1. Ihkam: p. 20, line 13まで。今回議論になったのは、法と知の関係。アーミディーは「法(fiqh)」とは「実定法の根拠となるような聖法の諸規定全体から思弁と推論を通じて獲得される知(al-'ilm al-hasil bi-jumla min al-ahkam al-shar'iya al-furu'iya bi-al-nazar wa-al-istidlal)」の意だと論じています(p. 20, lines 4-5)。ここから彼はこの定義を単語レベルで区切り、その一々を説明するという作業に向かいます。彼がまず取り上げるのは、「知('ilm)」という単語。何故「法」の定義中に「知」という語が挿入されねばならないのか。それは仮に「知」と明言しなかった場合、法が知ではなく臆見でもありえるということになってしまうが、聖法の諸規定に関する臆見(al-zann bi-al-ahkam al-shar'iya)は(俗人の慣習によれば比喩的に法とも言いうるが)言語学者や法源学者の慣習によれば法とは呼びえないからである。これがアーミディーの議論の主旨ですが、これにはしかしながら次の2つの点から疑義をはさむことができます。(i)「法は臆見でない」から「法は知である」を結論するなら理解できるが、彼は実際には「臆見は法でない」から「法は知である」を結論している。これは推論として妥当なのか。(ii)そもそもWeiss によると(後述)、神学者が知のみを探究する傾向があるのに対し、法学者は知が到達不能である場合、臆見の獲得に努める傾向にあったようである。これは「法源学者の慣習によれば、臆見は法とは呼びえない」というここでのアーミディーの発言と矛盾していないか。
2. Weiss: p. 55, line 5まで。前回は必然知についての解説までで終わったため、今回は獲得知、或いは思弁知についての解説から。思弁知とは文字通り、思弁を通じて獲得される知のことです。それでは思弁とは何でしょうか。アーミディーによれば、思弁とは探究の対象になっている或る任意の事柄と何らかの関係を有する、以前から知られているか、もしくは臆見によって受け入れられている様々な事柄を知性によって秩序付けること(Weiss, p. 41)。ここで重要なのは、思弁は臆見獲得を目的とすることもあるという点です。イスラムの法源学においては、知は常に獲得できるようなものではないため、それが獲得できない場合には、臆見の獲得が望まれるわけです。何故なら、それは臆見が無知や疑念よりもはるかに優れた選択肢だから。
思弁には、dalil と定義という2つの道具が必要とされます。このうち特に重要なのが、前者。dalil は理性的dalil(al-dalil al-'aqli)と伝承的dalil(al-dalil al-naqli)とに二分され、前者は三段論法を、後者は或るテクスト(matn)中で言及されている根拠、もしくは実際に言及されてはいないが、そこから導出することができるような根拠のことをそれぞれ指します。伝承的dalil などというものが立てられている時点で、理性的dalil からだけでは獲得されえない、テクストレベルで補完される必要のある知ないし臆見の存在が受け入れられているわけですが、その一方で伝承的dalil もまた理性的な根拠によって支えられなければdalil たりえないとされています。恐らく2つのdalil 間には相補的な関係があるのでしょう。
但し(アーミディー自身はIhkam でもAbkar でも明言していないものの)こうした思弁は当時の環境では、必ず論争(munazara)のさなかで行われていました。論争術が「探究の作法(adab al-bahth)」として高度に発展するのは、アーミディーの直後、サマルカンディー(Shams al-Din al-Samarqandi, 1276年頃活躍)のal-Risala al-samarqandiya fi adab al-bahth 以降のことですが、既にムスリムの学者たちは弁証術ないし論争術を真理に到達するための唯一の方法としており、アーミディーにおいても、当時の弁証術的・論争術的背景は如実に見てとれます。例えば彼の論述は先達の論争を記録したようなかたちで進められているし、またそのスタイルも以下のような定式化された手順を踏んだものとなっています。
手順1
1) 考察対象とする問題の提示
2) 当該の問題をめぐってそれまでとられてきたさまざまな立場に関する言及
3) 正しい立場ないしは望ましい立場(=アーミディー自身の立場)についての言及
4) 正しい立場ないしは望ましい立場の擁護を目しつつも、実際のところ妥当ではないような、そういった議論(妥当でない思弁[nazar])への言及
5) そのような議論に対してなされるだろう妥当な反論
6) 正しい立場ないしは望ましい立場を擁護するための妥当な議論
7) そのような議論に対してなされてきたさまざまな反論
8) それまで提起されてきた〔6と〕対立する議論
9) 反論に対する反駁〔7への反駁〕
10) 対立する議論への反駁〔8への反駁〕
手順2
1) 考察対象とする問題の提示
2) 当該の問題をめぐってそれまでとられてきたさまざまな立場に関する言及
3) そうしたさまざまな立場を擁護するために提出されてきたさまざまな議論への言及
4) それらと対立するさまざまな議論への言及
前者はアーミディー自身の与する立場があるときに踏まれる手順、後者はそうした立場がなく、判断を留保するときに踏まれる手順です。ちなみに余談ですが、以前拾い読みしたZiai, Knowledge and Illumination (1990) に確か哲学史も後期になると、アリストテレス的定義論からプラトン的定義論への移行が見られるといったようなことが書かれていたと記憶していますが、これと論争術の発展との間に何らかの関係性があるのかもなどという妄想談義もありつつ、今回は時間切れ。次回は法源学の神学的要請のうちの後半部、実質神学的要請(=神の存在や属性など)に関する議論からです。
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[後日付記]
上で「法は臆見でない」から「法は知である」を結論するなら理解できるが、「臆見は法でない」から「法は知である」を結論するアーミディーの議論は、推論として妥当なのかなどと言っていますが、もしかすると「臆見は法でない」は「法は知である」の対偶ということなのかもしれません。わかりませんが。
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