Mittwoch, 6. Oktober 2010

照明哲学における定義論:ズィヤーイー『知と照明』拾い読み

Ziai, H., Knowledge and Illumination: A Study of Suhrawardi's Hikmat al-ishraq (Atlanta: Scholars Press, [1990]), pp. 114-27[照明哲学における定義論].

スフラワルディーは『照明哲学』の第1部第3章(ed. Ziai, pp. 31-75)で逍遥学派哲学への批判を展開しているのですが、その中には逍遥学派における定義論批判が含まれています。これが懸案の『プラトン的知性的諸形象』での議論の理解に直接つながってくれるかはわかりませんが、とにかく一つ一つやっていこうということで、完全なる広い読みですが、読んでみました。

ここでことさら言うことでもないですが、逍遥学派哲学において「定義」(hadd)というのは、定義の対象となる種(naw')の類(jins)と種差 (fasl)とから構成されます。「人間」(insan; 種)で言えば、「理性的な(natiq; 種差)動物(hayawan; 類)」のように。しかしスフラワルディーはこのような定義の有効性を認めません。彼によれば、これでは種に関する真の知には至れない。種に関する真の知は、類と種差だけにとどまらず、それに付随する付帯性(Ziaiの書き方だと、ここに人間で言えば「笑う」とか「文法を学びうる」だけでなく、「白い」と か「黒い」なども含まれるように見えますが、明示的に述べられていないため、わかりません)。ところがスフラワルディーは、このように全ての付帯性を列挙することなど不可能だとも言っているとのこと。それでは我々は対象についての真の知には至れないということなのでしょうか。

Ziai曰く、スフラワルディーの逍遥学派哲学批判はわかりやすいものでもシンプルなものでもない(neither straightforward nor simple; p. 118)そうで、いまひとつ彼の議論自体も理解できないところがあるのですが、差し当たってはZiaiの説明の中でスフラワルディーの定義論について大まかな見取り図を与えてくれるように思う説明を2箇所引用しておきます。

[或る定義が有意味的となるためには、次の2つの条件が満たされなければならない。](1)或るものがそれを通じて定義されるところのものは、その定義されるものよりも明らか(azhar)でなければならない。そして(2)それ〔或るものがそれを通じて定義されるところのもの〕は定義されるものよりも先でなければならない。これら2つの条件が示唆するところは、明らかである。即ち或るものが知られる(そのものについての定義を通じてであれ、或いはまたそれとは別の仕方でであれ)ためには、何か別のものがそれに先んじて知られていなければならない、ということである。これはつまり究極的には、それとの関係において他のあらゆるものが知られることになるところの、知において最も明らかで最も先んじた何かがなければならないということを意味する。最も先に知られるもの(これは必然的に最も明らかでもある)とは、スフラワルディーによれば、生得的な知(innate knowledge)である(以下で見るように、生得的な知は人間の自覚の「部分」と言われる)。[他方で?]実在において最も明らかなものは、スフラワルディーによれば、光(nur)である。これは無媒介的に知られ、定義の必要もない。Ziai, Knowldge and Illumination, pp. 116-7.

スフラワルディーの提案する定義論は、「Xとは何か?」という問いに対する回答を2つの相補的なアプローチによって探究する。まず(1)Xの本質的要素 〔類と種差〕によってなされるXに関する部分的な定義のセットを通じて、形式的な定義が構成される。このような形式的定義をd1としよう。これは、しかしながら、部分的な定義でしかない。次に(2)主体は心理学的な方法によって、そしてd1(これはその主体によって既に獲得されてはいるものの、十全には明らかとなっていない)に基づきつつ、Xの理解へと導かれる。Xに関するこうしたより高次な知というのは、Xについての新たな定義に他ならない。新たな形式的定義d2が構成されていくこうしたプロセスは、Xとは何かという直観としての体験によって補佐されているのである。こうして「d1定義」どもが次々と獲得されていくのだが、それに基づいてXについての有効な定義D(これは全てのd1定義どもを含む)は獲得されるのかもしれない(may be obtained)。Ibid., p. 125.

Ziaiによれば、スフラワルディーのこうした定義論はプラトンの定義論とアリストテレスの定義論とを組み合わせたようなものになっているとのこと。確かにこのような考え方はプラトンの想起説なんかと通じるところがありそうです、よく知りませんが。もちろん
直接の影響関係を云々することはできないのでしょうが、Ziai自身もスフラワルディーにおいて定義論は自覚論と関わってくる問題だと言っています。『プラトン的知性的諸形象』中での照明哲学における形象論批判(?)の中でも、認識対象と認識主体(=魂)との関係をテーマに、相当の紙幅を割いて議論が展開されているようなので(これがさっぱりわからないのですが)、やはりスフラワルディーの知識論とか自覚論についても、本腰を入れて調べなければならないようです。ということで、追加で以下の2点も引っ張り出してきました。

1. Marcotte, R. D., ''Suhrawardi (d. 1191) and His Interpretation of Avicenna's (d. 1037) Philosophical Anthropology'' (PhD diss., McGill Univ., 2000).
2. Spruit, L., Species intelligibilis: From Perception to Knowledge, vol. 1: Classical Roots and Medieval Discussions (Leiden: Brill, 1994).

時間的に学会発表でスフラワルディーを取り上げることはできなさそうですが、必要なものは必要ということで、これらも読みます。

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