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Mittwoch, 5. Oktober 2022

魔術研公開講演会:イスラム圏における魔術伝統の多様性

またまた、ずいぶんとひさしぶりの更新となってしまいました。ツイッター等で宣伝しているため、わざわざこの記事を読んでいるなら、すでにご存じの方がほとんどだとおもいますが、今年度から(ひとまず)三年計画でイスラム圏と西欧とのあいだの「魔術的知」の交流の歴史を包括的に記述することを目指す研究プロジェクトがスタートしました。ヒライさんプロデュースのもと、かっこいいウェブサイトも目下構築中です。

そんなわれわれ魔術研による主催のもと、先月半ばに東京大学駒場キャンパスで、標記のとおり、公開講演会を執り行いました。スピーカーはプロジェクトのメインメンバーでもある、ライアナ・セイフ博士(アムステルダム大学)。専門は 9-12 世紀のアラビア魔術ですが、その西欧世界への受容にかんしてもラテン語史料にもとづき研究できるという稀有な人です。講演タイトルは The Diversity of Islamicate Magical Traditions(「イスラム圏における魔術伝統の多様性」)。その一部始終が以下の動画に収録されています。ぜひご覧ください!


以下、皆さんの理解に資するよう、概要をまとめておきます。ライアナの講演は、9-10 世紀頃のアラビア語魔術書が提出した種々の魔術的アイディア・世界観が 12 世紀頃を分水嶺とし、イスラム教(も含めたアブラハムの一神教全般)にでてくるさまざまな概念・神学上のドグマと整合するように再解釈されていく、その流れを概観するものです。ちなみに、ここでの「魔術」は「遠隔からのアクション」(action at a distance)という意味をコアの部分で有しているそうです。

初期アラビア魔術を代表する史料としては、サービト・イブン・クッラ『護符について』(On Talismans)、擬アリストテレス・ヘルメス関連文書(Ps.-Aristotelian Hermetica)、そしてピカトリクスのアラビア語原典である『賢者の目標』(Ghāyat al-ḥakīm)が紹介されます。いずれの作品も諸惑星の有する特別な力を地上に降ろすための方法論(護符作成時の星位、護符の材質など)を語っており、理論・実践の両面で占星術が魔術にとって不可欠の前提をなすことが理解できます。なお、占星術のこうした役割については、史料中での証言を参照し、具体的に例証されてもいきます。

これらの魔術書のなかで、彼女が特段の歴史的重要性を認めているのが、擬アリストテレス・ヘルメス関連文書。これはアリストテレスが弟子のアレクサンドロスにたいし、太古の賢者ヘルメスより伝わる秘密の叡智を授けるという体裁で捏造された一連のアラビア語偽書群です。擬アリストテレス・ヘルメス関連文書にかんしては、ここ数年、彼女が精力的に研究を進めています。

さて、彼女の議論に特徴的なのは、こうしたアラビアの星辰魔術(astral magic)の伝統を「アラビア・ヘルメス主義」(Arabic Hermeticism)とよぶ点です。大雑把にいえば、「ヘルメスの名をかんした文書群にもとづき構築された一貫性のある思想体系」をヘルメス主義とよぶなら、そのようなものは歴史上存在しなかった、というのが、近年のヨーロッパ学におけるコンセンサスのようです。

しかしながら、本講演でライアナはアラビアにはヘルメス主義とよべるような思想が存在したのだと論じます。それが星辰魔術です。より正確には、擬アリストテレス・ヘルメス関連文書にもとづくアラビア星辰魔術の理論と実践。これを、彼女は「アラビア・ヘルメス主義」とよびます。さらに擬アリストテレス・ヘルメス関連文書を構成する諸文書は、まとめて書写され、同一写本内に収録されていることが多い。ここから「擬アリストテレス・ヘルメス関連文書」というユニットは近代に入って発明されたものではなく、すでに中世から存在していたことがわかると、彼女は説きます。

では、アラビア・ヘルメス主義の核をなす、この擬アリストテレス・ヘルメス関連文書には、どのような内容が含まれるのか。彼女によると、大きく以下の 5 つの点が共通してみられます。(1)宇宙論的・宇宙創成論的なサイクルがになう決定的役割。(2)デミウルゴス(ハードゥース等とよばれる)によって人間が創造されたという神話ストーリー。(3)7 人の賢者 / 預言者(七惑星と結びつけられる)の存在。(4)意志により引き起こされる因果のシステムとその伝達者である霊的実体=ルーハーニヤート。(5)共通の魔術実践:タリスマン制作など。

以上の内容をもつアラビア・ヘルメス主義=星辰魔術の伝統が、12 世紀頃を境に「イスラム化」(Islamicisation)されていく。その様子は次の 7 つの側面から確認できるそうです。(1)ルーハーニヤートという謎のエージェントが明確に天使に置き換えられる。(2)それ以前の魔術理論からは排除されていたジンの存在が復活する。(3)専門的で複雑だった占星術の理論・実践が単純化される。(4)コーラン解釈にもとづく議論が発展する。(5)デミウルゴスの存在が消し去られる。(6)惑星と結びつけられていた異教の賢者が預言者やイマームに置き換えられる。(7)文字論が神名論との関連のもとに発展する。これ以外にも、ソロモン魔術(ユダヤ教魔術)の話もでてきますが、適切にまとめられそうもないので、やめておきます。

なお、彼女も「ヘルメス主義」という単語は使用しているものの、アラビア星辰魔術の伝統が緊密で決してゆるがない一貫した思想体系を有していた、とまでは考えていません。だからこその、魔術伝統の「多様性」なのでしょう。ただ、擬アリストテレス・ヘルメス関連文書の受容史という側面からイスラム圏の魔術史を眺めてみれば、「ヘルメス」の名のもとにゆるく括れるだけの共通要素は確認できるということのようです(おそらく)。

参考資料

Montag, 5. September 2011

アーミディー研6

第6回アーミディー研を行いました。

1. Ihkam: p. 22, line 4 まで。今回は難しくて意味のとれない箇所がいくつもありました。素人読みのため、どうしようもないのですが、とりあえず以下にそれらを列挙しておきます。

[T1: p. 21, lines 3-5]
法源〔法源学(?)〕とは、法(fiqh)のdalil どもや、それらが聖法の諸規定を指し示す際の〔その指し示しの〕様相、ならびにそれらを通じて推論が遂行される〔推論規則(?)〕(al-mustadall bi-ha)の様態を総体的に〔扱うもの〕であって、その細目を、〔即ち〕個々の特定の諸問題において使用される特殊な〔それら〕を〔扱うもの〕ではない。

فأصول الفقه هي أدلة الفقه وجهات دلالاتها على الأحكام الشرعية وكيفية حال المستدل بها من جهة الجملة لا من جهة التفصيل بخلاف الخاصة المستعملة في آحاد المسائل الخاصة.

全体を通していまひとつよくわからないが、特に下線部が意味不明。

[T2: p. 21, lines 16-18]
〔何故法源学が〕思弁神学〔から引き出されるの〕かと言えば、それは諸規定のdalil どもが諸規定の意味をshar' として伝達する(?)ということに関する知が、至高なる神と彼の諸属性、彼の使徒の――もたらしたものにおける――正しさ、そしてその他思弁神学以外〔の学〕では知られえないようなものについての認識に依存しているためである。

أما علم الكلام فلتوقف العلم بكون أدلة الأحكام مفيدة لها شرعاً على معرفة الله تعالى وصفاته وصدق رسوله فيما جاء به وغير ذلك مما لا يعرف في غير علم الكلام.

下線部がよくわからない。特にshar'an の意味が不明。

[T3: p. 21, ult-p. 22, line 4]
〔何故法源学が〕アラビア語学〔から引き出されるの〕かと言えば、それはコーランやスンナ、そして共同体内のカリフ選挙人(ahl al-hall wa-al-'aqd)の発言などといった、言語で表されたdalil どもに関する認識が、それらのmawdu' どもに対して言語的に(?: lughatan)、〔即ち(?)〕haqiqa やmajaz 、'umum 、khusus 、itlaq 、taqyid 、hadhf 、idmar 、mantuq 、mafhum 、iqtida' 、ishara 、tanbih 、ima' 、そしてそしてその他アラビア語学以外〔の学〕では知られえないようなものの観点から、依存しているためである。

وأما علم العربية فلتوقف معرفة دلالات الأدلة اللفظية من الكتاب والسنة وأقوال أهل الحل والعقد من الأمة على معرفة موضوعاتها لغة من جهة الحقيقة والمجاز والعموم والخصوص والإطلاق والتقييد والحذف والإضمار والمنطوق والمفهوم والإقتضاء والإشارة والتنبيه والإيماء وغيره مما لا يعرف في غير علم العربية.

恐らく文法用語と思われる単語の意味を確認する必要有。また下線部のmawdu'atu-ha が意味不明。ha を直前にあるdalalat (指示作用)ととり、mawdu' を「基体」の意味で解して、これを「指示作用の基体」→「指示者」(=al-adilla al-lafziya)と考えることもできそうだが、解釈として恣意的にすぎる気もする。

2. Weiss: p. 57, line 27 まで。前回は神の存在まで解説が終わっため、今回は神の属性から。正統派(とアーミディーが呼ぶ)神学者たちは、神の本体(dhat)に7つの自体的属性(al-sifat al-dhatiya / al-nafsiya)を認めます。「知('ilm)」「意志(irada)」「力(qudra)」「生(hayat)」「聴力(sam')」「視力(basar)」「言葉(kalam)」の7つです。これらの属性を神の本体に対して定立するため、正統派神学者は「定立の徒(ahl al-ithbat)」とも呼ばれるのだそう。他方でこれらの属性を本体から否定する神学者もいました。彼らは「否定の徒(ahl al-ta'til)」と呼ばれ、この種の人々はアーミディーによれば、哲学者やシーア派、ムウタズィラ学派によって構成されていたそうです。もちろん彼はこの否定の徒に対して批判を行います。しかし気をつけなければならないのは、彼が批判するのは否定の徒だけではないという点です。たしかにアーミディーは肯定の徒の議論の結論部を支持しています。しかし彼が支持するのは、その結論部のみ。そこに至るまでの方法論は、誤りであると指弾しています。彼らは上記の自体的諸属性を定立する際に、現在から非在を類推します(=qiyas al-gha'ib 'ala al-shahid)。つまり彼らは人間(=現在)が有する属性をヒントに、神(=非在)がどのような属性を有すか類推しているわけです。しかしアーミディーによれば、これは虚偽です。何故なら人間と神は全く異なる本性を有すのであって、これは人間に関する判断をそのまま馬に対して適用するようなものだからです。そのためアーミディーは神の有する属性の実相を、人間との類比に基づいてではなく直接、三段論法に基づいて、1つずつ確認していくことになります。

Mittwoch, 31. August 2011

アーミディー研5

遅くなりましたが、先週末に第5回アーミディー研を行いました。

1. Ihkam: p. 21, line 2 まで。前回の終盤で読んだあたりから読み直したところ、今回はほとんど進みませんでした。今回議論になったのは、p. 20, lines 14-15 の内容です。前回のポストでも示した通り、直前部のp. 20, lines 4-5 でアーミディーは、「法(fiqh)」の定義を示しています。それによると、法とは「実定法の根拠となるような聖法の諸規定(al-ahkam al-shar'iya al-furu'iya)全体から思弁と推論を通じて獲得される知」のみをいうのだそうです。今回よくわからなかったのは、このうちの「実定法の根拠となる(furu'iya)」の部分。何故ここでわざわざ「実定法の根拠となる」という限定が付されねばならなかったのか。アーミディーは次のように言っています。

また我々は「実定法の根拠となる」と言ったが、これは種々のdalil がhujja たることに関する学を避けるため〔つまり指さないようにするため〕である。何故ならそのようなものは法ではないからである。とはいえ、学の対象は聖法的思弁的な判断なのだが。何故ならそれは実定法的でないからである。

وقولنا الفروعية إحتراز عن العلم بكون أنواع الأدلة حججاً فإنه ليس فقهاً في العرف الأصولي وإن كان المعلوم حكماً شرعياً نظرياً لكونه غير فروعي.

3つの下線部がここでよくわからない箇所です。文脈的に考えて、1つ目の「種々のdalil がhujja たることに関する学」とは恐らく法源学を指すはずです、わからないですが。次の「そのようなもの」もそれを受けて、同様に法源学を指すのではないかと思われます、確信はありませんが。それでは3つ目の「学の対象」とは何を指すのでしょうか。可能性としては、法源学の対象と法学(fiqh)の対象の2つが考えられるでしょうし、直前に置かれた「とはいえ(wa-in)」という表現も1つのヒントになりそうですが、やはりこれは結局「聖法的思弁的な判断(hukm shar'i nazari)」を対象とする学がいずれであるのか明らかにならない限り、決しえないでしょう。差し当たっては判断を留保して、先を読んでいくしかないと思います。

2. Weiss: p. 54, line 19 まで。前回までで神学的要請のうちの方法論的な部分に関する解説が終わったため、今回からは神学の実質的な内容に関する説明です。Weiss によると、アーミディーの神学思想を考える上で重要な手掛かりとなるのは次の2点。i) 神の啓示に関する議論が厳密な意味で神学に関わるような議論(神の存在や属性などに関する議論)より後ろに置かれているという点。ii) 厳密な意味での神学に関わる議論が「知の対象(ma'lum)」という表題の下に論じられているという点。i) からは、アーミディーが神の存在や属性などに関して啓示とは独立に(=自然神学的に)論ずることができると考えていた、ということがわかるそうです。つまり彼においては、厳密な意味での神学に関する議論が形而上学に、或いは神に関する探究が存在(ないし存在者)に関する探究に、根ざしているわけです。但しアーミディーを含むムスリムの思想家たちにおいては、形而上学はそれ自体で独立した学とはならず、あくまで神学というより大きな学の中に、さまざまな非形而上学的トピックとともに包含されていたのだそうで、換言するならば、ムスリムにとっては神学こそが第一の学だった、但しその神学自体の内部においては、形而上学こそが第一の関心事だったのだが、ということになるようです。次にii) に関してですが、たしかにアーミディーは存在必然者(=神)を「知の対象」に含めています。しかしこれはあらゆる人間が現実に神についての知を有しているという意味ではないのだそうです。神に関する知は、必然知でなく獲得知。但しそれが啓示に全く依拠せず、完全に推論的な思弁によって獲得される限りにおいては、神という概念は人間の思考中に潜在すると見なされているとも言えよう、とWeiss は論じています。このあいまいな物言いがWeiss によるものなのかアーミディー自身のものなのかはまだわかりませんが、「人間の思考中に潜在すると見なされている」というフレーズからは公理知とのつながりが連想されます(cf. アーミディー研3)。つまり神に関する知は獲得知でありながら、一種の公理知とも考えられるということなんでしょうか、よくわかりませんが。いずれにしてもアーミディーは3つの必然知のうちの経験知を出発点として、神に関する知の獲得へと向かうのだそう。その際、彼が依拠するのが先行するムスリムの思想家たちが好んで用いた「可能性からの証明(the argument from contingency)」です。この証明はあまりにも有名なのでここで詳しくは紹介しませんが、興味深かったのは彼が哲学者の因果論と神学者の原子論、いずれを採っても神の存在は証明される、という構成で議論を展開しているらしい点。このあたりは、Davidson (1987) などを見てからでないと何とも言えませんが、何となくアーミディーの思想史的な位置付けを象徴しているようにも見えます。以上は神の存在に関する議論ですが、これに引き続いて今度は神の属性に関する議論が解説されていきます。Weiss も言っているように、神学者たちは神の存在に関しては基本的に合意していますが、こと神の属性に議論がおよぶと見解の相違が顕著になってきます。今回も一応はこの点に立ち入りはしたものの、私の予習が甘かったせいで、あまりよくわからずじまいでした。次回は属性論のあたまから改めて読み直していこうと思います。

Donnerstag, 18. August 2011

アーミディー研4

第4回アーミディー研を行いました。

1. Ihkam: p. 20, line 13まで。今回議論になったのは、法と知の関係。アーミディーは「法(fiqh)」とは「実定法の根拠となるような聖法の諸規定全体から思弁と推論を通じて獲得される知(al-'ilm al-hasil bi-jumla min al-ahkam al-shar'iya al-furu'iya bi-al-nazar wa-al-istidlal)」の意だと論じています(p. 20, lines 4-5)。ここから彼はこの定義を単語レベルで区切り、その一々を説明するという作業に向かいます。彼がまず取り上げるのは、「知('ilm)」という単語。何故「法」の定義中に「知」という語が挿入されねばならないのか。それは仮に「知」と明言しなかった場合、法が知ではなく臆見でもありえるということになってしまうが、聖法の諸規定に関する臆見(al-zann bi-al-ahkam al-shar'iya)は(俗人の慣習によれば比喩的に法とも言いうるが)言語学者や法源学者の慣習によれば法とは呼びえないからである。これがアーミディーの議論の主旨ですが、これにはしかしながら次の2つの点から疑義をはさむことができます。(i)「法は臆見でない」から「法は知である」を結論するなら理解できるが、彼は実際には「臆見は法でない」から「法は知である」を結論している。これは推論として妥当なのか。(ii)そもそもWeiss によると(後述)、神学者が知のみを探究する傾向があるのに対し、法学者は知が到達不能である場合、臆見の獲得に努める傾向にあったようである。これは「法源学者の慣習によれば、臆見は法とは呼びえない」というここでのアーミディーの発言と矛盾していないか。

2. Weiss: p. 55, line 5まで。前回は必然知についての解説までで終わったため、今回は獲得知、或いは思弁知についての解説から。思弁知とは文字通り、思弁を通じて獲得される知のことです。それでは思弁とは何でしょうか。アーミディーによれば、思弁とは探究の対象になっている或る任意の事柄と何らかの関係を有する、以前から知られているか、もしくは臆見によって受け入れられている様々な事柄を知性によって秩序付けること(Weiss, p. 41)。ここで重要なのは、思弁は臆見獲得を目的とすることもあるという点です。イスラムの法源学においては、知は常に獲得できるようなものではないため、それが獲得できない場合には、臆見の獲得が望まれるわけです。何故なら、それは臆見が無知や疑念よりもはるかに優れた選択肢だから。
  思弁には、dalil と定義という2つの道具が必要とされます。このうち特に重要なのが、前者。dalil は理性的dalil(al-dalil al-'aqli)と伝承的dalil(al-dalil al-naqli)とに二分され、前者は三段論法を、後者は或るテクスト(matn)中で言及されている根拠、もしくは実際に言及されてはいないが、そこから導出することができるような根拠のことをそれぞれ指します。伝承的dalil などというものが立てられている時点で、理性的dalil からだけでは獲得されえない、テクストレベルで補完される必要のある知ないし臆見の存在が受け入れられているわけですが、その一方で伝承的dalil もまた理性的な根拠によって支えられなければdalil たりえないとされています。恐らく2つのdalil 間には相補的な関係があるのでしょう。
  但し(アーミディー自身はIhkam でもAbkar でも明言していないものの)こうした思弁は当時の環境では、必ず論争(munazara)のさなかで行われていました。論争術が「探究の作法(adab al-bahth)」として高度に発展するのは、アーミディーの直後、サマルカンディー(Shams al-Din al-Samarqandi, 1276年頃活躍)のal-Risala al-samarqandiya fi adab al-bahth 以降のことですが、既にムスリムの学者たちは弁証術ないし論争術を真理に到達するための唯一の方法としており、アーミディーにおいても、当時の弁証術的・論争術的背景は如実に見てとれます。例えば彼の論述は先達の論争を記録したようなかたちで進められているし、またそのスタイルも以下のような定式化された手順を踏んだものとなっています。

手順1
1) 考察対象とする問題の提示
2) 当該の問題をめぐってそれまでとられてきたさまざまな立場に関する言及
3) 正しい立場ないしは望ましい立場(=アーミディー自身の立場)についての言及
4) 正しい立場ないしは望ましい立場の擁護を目しつつも、実際のところ妥当ではないような、そういった議論(妥当でない思弁[nazar])への言及
5) そのような議論に対してなされるだろう妥当な反論
6) 正しい立場ないしは望ましい立場を擁護するための妥当な議論
7) そのような議論に対してなされてきたさまざまな反論
8) それまで提起されてきた〔6と〕対立する議論
9) 反論に対する反駁〔7への反駁〕
10) 対立する議論への反駁〔8への反駁〕

手順2
1) 考察対象とする問題の提示
2) 当該の問題をめぐってそれまでとられてきたさまざまな立場に関する言及
3) そうしたさまざまな立場を擁護するために提出されてきたさまざまな議論への言及
4) それらと対立するさまざまな議論への言及

前者はアーミディー自身の与する立場があるときに踏まれる手順、後者はそうした立場がなく、判断を留保するときに踏まれる手順です。ちなみに余談ですが、以前拾い読みしたZiai, Knowledge and Illumination (1990) に確か哲学史も後期になると、アリストテレス的定義論からプラトン的定義論への移行が見られるといったようなことが書かれていたと記憶していますが、これと論争術の発展との間に何らかの関係性があるのかもなどという妄想談義もありつつ、今回は時間切れ。次回は法源学の神学的要請のうちの後半部、実質神学的要請(=神の存在や属性など)に関する議論からです。

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[後日付記]
上で「法は臆見でない」から「法は知である」を結論するなら理解できるが、「臆見は法でない」から「法は知である」を結論するアーミディーの議論は、推論として妥当なのかなどと言っていますが、もしかすると「臆見は法でない」は「法は知である」の対偶ということなのかもしれません。わかりませんが。

Donnerstag, 4. August 2011

アーミディー研3

第3回アーミディー研を行いました。

1. Ihkam: p. 19, line 3まで。議論になった(或いは気になった)のは主に次の2点。(i)第1原則(al-qa'ida al-ula)の表題「fi tahqiq mafhum usul al-fiqh wa-ta'rif mawdu'i-hi wa-ghayati-hi wa-ma fi-hi min al-bahth 'an-hu min masa'ili-hi wa-ma min-hu istimdadu-hu wa-taswir mabadi-hi wa-ma la budd min sabq ma'rifati-hi qabl al-khawd fi-hi」(p. 19, lines 1-4)における下線部の理解。ここは恐らく「法源学において探究される同学の諸問題」という意味になるはずだが、そう訳すためには、ma fi-hi min al-bahthのminが削除されなければならないのではないか。例えば直後の本文中(p. 19, lines 8-9)にも同内容と思われる表現が現れるが、そこではma 'an-hu al-bahth fi-hi min al-ahwal allati hiya masa'ilu-hu(法源学において探究される諸様態、即ち同学の諸問題)という言い回しになっており、ma節内にminは1度しか現れない。この点は他の版を参照した上で、次週以降再び議論することにした。(ii)usul al-fiqhはusulというmudafとfiqhというmudaf ilay-hi、2つの語から構成されるが、mudaf ilay-hiについて知られる前にmudafが知られることなどありえない。つまり法源学(usul al-fiqh)という学知について知るためには、まずfiqh(法、或いは実定法規)について知り、その後usul(源)について知る必要がある。この点はWeissのIntroductionで言われていた法源学の原理(mabadi')の1つにal-mabadi' al-fiqhiyaが含まれるのと軌を一にしている。ただ、このmudafよりも先にmudaf ilay-hiが知られるべきという主張は、もともと文法学か何かにおいて論じられていた問題なのか。この点については、余裕があれば、次回以降調査することにした。

2. Weiss: p. 42, line 1まで。今回読んだ箇所の内容は、簡潔にまとめると以下の通り。法源学は次の3つの原理(mabadi')を要請する。(i)神学的原理(al-mabadi' al-kalamiya)、(ii) 実定法的原理(al-mabadi' al-fiqhiya)、(iii)言語学的原理(al-mabadi' al-lughawiya)。ここではまず(i)の神学的原理から解説がなされる。神学的原理とは、具体的には次の2つからなるようなものである。(i-a)神学で用いられる様々な術語(dalil, nazar, 'ilm, zann; これらは皆、神学における認識論・方法論と関わる術語)、(i-b)実質的に「神学」に関わる議論(神の存在や諸属性などの問題)。神の定めた法規範(ahkam)について知るためには、そもそもその前提として神の存在や諸属性について知らなければならない。そのため、神学に対して法源学への論理的先行性を付与するのは、この(i-b)実質的に「神学」に関わる議論である。だが、そうした議論について探究するためには、そもそも探究のプロセスそのもの、即ち知の獲得のプロセスについて知られている必要がある。こうしてWeissはまず神学における認識論・方法論の問題にとりかかる。アーミディーによれば、知('ilm)とは「それを有するものの心がそれによって複数の普遍概念の実相(haqa'iq al-ma'ani al-kulliya)を、矛盾可能性を許容せずに互いに区別することができるようになるような、そういった属性」と定義する。これには2つの区分がある。(a)必然知(al-'ilm al-daruri)と(b)獲得知 / 思弁知(al-'ilm al-muktasab [or al-kasbi] / al-'ilm al-nazari)。前者は人間の心に対して否応なく生じる、推論や論証を通じて獲得できないような知、後者は推論や論証を通じてでないと獲得できないような知を指す。前者はさらに次の3つに区分される。(a-1)感覚知、(a-2)帰納知、(a-3)公理知。感覚知は「空がこの時点で澄んでいる」のような、1回限りの感覚的経験によって認識される知。帰納知は「火は乾燥した木を燃やす」のような、同様の感覚的経験を何度も重ねた上で認識されるような知。公理知は「全体は部分よりも大きい」や排中律、矛盾律のような、人間の心の内に生得的かつ潜在的に備わっているような知。但しこれらの区分は、全能なる神の意志によっては、覆されることもありえる。また(a-2)の帰納知は、反復される感覚的経験から或る種の法則性を見出すことによって到達される知であるが、この法則性もあくまで神の絶えざる創造行為の法則性であって、決して自然法則のようなものではない。

こうしてアーミディーは神の全能性を根拠に、人間知性の自律性に対して歯止めをかけるわけですが、そもそもそうした全能性の問題は(i-b)実質的に「神学」に関わるような議論に含まれるため、その認識論的方法論的前提として論じられていたはずの'ilm論が逆にその後に続くべき実質神学的議論に依存していることとなり、これは即ち循環であるように少なくとも我々には見えます(Weissもそう指摘しています)。アーミディーは認識論・方法論に関わる議論はそうした神学的前提を捨象した上でも整合的に説明できるため、これは循環ではないと言うようですが、やはりこのあたりにこそアーミディー神学(ひいてはアシュアリー学派神学全体?)が抱える緊張感みたいなものを見て取ることができるのかもしれません、わかりませんが。また上で示したアーミディーによる「知」の定義についても、Weissはアーミディーが哲学説との或る種の折衷(?)を行ったのではというような指摘を行っていますが、この辺は恐らく『指示と勧告の書注釈Sharh al-Isharat』などから彼の知性認識論を分析した上でないと、確かなことは言えないはずなので、説得力に欠ける説という印象を受けました。いずれにせよ、次週は必然知の第2の区分、獲得知 / 思弁知についての解説です。

Samstag, 30. Juli 2011

アーミディー研2

一昨日、第2回アーミディー研を行いました。

1. Ihkam: p. 16まで。主に議論となったのは、次の2点:i) p. 16, penult: "wa-al-manaqib allati yaqifu duna ihsa'i-ha 'add al-hasirin"の解釈。waqafaにはdunaと結び、"waqafa A duna B"で「AがBを妨げる」という用法があり、ここでもはじめはその用法であると考えたが、やはりそれでは意味が通らないため、仮案として「それらを数え切ることなく、敵(hasirin)の数を数え上げる作業が終了してしまうような〔つまり敵の数よりもさらに多くの〕美徳」という意味であるとすることになった;ii) p. 17, lines 1-2: "wa-in kuntu fi darb al-mithal ka-hamil tamr ila hajr aw tall ila matar"の解釈。恐らくここは著者アーミディーが自分自身を卑下するような一節だと考えられるが、後半部"ka-hamil..."が意味不明。シャクルの振り方もこれとは異なる案がいくつか出され、紛糾してきたため、次回に持ち越し。

2. Weiss: Introduction読了。興味深かったのは、次の2点:i) IhkamはFakhr al-Din al-Razi, Kitab al-Mahsulと並び、Baydawi, Minhaj al-wusulとIbn Hajib, Mukhtasar al-Muntaha al-usuliの典拠になっている;ii) アーミディーの定義によると、法源学において主題(mawdu')は法規のadillaであり、目標(ghaya)ないし論点(masa'il)はこのadillaが有する付帯的特性であり、また公理(mabādi')は実践法学(fiqh)、思弁神学(kalam)、アラビア語学(lugha)である、とされる。

なお、1は神とパトロンに対する讃辞がそろそろ終わるので、次回からようやく本論に入れそうです。2も次回からは本論ということで、法源学におけるpostulatesについて論じられた第1部の第1章(The Theological Postulates)を読んでいきます。

Donnerstag, 21. Juli 2011

アーミディー研1

今日はオンライン・アーミディー研の初回でした。アーミディー(Sayf al-Din al-Amidi, 1233年没)はシャーフィイー派法学者・アシュアリー派神学者として有名な東アナトリア出身の学者。神学書『思考の新機軸Abkar al-afkar』はイージー('Adud al-Din al-Iji, 1356年没)の『神学教程al-Mawaqif』のソースの1つともなっており、後の神学の展開にも重要な影響を与えたようです。また彼は哲学についても積極的に学んだようで(但し批判もしている)、イブン=スィーナーの『指示と勧告の書al-Isharat wa-al-tanbihat』に対する注釈も残しています。今回研究会で取り上げるテクストは、そんな彼の主著の1つ『法源学大成al-Ihkam fi usul al-ahkam』と呼ばれる著作ですそれまで法源学では様々な問題が論じられてきたわけですが、同書はそうした諸論点を包括的に取り上げて、学説間の比較検討を行ったもの。ファナーリーも法源学書の中で、アーミディー(の恐らくこの著作)に対して言及しています。

ちなみにテクストとしては以下の2つを並行して読んでいくことになりました。

1) Amidi, Sayf al-Din al-, Ihkam fi usul al-ahkam, ed. 'A. 'Afīfī, 4vols. (al-Riyad : Dar al-Sumay'i, 2003).
2) Weiss, B. G., The Search for God's Law: Islamic Jurisprudence in the Writings of Sayf al-Din al-Amidi (Salt Lake City: Univ. of Utah Press, 1992).

今回は参加者がほぼ予習皆無の状態だったため、実際にはあまり進みませんでしたが、次回以降はもう少し時間もかけて、ハードコア路線でやっていけたらと思います。