Sonntag, 19. September 2010

ファナーリーの形象論13

やはり存在種説は形象論と切り離して調べられる問題ではないと思いなおし、最近は再び形象論 について調べています。その一環として、先のポストでも書いた通り、11月の学会発表では『プラトン的知性的諸形象』で展開される形象論について取り上げることにしました。同書の構成は大雑把には、以下の通りになります。各章各節(「探究」)のタイトルは意訳してあります。

第1章 プラトン的諸形象(muthul Aflatuniyah)
 第1探究 形象の定義と形象をめぐる学説の数、及び学問別の探究対象
 第2探究 数学的なものと自然学的なものは両者共に形象を有すという見解
 第3探究 数学的なもののみが形象を有すという見解
 第4探究 自然学的なもののみが形象を有すという見解
 第5探究 数学的なものと自然学的なものは両者共に形象をもたないという見解
 第6探究 照明哲学における形象論
 第7探究 形象はあらゆる普遍者を包含する

第2章 中間的諸形象(muthul mu'allaqah)
 第1探究 中間的形象とはどういったものか、その定義
 第2探究 中間的形象界が存在するということを示す証明
 第3探究 中間的形象界の存在否認に対する逍遥学派的反証と照明学派的回答

第3章 絶対存在と存在必然者との関係
 第1探究 絶対存在が存在必然者であることの不可能性を示し得る証明 
 第2探究 絶対存在が存在必然者である可能性を反証し得るような証明

第2章と第3章は今年の春頃にメモを取ったり翻訳したりしながら概ね目を通してあります。あくまでざっと目を通しただけですし、そもそも難しくて飛ばしてしまった箇所も多少あるため、理解できていないことはまだ山のようにあるのですが、ひとまず現在は第1章に集中している状態です。第1章で論じられているのは、形象の存在(=質料ないし個物からの離存)をめぐる5つの見解について。著者自身の証言では、第2探究で論じられる「数学的なものと自然学的なもののいずれもが形象を有す」とする見解、これが彼自身の立場に最も近いものなのだそうで、全体の論述もそうした彼自身の見解に基づいて、この5つの見解を適宜批判・擁護する中で、進められているようです。ページの内訳は、第1探究(pp. 5-15)、第2探究(pp. 16-43)、第3探究(pp. 44-6)、第4探究(p. 47)、第5探究(pp. 48-65)、第6探究(pp. 66-81)
、第7探究(p. 82)。第2と第5-6探究に多くの頁が割かれていることがわかります。

いまは第5探究のはじめの辺りを読んでいる段階で、まだまだ先は短くないのですが、現実問題として持ち時間は30分(質疑応答を長めに取りたいので発表自体は20分くらいでまとめる予定)。実際に取り上げられる問題はほんの一部です。ではどのような問題を主たる考察対象として選ぶべきか。第2探究を読んだ限りでの印象では、取り上げるべきは絶対的なもの (mutlaq)と抽象的なもの(mujarrad; =離存的なもの)との関係であるように思います。一般に哲学においては、絶対的に捉えられたものと抽象的に捉えられたものとは厳然と区別されます。「抽象的に捉えられたもの」というのは個物どもとのつながりから離れた状態で捉えられた、いわば否定的な条件の下で(bi-shart la shay')考察されたものになります。その一方で「絶対的に捉えられたもの」は個物どもとつながっているとは言えないが、そうしたつながりから離れているとも言えないような状態で捉えられた、いわば条件なしで(bi-la shart shay' / la bi-shart shay')考察されたものとなります。
しかし「数学的なものと自然学的なもののいずれもが形象を有す」とする者たち(及び論考の著者)は、両者をほぼ同定します。

我々は言う。どうして具体的個物のレベルでの[普遍者の]離存が、[それの]意識内での[離存]と同様に多に対する述語付けを妨げない、ということがあり得ないのか。ここで次のように言うことはできない。「具体的個物のレベルでの[普遍者の]離存は、多に対する[それの]述語付けを妨げる。理由は以下の通り である。具体的個物のレベルでの離存[を認めるということ]は、絶対的に捉えられた人間を離存的な人間と相等しいものとする[ことにつながる]。しかし意識内における離存[を認めること]は、前者を後者と相等しいものとはしない。従って両者は異なる〔つまり意識内における離存においてそうだからといって、 具体的個物のレベルでの離存でもそうだという議論は成り立たない〕」 。何故[このように言うことができない]かと言えば、それは我々がこう言うからである。具体的個物のレベルでの離存は、両者〔絶対的に捉えられた人間と離存的な人間〕が実現において〔=実在レベルで〕相等しいということを必然化するだけで、当てはまりにおいて〔=概念レベルで〕相等しいということまで必然化しはしない。何故なら我々は確かに諸形象の存在〔=具体的個物のレベルでの普遍者の離存〕を主張するが、しかし当てはまりにおいては絶対的に捉えられた人間の方が離存的な人間よりも一般的だからである。というのも、例えば「ザイドは離存的な人間である」とは言われ得ず、「ザイドは人間である」としか言われ得ないからである。一般的なもの〔例:動物〕がその特殊的なものどものうちのどれか1つ〔例:人間〕に対して当てはまり、そしてそれに対応するかたち で、その特殊的なもの〔人間〕が存在においても帰結するとしても、その当の一般的なもの〔動物〕がそれ以外の特殊的なものども〔例:馬〕に対して正しく述語付けられる[可能性]は排除されない。

ونقول له لم لا يجوز أن يكون التجرّد العيني كالذهني في عدم المنع عن الحمل على الكثرة لا يقال التجرّد العيني يمنع ذلك لأنه يجعل الإنسان مطلقاً مساوياً للإنسان المفارق والتجرّد الذهني لا يجعله مساوياً له فإفترقا لأنّا نقول التجرّد العيني إنما يوجب تساويهما في التحقق لا الصدق لأن الإنسان مطلقاً أعمّ من الإنسان المفارق في الصدق وإن قلنا بوجود المثل إذ إنما يصح أن يقال مثلاً زيد إنسان لا إنسان مجرّد ولزوم أحد الخواصّ بحسب الصدق العامّ في الوجود لا ينافي صدق حمله على بقيتها.

Anon., Al-Muthul al-'aqliyah al-Aflatuniyah,
ed. 'A. Badawi, p. 33, line 19-p. 34, line 7.


ここで批判者の側は普遍者の外界での離存を否定する立場にあります。「もし普遍者が外界に具体的に存在するとしたら、絶対的に捉えられた何性が質料から離れている限りで捉えられた何性(=普遍者)と同一になってしまう」。これが批判者の論理です。
何故?と言われると、その理屈についてはまだよくわかっていないのですが、少なくともこれがとても受け入れられない帰結であるということは理解できます。というのも、上で見た通り、一般に絶対的に捉えられた何性と抽象的に捉えられた何性とは別ものとされるからです。「ザイドは(絶対的に)人間だ」と言うことはできるが、「ザイドは抽象的(離存的)な人間だ」とは言い得ない。だったら、両者は別ものと考えざるを得ないだろう、と。こ のような批判に対する論考の著者の回答は、簡単にまとめれば次のようなものになります。「確かに普遍者が外界に具体的に存在するとしたら、絶対的に捉えられた何性は質料から離れている限りで捉えられた何性と同一になる。しかしそれはあくまで実在レベルでの事態であって、概念レベルでは両者の相違は確保される」。つまり論考の著者は絶対者と普遍者との関係について、「概念レベルでは異なるが、実在レベルでは同一」と考えるわけです。第2探究全体での議論は、こうした普遍者(=形象、何性)観に基づいて展開されているようです。

それでは、こうした論点が論考の著者と形象の離存を全く認めない立場、及び照明哲学における形象論との間の見解の相違について考える上でも重要なポイントになってくるのか。この点を確認するためにも、まずは早いうちに第5-6探究に目を通さなければなりません。
まぁ、そう甘くはないという気もします。ちなみにファナーリーは「知性的諸形象〔=プラトン的諸形象〕が定立されたならば、絶対存在は全ての場から離れ、またあらゆる固有存在どもから離存して、外界において存在するということになる」と言っています(Fanari, Misbah al-uns, ed. Khwajawi, p. 429, par. 4/497; 但しこれも 「サッラマイニー[سلميني]はこう言っている」というかたちでの言及)。少なくともこの一節を見る限りでは、「絶対」と「離存(抽象)」が重ねあわされているようにも見えますが、これもそう甘くはないという気がしています。

Keine Kommentare:

Kommentar veröffentlichen