)を結論しようとするのだそうです。例えば必然者は純粋善であるが、〈存在〉も純粋善だ(何故なら善の反対は悪であり、悪とは欠如を意味するのだから、欠如の反対である〈存在〉は善だろう、というような議論だったと思います)。だから〈存在〉は必然者だ(或いは必然者は〈存在〉だ?)、と。しかし三段論法第二格では二つの肯定命題から結論を引き出すことはできない(それにそもそも第二格から引き出される結論は否定命題でしかあり得ない)。これがタフターザーニーの問題の批判の骨子です。

もしかするとファナーリーが「必然者は〈存在〉だ」ということを証明しようとしたのは、この批判から逃れる為だったのではないでしょうか。例えば、三段論法第一格は以下のような構造をとります:

           (大前提)M-P
           (小前提)S-M  
             (結論)  S-P

一見して明らかな通り、第一格では大前提の主述の順が第二格とは逆転することになります。それに第一格であれば肯定命題を引き出すことも可能です(AAA かAII の二通り)。ファナーリーの「必然者は〈存在〉だ」の証明はもしかしたら、タフターザーニーの批判を受けて、既存の証明を三段論法と適合するように、具体的には第一格へと変格しようとしたものなのかもしれません。結局よくわからなかったのですが…。でも、少なくともわたしが発見した限りでは、ファナーリーは第二格の成立用件を根拠として批判が為されているということに二箇所で言及しているので、彼も多少は問題として認識していたのではないかと思います。

最後に2 です。ファナーリーは〈存在〉が存在者であるということを示す為に、形象(mithal)を定立しようとするようなのですが、そこでは確か逍遥学派の形象論(知性認識論との関わりで論じられるあれ)にも言及があります。また、先に述べた三段論法第二格への言及も一箇所ここに見られます。修論で取り上げたいと思いつつも無理だった箇所なので、9 月中には訳注を作れるように努めます。


ということで、9 月に行うべき課題は以下の四点です:

1. Wisnovsky を読んで、タフターザーニーを読み返す。
2. ファナーリーの形象論の訳注。
3. 滞ってしまったトルコ語とギリシア語の文法をやり直す。
4. 学会発表の準備。

これまた大変そうだ…。