ふぅ〜、疲れた…。
でも、結局納得のいく水準には全然達していなくて、色々とお世話になった諸先輩方には本当に申し訳なかったです。すみません。そのせいもあって、ここ二日くらいはずっとヘコんでいたんですが、まぁ、仕方ない!やるだけのことはやりました、たぶん。それと嘘はついてない(はず)です。わからないところや(紙幅の都合もあって)原文に必ずしも沿えなかったところなどは、注でそう書いたし。
どのくらい直させられるのか(たぶん直すとしたら第II 章が中心となるはずですが)、或いは掲載を見送られるのか、全くわかりませんが、とりあえずもう出してしまった以上、どうしようもありません。次へ行きます。目下やるべきは、1. 今回の論文で棚上げした問題の再調査、2. 以前から調べようと思っていた問題の調査の二つです。今回の論文では、触れられるものなら触れたかったけどよくわからなくて断念した問題が二点あります。
i. タフターザーニーが「存在」と「存在者」をどう区別しているか
ii. ファナーリーが「必然者は〈存在〉である」を証明することの意味
i は、今回の論文でわたしを最も疲弊させてくれた問題です。タフターザーニーは或る箇所では必然者(という存在者)と可能的なものども(という存在者ども)の間での〈存在〉(=絶対存在)の共有などを論じているように見えますが、別の箇所では必然者の存在(この「存在」は〈存在〉とは違うもののはずです)と可能的なものどもの諸存在との間での共有を論じているようにも見えます。これらは意図的に論じ分けられているのか、或いは彼の中で混同があったのか。タフターザーニーの議論を何度も読み返しましたが、やはりよくわかりません。
何となくこの問題は〈存在〉と何性との区別という問題と関わるような気がします。或る任意の存在者x は〈存在〉と何性に分割される。しかしこれはあくまでその存在者の構造を概念的に分析した場合にのみ真なのであり、概念的分析を行う前の生の実在のレベルではそもそも分割を云々する余地は無い。何故なら或るのはその存在者x ただそれだけだからである。
これが〈存在〉と何性の区別という問題の梗概です。但しこれを必然者にまで適用できるのか否か、つまり必然者も〈存在〉と何性にまで分析することができるのか否か、という点については見解の相違が見られます(たぶんタフターザーニーは「できる」と考えています)。ただ、これが「存在」と「存在者」の区別という問題に具体的にどう関わってくるのか、それが問題です。とにかく〈存在〉と何性の区別については、最近ではWisnovsky が研究しているので、彼の論文、著作を読まなければなりません。しんどい…。目下読むべきは以下の二つの研究でしょう。
・R. Wisnovsky, Avicenna's Metaphysics in Context (Ithaca, New York: Cornell University Press, 2003).
・id., ''Avicenna and the Avicennian Tradition'', in P. Adamson and R. Taylor (eds.), The Cambridge Companion to Arabic Philosophy (Cambridge: Cambridge University Press. 2005), pp. 92-136.
後者は簡単に言うと前者のサマリーなんですが、それだけでなく、新たに付け加えられている情報もあります。それがイブン=スィーナー以降の哲学者たちの間で〈存在〉と何性はどう区別されていたのか、という議論です(とはいえ拾い読みしかしていないので、もしかしたら既に前者の中にもそういう議論は盛り込まれているのかもしれませんが…)。Wisnovsky によれば、イブン=スィーナー以降の哲学的神学者たちは概ね、イブン=スィーナーにおける〈存在〉と何性の区別に従っているそうです。それではイブン=スィーナーは両者をどう区別しているのか。これについては、まだきちんと読んでいないのでわかりかねるのですが、少なくとも彼の議論には「存在者」(mawjud)と「もの」(shay')、「存在者性」(mawjudiyah)と「もの性」(shay'iyah)との区別という、彼に先行する神学者(mutakallim)たちの間で議論されていた問題が影響を与えているのだそうです。あと、古代末期のアリストテレス注釈者たちの間でのエンテレケイア解釈(だったか?)も。
そして重要なのは、Wisnovsky によれば、「この区別はスフラワルディーやモッラー・サドラーが行うようなラディカルなものではない」のだそう。彼らは〈存在〉と何性のいずれかに本源性(asalah)を認めていて、Wisnovsky が言っている「ラディカル」というのはこの点を指してのものだと思いますが、イブン=スィーナー及び彼に続く哲学的神学者たちはこういう区別をしないのだ、ということなんじゃないかと思います。そうであるなら、この議論はタフターザーニーにも当てはまるでしょう。この点を調べてみます。
それとii ですが、わたしが読んだ限り、ファナーリーは「〈存在〉は必然者だ」ということを証明しようとしています。でも、それ以外にも彼は「必然者は〈存在〉だ」という点を証明しようともしています。これはどういうことか。仮に必然者が〈存在〉だということを示せたとしても、タフターザーニーにとって〈存在〉は「必然性」や「普遍性」と同じような、外界に対応するものをもたない第二次思惟対象(al-ma'qul al-thani; =第二志向)でしかないのだから、意味がないのでは、とも思ってしまいます。或いは単純に「A→B」∧「B→A」→「A=B」ということなのでしょうか。
これについてもよくわかっていないのですが、タフターザーニーの批判の中に三段論法第二格の成立用件を根拠とした批判が見られます。これがもしかしたら鍵となるのではないか。具体的に言うと、三段論法第二格は以下のような構造をとります(Sは小概念、Mは中項、Pは大概念を指します):
(大前提)P-M
(小前提)S-M
(結論) S-P
これが成立する為には、大前提と小前提の「質」(肯定か否定か)が異なり、且つ大前提が「全称」(「或るPはMである / でない」ではなく「全てのPはMである / でない」)でなければなりません。 しかしタフターザーニーによれば、存在一性論者は「〈存在〉が必然者と同じ性質?をもつということから、〈存在〉は必然者である(或いは必然者は〈存在〉である?)を結論しようとするのだそうです。例えば必然者は純粋善であるが、〈存在〉も純粋善だ(何故なら善の反対は悪であり、悪とは欠如を意味するのだから、欠如の反対である〈存在〉は善だろう、というような議論だったと思います)。だから〈存在〉は必然者だ(或いは必然者は〈存在〉だ?)、と。しかし三段論法第二格では二つの肯定命題から結論を引き出すことはできない(それにそもそも第二格から引き出される結論は否定命題でしかあり得ない)。これがタフターザーニーの問題の批判の骨子です。
もしかするとファナーリーが「必然者は〈存在〉だ」ということを証明しようとしたのは、この批判から逃れる為だったのではないでしょうか。例えば、三段論法第一格は以下のような構造をとります:
(大前提)M-P
(小前提)S-M
(結論) S-P
一見して明らかな通り、第一格では大前提の主述の順が第二格とは逆転することになります。それに第一格であれば肯定命題を引き出すことも可能です(AAA かAII の二通り)。ファナーリーの「必然者は〈存在〉だ」の証明はもしかしたら、タフターザーニーの批判を受けて、既存の証明を三段論法と適合するように、具体的には第一格へと変格しようとしたものなのかもしれません。結局よくわからなかったのですが…。でも、少なくともわたしが発見した限りでは、ファナーリーは第二格の成立用件を根拠として批判が為されているということに二箇所で言及しているので、彼も多少は問題として認識していたのではないかと思います。
最後に2 です。ファナーリーは〈存在〉が存在者であるということを示す為に、形象(mithal)を定立しようとするようなのですが、そこでは確か逍遥学派の形象論(知性認識論との関わりで論じられるあれ)にも言及があります。また、先に述べた三段論法第二格への言及も一箇所ここに見られます。修論で取り上げたいと思いつつも無理だった箇所なので、9 月中には訳注を作れるように努めます。
ということで、9 月に行うべき課題は以下の四点です:
1. Wisnovsky を読んで、タフターザーニーを読み返す。
2. ファナーリーの形象論の訳注。
3. 滞ってしまったトルコ語とギリシア語の文法をやり直す。
4. 学会発表の準備。
これまた大変そうだ…。
おつかれさまでした!審査結果が楽しみですね。
AntwortenLöschenありがとうございます。
AntwortenLöschen楽しみ、、まぁ、はい。
どちらかというと怖いんですけど…。
というか、sakamotoさんこそお疲れさまです。
Warburgおめでとうございます。