Dienstag, 8. September 2009

ファナーリーの形象論1

『親密の灯』「普遍的神秘の開示」第1 章第12 根源 Shams al-Din al-Fanari, Misbah al-uns, in Miftah al-ghayb li-Abi al-Ma'ali Sadr al-Din Muhammad ibn Ishaq al-Qunawi wa-sharhu-hu Misbah al-uns li-Muhammad ibn Hamzah al-Fanari, ed. M. Khwajawi, 2nd ed. (Tihran: Intisharat-i Mawla, 1384 [2005 or 2006]), pp. 413-39

に取りかかり始めました。同所では形象の世界('alam al-mithal)を定立することの必要性が論じられているようなのですが、これがどういう訳か途中から「〈存在〉は存在する」の証明へと向かっていくことになります。よくわかりませんが、恐らく重要な箇所になるはずです。昨日はとりあえずp. 425 まで目を通しました。たぶん全体の構成としては以下のようになるんだと思います:

1. 形象(或いは形象の世界)についての存在一性論的説明(クーナウィー、ファルガーニー、イブン=アラビー(引用量順)からの引用)
2. 逍遥学派、照明学派における形象論の紹介と反駁?(照明学派の形象論は肯定的に引用されているか?)
3. (で、何故かこの後に)「〈存在〉は存在する」の証明(謬見への反駁含)

特に論点2 と3 がどうつながるのかを知りたいのですが、やはり翻訳するくらいのスタンスで向き合わないとダメですね。大体85%は何を言っているかサッパリ理解できませんでした。ただ、興味深い点もちらほら。特に巻末インデックスには立項されていないので気付きませんでしたが、普遍者についてけっこう言及がある(特に論点2 のところ?)という点が驚いたというか、うれしくなったというか。まぁ、考えてみれば当たり前なのかもしれません。全体をくまなく探せば、もしかしたら『親密の灯』中にも或る程度、普遍者に対する言及があるのかも。何でこんな重要な語を立項しないのかが不思議です。

とまれ、ここでは気になった諸節を試みに訳出してみます(意訳大いに含):

(1) p. 415, par. 4/440: [クーナウィーによれば、形象の世界というものを考えなけれなばらない、その理由を理解する為の]第一の前提は以下のようなものである。即ち純粋な光(al-nur al-mahd)は、それに相対するものとして〈非存在〉が思惟され、またそこに闇(al-zulmah)がある〔混在している?〕ところの神の真なる純粋存在(al-wujud al-haqq al-mahd)と何も変わらない。

(2) p. 416, par. 4/444, lines 1-3: [形象の世界を定立する根拠を理解する為の以上五つの前提を]お前が確認したならば、我々は以下のように言う。即ち〈存在〉に相対するものとして思惟された〈非存在〉はその思惟無しでは実現をもたない。また純粋存在は知覚することが不可能である。それ故〈存在〉に相対するものとして思惟された限りにおける〈非存在〉の階梯はそれ〔つまり〈存在〉〕にとっての鏡のようなものである。そして[これら]二つの側〔つまり〈存在〉とその鏡〕の間に個体化するものというのが、形象の世界の実相〔或いは定義?〕(haqiqah)である。

(3) p. 420, par. 4/461: 私は言う。あらゆる何性(mahiyah)は絶対的に捉えられる[ことがある]。[その場合]それ〔つまりその何性〕には神学的探求が関わってくる。他方で[その何性が]質料(maddah)に関わりをもつものとして捉えられた場合、それが或る何らかの質料(maddah ma)に関わりをもつものとして捉えられたならば、それは数学で探求されるものであり、個体化した質料(maddah mu'ayyanah)に関わりをもつものとして捉えられたならば、それは自然学で探求されるものである。

特に興味深いのが(3) です。これは明らかに何性の様相論(i'tibarat al-mahiyah)を意識した書き方です。通常、何性の様相論では、何性は以下の三つの捉えられ方をします:

1. al-mahiyah la bi-shart / al-mahiyah al-mutlaqah(無条件的何性 / 絶対何性)
2. al-mahiyah bi-shart la / al-mahiyah al-mujarradah(否定的条件における何性 / 抽象的何性)
3. al-mahiyah bi-shart shay' / al-mahiyah al-makhlutah(肯定的条件における何性 / 混成的何性)

証拠は無いですが、恐らくファナーリーは上の「絶対的に捉えられた何性」「或る何らかの質料に関わりをもつものとして捉えられた何性」「個体化した質料に関わりをもつものとして捉えられた何性」を、それぞれここでの1、2、3 に対応させて考えていたのではないかと思います。

このうち問題となるのは2 です。否定的条件における何性 / 抽象的何性とは、通常あらゆる付帯性から離れた状態で(つまりそれらとのつながりを否定された状態で)捉えられた何性を意味します。我々が経験的に出会うものどもは全て何性に様々な夾雑物が付帯したようなものなので、それらとのつながりを断たれた何性は外界においては(人によっては「意識内においても」と主張しますが)存在をもち得ません。ここからこの何性2 は普遍者と同定されたりするようです。しかしここでファナーリーは、この何性2、或いは普遍者を数学と関連付けることで、「或る何らかの質料に関わりをもつものとして捉えられた何性」と読み替えているように思います。そしてファナーリーは普遍者を形象と関連付けて論じているような印象を受けます。もしかしたらこれによって普遍者、及び形象の外界における存在を主張することができるようになり、それが「〈存在〉は存在者である」の証明へとつながっていくのかもしれません(勿論ちゃんと読み直したら全く見当外れかもしれないので悪しからずです)。何にしても、今日中にp. 439 まで目を通すことを目指します。

それと『親密の灯』冒頭部には学問論を扱ったらしき箇所もあるようなので、ちゃんと時間をつくってそこも読んでみなければいけないのかもしれませんね。

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[後日付記]
というような見通しは、現段階ではほとんど与太話でしかない訳ですが、とりあえず数学が言及されていることは事実なので、R. Rashed, ''Mathématiques et Philosophie chez Avicenne'', in J. Jolivet and R. Rashed (eds.), Études sur Avicenne (Paris: Les Belles Lettres, 1984), pp. 29-39 を読んでみました。が、何だかよくわかりませんでした…。これはこれで後で再び読み直すことにして、とりあえずは以下の二つの論文に更に目を通そうと思います:


2. R. Rashed, ''Metaphysics and Mathematics in Classical Islamic Culture: Avicenna and His Successors'', in T. Peters, M. Iqbal and S. Nomanul Haqq (eds.), God, Life and the Cosmos: Christian and Muslim Perspectives (Aldershot: Ashgate, 2002), pp. 151-71.

そしてその後は読もう読もうと思いつつ先延ばしにしていた M. Sebti, ''Le statut ontologique de l'image dans la doctrine avicennienne de la perception'', Arabic Sciences and Philosophy, 15 (2005), pp. 109-40 を読みます。

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