Wisnovsky, R.: “One Aspect of the Akbarian Turn in Shīʿī Theology”, in: A. Shihadeh (ed.): Sufism and Theology, Edinburgh: Edinburgh UP, 2007, 49-61.
アヴィセンナの存在論研究で偉大な業績を残しつづけているMcGill のWisnovsky が、じつはこんな論文も書いていました。タイトル的にはCorbin-Nasr 全盛の古いイスラム学(「シーア派的=イラン的」な神秘主義的要素を過度に強調する)をほうふつとさせますが、実際にはスンナ派・シーア派を問わず、スーフィーたちがしばしば論じていた「荘厳な神名(al-asmāʾ al-ğalāliyya)」/「美麗な神名(al-asmāʾ al-ğamāliyya)」という神名論上の分類を主題として取りあげ、この分類が担う意味内容ないし役割の変遷をイブン=アラビー(1240年没)以前、イブン=アラビー、そしてシーア派存在一性論者として有名なハイダル・アームリー(1385年以降没)の議論を軸に分析していくというもの。正直に言うと、部分的には蒙を啓いてくれるような記述もあるのですが、多くの議論は「そんなこと、もうわかってるだろう」とでも言いたくなるようなトリヴィアルな、しかも本論自体にとってもあまり本筋とは関係ないように思われる論点の詳述に終始していて、どうも本当に論じるべき点がなおざりになっているような、そんな印象を受ける論文でした。以下では枝葉末節は無視し、私が議論の本筋と理解した内容のみをできるだけわかりやすく再構成してまとめておきます。
著者によると、アシュアリー派神学者とアヴィセンナはある重要な点において共通の問題意識を共有していました。すなわち(著者自身はこういう言い方をしていなかったと思いますが)、永遠と偶発の緩衝領域の設定です。このような領域を確保するために、アシュアリー派神学者たちは永遠ではあるがuncaused でない(=他に原因をもつ)存在者として神の属性を、アヴィセンナは同様の存在者として天球・天球の魂(→ 天球を動かす)・天球の知性(→ 天球の魂をmotivate する)を措定することになります。こうした結論を導きだすべく、アヴィセンナは「それ自体においては存在可能的であるが、他者、つまり自らの原因を通じてであれば存在必然的である」という存在者カテゴリーを導入します。そしておそらくもともとの問題意識が共通だったこともあり、アヴィセンナ以後のアシュアリー派神学者たちはこのような彼の議論を継承し、徐々に「存在必然 / 存在可能」といったアヴィセンナ・タームを用いながら、神の属性について論じるようになっていきます(cf. id.: “One Aspect of the Avicennian Turn in Sunnī Theology”, ASPh 14 [2004], 65-100)。
それではシーア派の神学者たちはこうしたアヴィセンナの議論に対してどのように反応したのでしょうか。著者によると、アヴィセンナ以後の代表的なシーア派神学者であるトゥースィー(1274年没)とヒッリー(1325年没)は、アシュアリー派神学者とは異なり、神の存在必然化性(īğāb)に疑義をはさむのだそうです。もちろん彼らもアシュアリー派神学者同様、アヴィセンナの議論を継承し、神を存在必然者(wāğib)だと考えてはいました。ところが、だからといって、神が他の存在者の存在を必然化する(mūğib)とまでは言えない、と彼らは考えます。何故ならもし神が他の存在者の存在を必然化するとしたら、彼には他の存在者の存在を必然化しない自由がないということになり、ひいては神から意志という属性が奪われることになるからです。こうしてトゥースィーとヒッリーは当時のアシュアリー派神学者とは異なり、神と他の存在者どもとのあいだに必然的な因果関係を想定することを拒絶したのだそうです。「とはいえ」とここで著者は問い立てをします(59, 36-37)。「それでは存在必然者である神は世界に対して、どのようにcausally responsible たりうるのだろうか」。これは正直、舌足らずでいまいち意味がわからないのですが、たぶん因果律と人間の責任の問題(→ こちらを参照)が争点になっているのだろうと思います。つまり必然者に存在必然化しない自由などというものを認めてしまったら、我々が善い行いをしようとしてもその善い行いが現実の行為として結果しなくなる。そんな状況でどうして我々は最後の審判において自らの行為の責任をとらなければならないのか、と。
このような観点から先達であるトゥースィーとヒッリーの議論を斥けたのが、アームリーだと著者は言います。アームリーが依拠するのは、初期のスーフィーによってもすでに論じられていた神名論における「荘厳 / 美麗」という区分です。この区分は当初は人間の側が神に対して抱く感情を分類するための区分として用いられていました。具体的には、人間に対して畏怖の念を抱かせるような神名(「復讐する者」など)が前者のカテゴリーを、親愛の念を抱かせるような神名(「惜しみなく与える者」など)が後者のカテゴリーを構成してしました。ところがこうした考えかたは、イブン=アラビーによって改変を施されます。彼はこの区分に宇宙論的な役割を担わせます。具体的に言えば、彼は神のもつ超越的な側面を強調するために、まず神のもつ諸側面のうちで世界の経綸には一切たずさわらない、世界を超絶した側面を全て荘厳の神名として確保し、それ以外の世界の経綸にたずさわる側面は全て美麗の神名に帰しました。このようなイブン=アラビーの議論の根底には、神の絶対超越的な領域を確保することで、自らの存在一性論がはらむ内在論的(あるいは汎神論的)傾向に対する神学者側からの批判を牽制しようという動機があったのだそうですが、いずれにしても「荘厳 / 美麗」の区分はこうしてイブン=アラビーによって宇宙論的な役割を担うことになり、これを援用してアームリーは上記のトゥースィー=ヒッリー的必然者観(すなわち非mūğib 説)とは対立する見解を提示していくことになります。
著者によれば、アームリーは「荘厳 / 美麗」の区分を、一者からの流出と一者への還帰という新プラトン主義的なモチーフと直接的に結びつけています(なお「荘厳 / 美麗」との関係は不明ですが、こうした円環構造論自体はすでにクーナウィー[1274年没]が論じていますし、おそらくイブン=アラビー自身も論じているはず)。彼は荘厳の神名を一者からの流出と対応させ、逆に美麗の神名を一者への還帰と対応させているのだそうです。このあたりは引用テクストが難解なのに、大した解説もなされないため、正直言って著者の思考に全くついていけていないのですが、おそらく結論としては、こうした流出から還帰へとつづく新プラトン主義的な円環構造が宇宙論に導入されることによって、シーア派神学でも、それまで否定されていた必然者と世界とのあいだの因果的連続性が再生したというもの。つまりアームリーの新プラトン主義宇宙論的な「荘厳 / 美麗」論によって、シーア派神学における必然者観はトゥースィー=ヒッリー的な非mūğib 説からイブン=アラビー的なmūğib 説へと展開したのだ。これがおそらく本論文での著者の結論です(ちなみにmūğib 説自体は上述のとおり、アヴィセンナやアシュアリー派神学者たちもとってはいますが、ここでの展開はあくまで「荘厳 / 美麗」の円環宇宙論にのっとったものであるという点で、著者はこのmūğib 説を「イブン=アラビー的」と認識しているのでしょう)。
ただしトゥースィーとヒッリーがとる非mūğib 説が当時のシーア派内で支配的な学説だったかどうかに関しては著者自身全く触れていませんし、そもそもアームリーの提示したmūğib 説が後のシーア派神学にどれほどの影響を与えたかについても一切論じられていません。シーア派神学における「イブン=アラビー的展開」を云々するなら、やはり存在一性論に対して批判的なシーア派神学者たちまでもが宇宙論にこの円環構造論を取り入れているくらいの証拠が必要であるように思います。たしかにアームリーが彼以前の代表的なシーア派神学者とは異なる必然者観を提示したことは事実かもしれませんが、それを「シーア派神学におけるイブン=アラビー的展開」とまで一般化して言ってしまえるかというと、私には無理があるように思えます。
アヴィセンナの存在論研究で偉大な業績を残しつづけているMcGill のWisnovsky が、じつはこんな論文も書いていました。タイトル的にはCorbin-Nasr 全盛の古いイスラム学(「シーア派的=イラン的」な神秘主義的要素を過度に強調する)をほうふつとさせますが、実際にはスンナ派・シーア派を問わず、スーフィーたちがしばしば論じていた「荘厳な神名(al-asmāʾ al-ğalāliyya)」/「美麗な神名(al-asmāʾ al-ğamāliyya)」という神名論上の分類を主題として取りあげ、この分類が担う意味内容ないし役割の変遷をイブン=アラビー(1240年没)以前、イブン=アラビー、そしてシーア派存在一性論者として有名なハイダル・アームリー(1385年以降没)の議論を軸に分析していくというもの。正直に言うと、部分的には蒙を啓いてくれるような記述もあるのですが、多くの議論は「そんなこと、もうわかってるだろう」とでも言いたくなるようなトリヴィアルな、しかも本論自体にとってもあまり本筋とは関係ないように思われる論点の詳述に終始していて、どうも本当に論じるべき点がなおざりになっているような、そんな印象を受ける論文でした。以下では枝葉末節は無視し、私が議論の本筋と理解した内容のみをできるだけわかりやすく再構成してまとめておきます。
著者によると、アシュアリー派神学者とアヴィセンナはある重要な点において共通の問題意識を共有していました。すなわち(著者自身はこういう言い方をしていなかったと思いますが)、永遠と偶発の緩衝領域の設定です。このような領域を確保するために、アシュアリー派神学者たちは永遠ではあるがuncaused でない(=他に原因をもつ)存在者として神の属性を、アヴィセンナは同様の存在者として天球・天球の魂(→ 天球を動かす)・天球の知性(→ 天球の魂をmotivate する)を措定することになります。こうした結論を導きだすべく、アヴィセンナは「それ自体においては存在可能的であるが、他者、つまり自らの原因を通じてであれば存在必然的である」という存在者カテゴリーを導入します。そしておそらくもともとの問題意識が共通だったこともあり、アヴィセンナ以後のアシュアリー派神学者たちはこのような彼の議論を継承し、徐々に「存在必然 / 存在可能」といったアヴィセンナ・タームを用いながら、神の属性について論じるようになっていきます(cf. id.: “One Aspect of the Avicennian Turn in Sunnī Theology”, ASPh 14 [2004], 65-100)。
それではシーア派の神学者たちはこうしたアヴィセンナの議論に対してどのように反応したのでしょうか。著者によると、アヴィセンナ以後の代表的なシーア派神学者であるトゥースィー(1274年没)とヒッリー(1325年没)は、アシュアリー派神学者とは異なり、神の存在必然化性(īğāb)に疑義をはさむのだそうです。もちろん彼らもアシュアリー派神学者同様、アヴィセンナの議論を継承し、神を存在必然者(wāğib)だと考えてはいました。ところが、だからといって、神が他の存在者の存在を必然化する(mūğib)とまでは言えない、と彼らは考えます。何故ならもし神が他の存在者の存在を必然化するとしたら、彼には他の存在者の存在を必然化しない自由がないということになり、ひいては神から意志という属性が奪われることになるからです。こうしてトゥースィーとヒッリーは当時のアシュアリー派神学者とは異なり、神と他の存在者どもとのあいだに必然的な因果関係を想定することを拒絶したのだそうです。「とはいえ」とここで著者は問い立てをします(59, 36-37)。「それでは存在必然者である神は世界に対して、どのようにcausally responsible たりうるのだろうか」。これは正直、舌足らずでいまいち意味がわからないのですが、たぶん因果律と人間の責任の問題(→ こちらを参照)が争点になっているのだろうと思います。つまり必然者に存在必然化しない自由などというものを認めてしまったら、我々が善い行いをしようとしてもその善い行いが現実の行為として結果しなくなる。そんな状況でどうして我々は最後の審判において自らの行為の責任をとらなければならないのか、と。
このような観点から先達であるトゥースィーとヒッリーの議論を斥けたのが、アームリーだと著者は言います。アームリーが依拠するのは、初期のスーフィーによってもすでに論じられていた神名論における「荘厳 / 美麗」という区分です。この区分は当初は人間の側が神に対して抱く感情を分類するための区分として用いられていました。具体的には、人間に対して畏怖の念を抱かせるような神名(「復讐する者」など)が前者のカテゴリーを、親愛の念を抱かせるような神名(「惜しみなく与える者」など)が後者のカテゴリーを構成してしました。ところがこうした考えかたは、イブン=アラビーによって改変を施されます。彼はこの区分に宇宙論的な役割を担わせます。具体的に言えば、彼は神のもつ超越的な側面を強調するために、まず神のもつ諸側面のうちで世界の経綸には一切たずさわらない、世界を超絶した側面を全て荘厳の神名として確保し、それ以外の世界の経綸にたずさわる側面は全て美麗の神名に帰しました。このようなイブン=アラビーの議論の根底には、神の絶対超越的な領域を確保することで、自らの存在一性論がはらむ内在論的(あるいは汎神論的)傾向に対する神学者側からの批判を牽制しようという動機があったのだそうですが、いずれにしても「荘厳 / 美麗」の区分はこうしてイブン=アラビーによって宇宙論的な役割を担うことになり、これを援用してアームリーは上記のトゥースィー=ヒッリー的必然者観(すなわち非mūğib 説)とは対立する見解を提示していくことになります。
著者によれば、アームリーは「荘厳 / 美麗」の区分を、一者からの流出と一者への還帰という新プラトン主義的なモチーフと直接的に結びつけています(なお「荘厳 / 美麗」との関係は不明ですが、こうした円環構造論自体はすでにクーナウィー[1274年没]が論じていますし、おそらくイブン=アラビー自身も論じているはず)。彼は荘厳の神名を一者からの流出と対応させ、逆に美麗の神名を一者への還帰と対応させているのだそうです。このあたりは引用テクストが難解なのに、大した解説もなされないため、正直言って著者の思考に全くついていけていないのですが、おそらく結論としては、こうした流出から還帰へとつづく新プラトン主義的な円環構造が宇宙論に導入されることによって、シーア派神学でも、それまで否定されていた必然者と世界とのあいだの因果的連続性が再生したというもの。つまりアームリーの新プラトン主義宇宙論的な「荘厳 / 美麗」論によって、シーア派神学における必然者観はトゥースィー=ヒッリー的な非mūğib 説からイブン=アラビー的なmūğib 説へと展開したのだ。これがおそらく本論文での著者の結論です(ちなみにmūğib 説自体は上述のとおり、アヴィセンナやアシュアリー派神学者たちもとってはいますが、ここでの展開はあくまで「荘厳 / 美麗」の円環宇宙論にのっとったものであるという点で、著者はこのmūğib 説を「イブン=アラビー的」と認識しているのでしょう)。
ただしトゥースィーとヒッリーがとる非mūğib 説が当時のシーア派内で支配的な学説だったかどうかに関しては著者自身全く触れていませんし、そもそもアームリーの提示したmūğib 説が後のシーア派神学にどれほどの影響を与えたかについても一切論じられていません。シーア派神学における「イブン=アラビー的展開」を云々するなら、やはり存在一性論に対して批判的なシーア派神学者たちまでもが宇宙論にこの円環構造論を取り入れているくらいの証拠が必要であるように思います。たしかにアームリーが彼以前の代表的なシーア派神学者とは異なる必然者観を提示したことは事実かもしれませんが、それを「シーア派神学におけるイブン=アラビー的展開」とまで一般化して言ってしまえるかというと、私には無理があるように思えます。
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