Samstag, 6. Februar 2010

ファナーリーの形象論7

・知性的諸形象は質料から完全に離存しており、その形象の対応先そのものである。
・神学の探究対象は質料から完全に離存している。
→それ故、知性的諸形象と神学の探究対象(=神、つまり絶対存在?)との間には(何らかの?)対応関係があり、前者の存在を証明すれば、それの対応先である後者も外界において存在するということになる。

てことなのでしょうか?
自分でもかなり安直な気がしていますが、とにかくことの真偽を確かめるためには、(1)神学の探究対象が神(=絶対存在)だということ、並びに(2)知性的諸形象の存在証明において示されているのが知性的諸形象の「外界における存在」だということ、の二点をまず確認しなければなりません。

しかももしそうだとしても、「それなら、知性的諸形象の存在証明のみで事足りるところを、何故想像力的諸形象の存在証明までしているのか」「知性的諸形象と想像力的諸形象との間での絶対的形象の共有という議論にはどういった意義があるのか」などといった問題が今度は出てきます。とりあえず今日はこの後、学問論の周辺を読んでみます。
3 月3 日には、nikubeta さんに論文の検討会を開いて頂くことになりました。そしてそれに先立ち、2 月末日までに原稿を送ることにも。集中集中。

また今日はnikubeta さんのご指摘で、以下の研究書の存在を知りました:

L. Spruit, Species intelligibilis: From Perception to Knowledge, 2vols. (Leiden: Brill, 1994-5).

遅ればせながら、先ほど注文しました。全くお恥ずかしい限りです。

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[後日付記]
記述に不正確なところがあったので訂正します。ファナーリーは神学の探究対象が「質料から完全に離存している」とは言っていませんでした。正確には「絶対的に捉えられた何性」とか「質料の中に生ずることが不可能なもの」(al-mumtani' husulu-hu fi al-maddah)という言い方をしています。とはいえ、「質料の中に生ずることが不可能なもの」は質料から完全に離存している、と言えるのでは?(自信はないですが…。)そして「質料の中に生ずることが不可能なもの」と
「絶対的に捉えられた何性」が同じものだというのが、よくわかりません。

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