1. Ihkam: p. 19, line 3まで。議論になった(或いは気になった)のは主に次の2点。(i)第1原則(al-qa'ida al-ula)の表題「fi tahqiq mafhum usul al-fiqh wa-ta'rif mawdu'i-hi wa-ghayati-hi wa-ma fi-hi min al-bahth 'an-hu min masa'ili-hi wa-ma min-hu istimdadu-hu wa-taswir mabadi-hi wa-ma la budd min sabq ma'rifati-hi qabl al-khawd fi-hi」(p. 19, lines 1-4)における下線部の理解。ここは恐らく「法源学において探究される同学の諸問題」という意味になるはずだが、そう訳すためには、ma fi-hi min al-bahthのminが削除されなければならないのではないか。例えば直後の本文中(p. 19, lines 8-9)にも同内容と思われる表現が現れるが、そこではma 'an-hu al-bahth fi-hi min al-ahwal allati hiya masa'ilu-hu(法源学において探究される諸様態、即ち同学の諸問題)という言い回しになっており、ma節内にminは1度しか現れない。この点は他の版を参照した上で、次週以降再び議論することにした。(ii)usul al-fiqhはusulというmudafとfiqhというmudaf ilay-hi、2つの語から構成されるが、mudaf ilay-hiについて知られる前にmudafが知られることなどありえない。つまり法源学(usul al-fiqh)という学知について知るためには、まずfiqh(法、或いは実定法規)について知り、その後usul(源)について知る必要がある。この点はWeissのIntroductionで言われていた法源学の原理(mabadi')の1つにal-mabadi' al-fiqhiyaが含まれるのと軌を一にしている。ただ、このmudafよりも先にmudaf ilay-hiが知られるべきという主張は、もともと文法学か何かにおいて論じられていた問題なのか。この点については、余裕があれば、次回以降調査することにした。
2. Weiss: p. 42, line 1まで。今回読んだ箇所の内容は、簡潔にまとめると以下の通り。法源学は次の3つの原理(mabadi')を要請する。(i)神学的原理(al-mabadi' al-kalamiya)、(ii) 実定法的原理(al-mabadi' al-fiqhiya)、(iii)言語学的原理(al-mabadi' al-lughawiya)。ここではまず(i)の神学的原理から解説がなされる。神学的原理とは、具体的には次の2つからなるようなものである。(i-a)神学で用いられる様々な術語(dalil, nazar, 'ilm, zann; これらは皆、神学における認識論・方法論と関わる術語)、(i-b)実質的に「神学」に関わる議論(神の存在や諸属性などの問題)。神の定めた法規範(ahkam)について知るためには、そもそもその前提として神の存在や諸属性について知らなければならない。そのため、神学に対して法源学への論理的先行性を付与するのは、この(i-b)実質的に「神学」に関わる議論である。だが、そうした議論について探究するためには、そもそも探究のプロセスそのもの、即ち知の獲得のプロセスについて知られている必要がある。こうしてWeissはまず神学における認識論・方法論の問題にとりかかる。アーミディーによれば、知('ilm)とは「それを有するものの心がそれによって複数の普遍概念の実相(haqa'iq al-ma'ani al-kulliya)を、矛盾可能性を許容せずに互いに区別することができるようになるような、そういった属性」と定義する。これには2つの区分がある。(a)必然知(al-'ilm al-daruri)と(b)獲得知 / 思弁知(al-'ilm al-muktasab [or al-kasbi] / al-'ilm al-nazari)。前者は人間の心に対して否応なく生じる、推論や論証を通じて獲得できないような知、後者は推論や論証を通じてでないと獲得できないような知を指す。前者はさらに次の3つに区分される。(a-1)感覚知、(a-2)帰納知、(a-3)公理知。感覚知は「空がこの時点で澄んでいる」のような、1回限りの感覚的経験によって認識される知。帰納知は「火は乾燥した木を燃やす」のような、同様の感覚的経験を何度も重ねた上で認識されるような知。公理知は「全体は部分よりも大きい」や排中律、矛盾律のような、人間の心の内に生得的かつ潜在的に備わっているような知。但しこれらの区分は、全能なる神の意志によっては、覆されることもありえる。また(a-2)の帰納知は、反復される感覚的経験から或る種の法則性を見出すことによって到達される知であるが、この法則性もあくまで神の絶えざる創造行為の法則性であって、決して自然法則のようなものではない。
こうしてアーミディーは神の全能性を根拠に、人間知性の自律性に対して歯止めをかけるわけですが、そもそもそうした全能性の問題は(i-b)実質的に「神学」に関わるような議論に含まれるため、その認識論的方法論的前提として論じられていたはずの'ilm論が逆にその後に続くべき実質神学的議論に依存していることとなり、これは即ち循環であるように少なくとも我々には見えます(Weissもそう指摘しています)。アーミディーは認識論・方法論に関わる議論はそうした神学的前提を捨象した上でも整合的に説明できるため、これは循環ではないと言うようですが、やはりこのあたりにこそアーミディー神学(ひいてはアシュアリー学派神学全体?)が抱える緊張感みたいなものを見て取ることができるのかもしれません、わかりませんが。また上で示したアーミディーによる「知」の定義についても、Weissはアーミディーが哲学説との或る種の折衷(?)を行ったのではというような指摘を行っていますが、この辺は恐らく『指示と勧告の書注釈Sharh al-Isharat』などから彼の知性認識論を分析した上でないと、確かなことは言えないはずなので、説得力に欠ける説という印象を受けました。いずれにせよ、次週は必然知の第2の区分、獲得知 / 思弁知についての解説です。
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