思惟対象たる諸形象が全ての普遍的何性どもに対して定立されるなら、それは我々の示唆したところである。他方でそれらが種どもに対してのみ定立されるなら、それはプラトン的[諸形象]であるが、そのような場合は絶対存在が限定存在どもにとっての種であることは可能である。
المثل المعقولة إن ثبتت لجميع الماهيات الكلية فذلك ما أشرنا إليه وإن ثبتت للأنواع فقط وهي الأفلاطونية فيجوز أن يكون الوجود المطلق نوعاً للوجودات المقيدة.
Fanari, Misbah al-uns, ed. Khwajawi, p. 430, par. 4/504.
2か月前の時点でも、ファナーリーが絶対存在を限定存在(=固有存在 / 関係的存在?)どもにとっての種だと捉える説に対してある程度のシンパシーを抱いていたという点は読み取れました。しかし「我々の示唆したところ」とは何を指すのか、また彼の論調が何故こんなにも歯切れの悪いものになっているのかという点については、全く理解できませんでした。ところが今回改めて『プラトン的知性的諸形象』の下訳を見直していてハタと気付きました。これは恐らく同書第3章第2探究(「絶対存在がそれ自体において必然的に存在することがあり得るということがそれを通じて証明され得るような[議論]について」)の中で列挙されている第10の根拠との関連で理解すべき一節です。少し長いですが、以下に全文を引用します。
あらゆる種は相互に対立しあう個体化どもを受容するにもかかわらず、自らがそれによって他の種どもから識別されてあるような或る個体化を有す。故に絶対存在は互いに矛盾しあう一性どもを受容するにもかかわらず、一なる何性であり、その一性によって外界において他の何性どもから識別されてあるのである〔→前者の主張〕。ところでこのようなことを主張する者は皆、「絶対存在はそれ自体の故に必然的に存在するものである」〔→後者の主張〕と言っている。それ故、絶対存在はそれ自体の故に必然的に存在するものである。そしてこれこそが求めるところであった。
ここでお前が以下のように言ったとする。前者の主張から後者の主張が帰結することはない。何故なら諸形象[の存在]を主張する者は前者を主張しはするが、後者を主張することはないからである。故に我々は「前者を主張する者が皆、後者を主張する」とは認められない。
そうしたら我々はこう言う。前者の主張は後者の主張を結果させる。とはいえ、[確かに]それは「帰結」と言えるようなものではない。むしろ帰納[によって得られた結果]を証拠として、慣習的にたまたまそう見解が一致しているという類のものである。しかし諸形象[の存在]を主張する賢者たちは[そもそも]前者を主張しない。何故なら彼らは種どもにしか諸形象[の存在]を認めず、類どもに、ましてや類比的本性どもに諸形象[の存在]を認めることはないからである。
كل نوع له تعيّن يمتاز به عن سائر الأنواع مع قبوله التعيّنات المتقابلة فالوجود المطلق ماهية واحدة ممتازة بوحدتها في الخارج عن سائر الماهيات مع قبولها الوحدات المتباينة وكل من قال بذلك قال بأن الوجود المطلق واجب الوجود لذاته فيكون الوجود المطلق واجب الوجود لذاته وهو المطلوب فإن قلتَ القول بذلك لا يستلزم القولَ بهذا فإن القائل بالمثل يقول بالأول دون الثاني فلا نسلّم أن كل من قال بالأول قال بالثاني فنقول إستتباع القول بالأول للقول بالثاني وإن لم يكن لزومياً لكنه إتفاقي بشهادة الإستقراء والقائلون بالمثل من الحكماء لا يقولون بالاول فإنهم إنما يقولون بالمثل للأنواع دون الأجناس فضلاً عن الطبائع المشكّكة.
Anon., Al-Muthul al-'aqliyah al-Aflatuniyah,
ed. Badawi, p. 140, lines. 4-13.
この一節は絶対存在が存在必然者であるということを示す根拠(=同書執筆当時の存在一性論者が行っていた議論?)の1つとして言及されているようです。重要なのは最後の段落の下線部です。それによると、形象の存在を主張する者たちは種に対してしか形象の存在を認めません。つまり彼らは類や類比的本性といった種以外のものについては、形象をもたないと考えるわけです。そして私見では、このうちの「類比的本性」の方に絶対存在は含まれます。というのも、一般に哲学において絶対存在は類比的なものとして捉えられているからです。例えば神も被造物も同様に存在すると言える。しかし神の存在の方が被造物の存在よりも、より強くまたより先である。従って存在には類比性が認められる。これが絶対存在の類比性を主張する根拠です。『プラトン的知性的諸形象』の著者もまたこの論理に従って、絶対存在を類比的なものとして捉えているのだと思われます。ここで重要なのは、どうやら「種のみが形象をもつ」と考えるか「種のみならず、類も類比的本性も形象をもつ」と考えるかで見解の相違があったということ、しかもこの違いは「絶対存在=存在必然者」とし得るかどうかという違いにも直結してくるものだったということです。どういう理屈でそうなるのかはまだ理解できていませんが、いずれにせよ、こうした見解の相違があったということを銘記しつつ、冒頭で引用したファナーリーの発言を参照すると、これまで理解できなかった上記の疑問点が解消されるように思います。彼の発言をもう一度以下に引用します。
思惟対象たる諸形象が全ての普遍的何性どもに対して定立されるなら、それは我々の示唆したところである。他方でそれらが種どもに対してのみ定立されるなら、それはプラトン的[諸形象]であるが、そのような場合は絶対存在が限定存在どもにとっての種であることは可能である。
Fanari, Misbah al-uns, ed. Khwajawi, p. 430, par. 4/504.
ここでファナーリーが意図しているのは、恐らくこういうことです。「1) 種のみが形象をもつのか、それとも 2) 種だけでなく類や類比的本性(=絶対存在)も形象をもつのか。それはわからない。しかしいずれの説を採っても、絶対存在が存在必然者であることに変わりはない」。では何故いずれの説を採っても、絶対存在が存在必然者となると言えるのか。ここから先はまだスペキュレーションの段階ですが、根拠としては次のような議論が想定されているのではないでしょうか。まず 1) の場合は、絶対存在という類比的本性が形象をもつことになるし、2) の場合も絶対存在が限定存在どもにとっての種である(ことはあり得る)のだから、やはり絶対存在は形象をもつということになる。そして形象を有するようなものと形象自体は、(実在レベルでは)同一である(cf. Fanari, Misbah al-uns, p. 421, par. *: 「質料から離存してしかあり得ないようなものの形象は、その形象の対応先そのものである」)。従って形象の離存説が正しいとされる以上、形象を有する絶対存在も離存するということになる(ただ、ここから先、どうして「絶対存在が離存する」が「絶対存在は存在必然者である」につながっていくのかについては、よくわかりません)。
ということで、こうした仮説が正しいのかどうか明らかにするために、まず以下の点をテクストレベルで調べます。
1) 『プラトン的知性的諸形象』の著者はそもそも絶対存在を存在者でないと考えていたのかどうか(これが実は微妙だったりします)。
2) 種(ないし形象を有するようなもの)と形象そのものを同定するような議論が本当に為されているのかどうか(種が離存的なものとして語られているのかどうか等)。
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