Mittwoch, 18. August 2010

ファナーリーの存在種説2

11月上旬の学会発表の要旨提出の〆切が今月末に迫っています。5月には「存在種説」でやると言って申し込んだ以上、やはりがんばってそれで行くべきでしょう。ということで、去年の秋頃から訳しためていた諸々の翻訳を数カ月ぶりに読み直してみています。

明言自体があまりないので、何とも言えないのですが、恐らくファナーリーは絶対存在が限定存在どもにとっての種であると考えています。例えば『親密の灯』中には、以下のような一節があります。

思惟対象たる諸形象が全ての普遍的何性どもに対して定立されるなら〔つまり全ての普遍的何性どもがもつような思惟対象たる諸形象について言えば〕、それは我々の示唆したところである。他方でそれらが種どもに対してのみ定立されるなら〔つまり種のみがもつような思惟対象たる諸形象についてはと言えば〕、それはプラトン的[諸形象]であるが、そのような場合は絶対存在が限定存在どもにとっての種であることは可能である。

المثل المعقولة إن ثبتت لجميع الماهيات الكلية فذلك ما أشرنا إليه وإن ثبتت للأنواع فقط وهي الأفلاطونية فيجوز أن يكون الوجود المطلق نوعاً للوجودات المقيدة.

Fanari, Misbah al-uns, ed. Khwajawi, p. 430, par. 4/504.

「我々の示唆したところである」の意味がよくわからないし、またファナーリーの論調自体がいくぶん歯切れの悪いものになってはいますが、ひとまずファナーリーが絶対存在を限定存在(=固有存在 / 関係的存在?)どもにとっての種だと捉える説に対してある程度のシンパシーを抱いていたという点は読み取れます。しかし一般にイスラーム哲学においては、絶対存在は類比的なものと考えられます。そのため、絶対存在が種であるとしたら、種も類比的であるということになる。はたしてザイドがアムルよりも「より人間である」などと言うことができるのか。ファナーリーのソースの1つである『プラトン的知性的諸形象』中では、次のように論じられます。

この根拠〔直前部で紹介されている「本質的要素」が強弱を受容するという議論を指す〕は無効である。何故なら本質的要素(dhati)が強弱を受容するのは不可能だということについての彼らの証明は完成の極みにあるからである。[ここでわざわざ]それについて、或いはそれに対して言われているところ〔つまりその証明を批判する言説〕について、言及する必要はない。この「根拠」に対する以下の回答は、[あくまで]彼らの証明が完成されたものだということを知らしめるためのものである。我々は言う。本質的要素は強弱を受け入れない。

وهذا الوجه باطل لأن دليلهم على إمتناع قبول الذاتي الشدة والضعف في غاية الإحكام ولا بأس بذكر ما قيل عليه والجواب عنه ليُعلم إستحكامه فنقول الذاتي لا يحتمل الشدة والضعف.

Anon., Al-Muthul al-'aqliyah al-Aflatuniyah,
ed. Badawi, p. 137
, lines 3-5.

「本質的要素」とは何性を構成する要素のことであり、「人間」でいえば、「動物」と「理性的なもの」がこれに当たります。とはいえ、上で問題となっていたのは、存在と種の関係であって、存在と本質的要素との関係ではなかったはず。可能性としては、(1)ここでは種も「本質的要素」と呼びうると考えられていたというパターン(ちなみに種を「本質的要素」と呼ぶことができるかどうかという問題は、既にイブン=スィーナー『治癒の書』「入門 al-Madkhal 」でも論じられています、確か)と、(2)種の上位概念であるはずの本質的要素が強弱を受容しないということを示せば、必然的にその下位概念である種も強弱を受容しないことになる、といった方向での論証が行われているというパターンの少なくとも2通りが考えられるでしょうが、いずれにしてもここで証明が目指されているのは「種は強弱を受容しない」という点です(たぶん…)。つまり『プラトン的知性的諸形象』の著者は、「種も強弱を受容しうる」という説に対して、そんなことはあり得ないと言っているわけです。

それではファナーリーはこうした一連の議論に対して、どのような立場を採るのか。結論から言えば、彼も『プラトン的知性的諸形象』の著者同様、「種が強弱を受容することはない」と考えているように見受けられます。以下に引用する一節が、彼の答えにあたるものです。

我々は言う。存在とはそのようなものであるとせねばならない。即ち関係的な固有存在どもは、類的・種的・sinf 〔?〕的・個別的・霊的階梯的・形象的階梯的・感覚的階梯的な神名的個体化どもの諸関係から生ずる絶対存在の諸関係である、と。何故なら我々は以下のように言うからである。それ〔=絶対存在〕は、個体化したあらゆるものの内にあってもそれ自体においては個体化していない。ところであらゆる個体化はそれ〔=絶対存在〕の何らかの関係である。故に強弱というのは[絶対存在を]受容するものどもの多様性に即してある様々な関係に従って絶対存在の諸作用が[顕われてくる、その]顕現の中にあるのである。けれども[絶対存在]それ自体に即して見れば、そういった顕現の中にあるあらゆるものは[あくまでそうした]「あらゆるもの」なのである。これこそ我々における、あらゆる真理に対する真理探究である。


قلنا فليكن الوجود كذلك يعني أن الوجودات الخاصة الإضافية نسب الوجود المطلق الناشئة من نسب التعينات الأسمائية الجنسية او النوعية او الصنفية او الشخصية او المرتبية الروحانية او المثالية او الحسية لما قلنا إنه في كل متعين غير متعين في ذاته وكل تعين نسبة من نسبه فالشدة والضعف في ظهور آثاره بحسب نسبه المختلفة حسب إختلاف القابليات أما بحسب ذاته فكل شيء فيه كل شيء وهو التحقيق عندي في كل حقيقة.

Fanari, Misbah al-uns, pp. 430-1, par. 4/506.

細かい部分でよくわからないところはありますが、少なくともここでファナーリーが強弱を〈関係〉に帰しているということは確認できます。また彼はこれに先行する箇所で、類比性(tashkik)を存在そのものではなく、存在の〈関係〉に帰してもいます(Fanari, Misbah al-uns, p. 167, par. 3/340)。そのため、結論としては、ファナーリーは〈関係〉概念を援用することで、種である絶対存在が強弱を受容する可能性を否定している、と言うことができるのではないかと思います。但しこの結論のみで議論として意味をなすかどうかもわからないし、そもそもこの結論自体、妥当かどうかかなり不安でもあります。また現状では、『プラトン的知性的諸形象』の著者とファナーリーの間での見解の異同が判然としません。差しあたっては、1) 前者が存在の類比性を認めていたかどうか、並びに 2) 前者もファナーリー同様、絶対存在を限定存在どもにとっての種だと考えていたかどうか、の2点を調べる必要がありそうです。

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