Arif, S.: “al-Āmidī’s Reception of Ibn Sīnā: Reading al-Nūr al-bāhir fī al-ḥikam al-zawāhir”, in: Y. T. Langermann (ed.): Avicenna and His Legacy: A Golden Age of Science and Philosophy, Turnhout: Brepols, 2009, 205-18.
12-13世紀を代表する大学者サイフッディーン・アーミディー(1233年没)。彼は法学・神学の分野で重要な著作を複数残していますが、じつはそれ以外にも哲学著作をいくつかものしています。有名なものとしては、アヴィセンナの『指示と勧告』に対する注釈(なおアーミディーはこの注釈中で有名なトゥースィー[1274年没]に先だって、ラーズィー[1209年没]によるアヴィセンナ批判に対して反駁を行っています)が挙げられますが、今回Arif が分析対象として選ぶのは哲学百科全書 『光輝な叡智に関する輝く光』(an-Nūr al-bāhira fī l-ḥikam az-zawāhir; 以下『光輝』)です。同書は全体で5巻からなる大著で、現在のところアンカラ大学の言語歴史地理学部附属図書館所蔵のIsmāʿīl Sāʾib Mss. 631 [vol. 1], 2866 [vo. 2], 4624 [vol. 3] & 4830 [vol. 5] の4点を通して、その一部が伝存しているとのこと(Ms. 4830は1196年書写;vol. 4は散逸)。なおこれらの写本はすでにSezgin によって2001年にファクシミリ版が出版されているため、現在では比較的容易にアクセスすることができます。
Arif によると、『光輝』の現存ヴァージョンは以下のような構成をとります。
I. 論理学(第1-2巻 fols. 1r-400v)
1. 序論=エイサゴーゲー(maqāla 1, faṣl 1-10)
とはいえ、だからといって、『光輝』が『治癒』の完全なる引き写しだということにはなりません。Arif は同書の『治癒』との構成上の相違を次の5点にまとめています。(1)『光輝』では『治癒』とは異なり、カテゴリー論が論理学部ではなく、形而上学部に置かれている。(2)『光輝』(少なくとも現在伝存するヴァージョン)では、魂論・植物論・動物論が省かれている。(3)諸元素の混合論が『治癒』では生成消滅論の一部として論じられているのに対し、『光輝』では独立した1章を与えられている。(4)『治癒』では形而上学部の序論の直後で早速、存在必然者と存在可能者に関する議論が始められる(maqāla 1)のに対し、『光輝』では存在必然者に関する議論(maqāla 5)に先だって一と多についての議論(maqāla 3)が置かれている。(5)『治癒』で論じられている「完全 / 不完全」(at-tāmm wa-n-nāqiṣ)、普遍と個物、類と種、種差と定義に関する議論が『光輝』では省かれている。
このようにアーミディーは『光輝』においてアヴィセンナの『治癒』に大幅に依拠した議論を展開しつつも、随所でアヴィセンナが提示した枠組みを意図的に脱しています。そこにはおそらくアヴィセンナ以外の哲学者・神学者からの影響もあったのだろうし、彼自身の創意によるところもあったのだろう(しかしこれらの確定は今後の課題とせざるをえない)というのが本論文での著者の結論です。近年のEichner を中心としたポスト・アヴィセンナ期の哲学史叙述を見ると、アヴィセンナが『治癒』で提示したような哲学体系はすでに彼の弟子であるバフマニヤール(1066年没)の手によって解体されはじめると言われているため、この時代にもまだ『治癒』に比肩しうるような大部の哲学全書が著されていたということ自体、私には純粋に驚きでした。ただ、だからこそ、著者にはそうした後期哲学の研究にももう少し目配せしてもらいたかったというのが正直な感想です。
関連ポスト:「アーミディー研」(2011.7.21-8.31)。
12-13世紀を代表する大学者サイフッディーン・アーミディー(1233年没)。彼は法学・神学の分野で重要な著作を複数残していますが、じつはそれ以外にも哲学著作をいくつかものしています。有名なものとしては、アヴィセンナの『指示と勧告』に対する注釈(なおアーミディーはこの注釈中で有名なトゥースィー[1274年没]に先だって、ラーズィー[1209年没]によるアヴィセンナ批判に対して反駁を行っています)が挙げられますが、今回Arif が分析対象として選ぶのは哲学百科全書 『光輝な叡智に関する輝く光』(an-Nūr al-bāhira fī l-ḥikam az-zawāhir; 以下『光輝』)です。同書は全体で5巻からなる大著で、現在のところアンカラ大学の言語歴史地理学部附属図書館所蔵のIsmāʿīl Sāʾib Mss. 631 [vol. 1], 2866 [vo. 2], 4624 [vol. 3] & 4830 [vol. 5] の4点を通して、その一部が伝存しているとのこと(Ms. 4830は1196年書写;vol. 4は散逸)。なおこれらの写本はすでにSezgin によって2001年にファクシミリ版が出版されているため、現在では比較的容易にアクセスすることができます。
Arif によると、『光輝』の現存ヴァージョンは以下のような構成をとります。
I. 論理学(第1-2巻 fols. 1r-400v)
1. 序論=エイサゴーゲー(maqāla 1, faṣl 1-10)
2. Explanatory Terms について(maqāla 2, faṣl 1-2)
3. 命題論(maqāla 3, fann 1-2: fann 1 [faṣl 1-8] / fann 2 [faṣl 1-3])
4. 議論の諸形式について(maqāla 4, fann 1-8: fann 1, qāʿida 1 [faṣl 1-6]
& qāʿida 2 [faṣl 1-5] / fann 2 [faṣl 1-2], fann 8 [faṣl 1-9] =分析論前書
5. 論証について(maqāla 5, faṣl 1-22)=分析論後書
6. 弁証術について(maqāla 6, faṣl 1-10)=トピカ
7. 詭弁について(maqāla 7)
8. 修辞について(maqāla 8, faṣl 1-3)
9. 詩学について(maqāla 9, faṣl 1-2)
II. 自然諸学(第3巻 fols. 401r-584v)
1. Physica(自然学講義[?];maqāla 1, faṣl 1-3)
2. 運動と静止について(maqāla 2, fann 1 [faṣl 1-10])
3. 場所について(maqāla 2, fann 2 [faṣl 1-2])
4. 時間について(maqāla 2, fann 3)
5. 大きさについて(maqāla 2, fann 4 [faṣl 1-2])
6. 無限について(maqāla 2, fann 5 [faṣl 1-5])
7. 方向について(maqāla 2, fann 6)
8. 天と世界について(maqāla 2, fann 7, qāʿida 1 [faṣl 1-3] & qāʿida 2
[faṣl 1-4])=天空論
9. 生成と消滅について(maqāla 2, fann 8 [faṣl 1-6])=生成消滅論
10. 作用と被作用について(maqāla 2, fann 9 [faṣl 1-2])=De actionibus
et passionibus
11. 混合について(maqāla 2, fann 10 [faṣl 1-2])=De mixione
12. 鉱物等について(maqāla 2, fann 11 [faṣl 1-3])=鉱物論および気象論
III. 形而上学(第5巻 fols. 585r-724v)
残念ながら第4巻の存在が確認できていない現状では、同所で論じられているのが数学かどうか判断することはできませんが、それでも著作の構成(アヴィセンナ以後の世代でなされるアヴィセンナ的哲学体系の解体が『光輝』中では起こっていない)、ならびに著作の規模(アヴィセンナ以後の哲学史でわりあい一般的になっていく1巻本で哲学体系全体を簡潔に叙述しようとする傾向が『光輝』には見られない)という2点から、おそらくアーミディーがこの著作を執筆する際に念頭に置いていたのはアヴィセンナの『治癒』だったのではないかと考えられます。くわえて実際にテクスト間を比較してみると、アーミディーが明に暗に『治癒』を(多少手は加えつつも)大幅に引用しているということがわかる、ともArif は言っています(実例はpp. 217-18)。
3. 命題論(maqāla 3, fann 1-2: fann 1 [faṣl 1-8] / fann 2 [faṣl 1-3])
4. 議論の諸形式について(maqāla 4, fann 1-8: fann 1, qāʿida 1 [faṣl 1-6]
& qāʿida 2 [faṣl 1-5] / fann 2 [faṣl 1-2], fann 8 [faṣl 1-9] =分析論前書
5. 論証について(maqāla 5, faṣl 1-22)=分析論後書
6. 弁証術について(maqāla 6, faṣl 1-10)=トピカ
7. 詭弁について(maqāla 7)
8. 修辞について(maqāla 8, faṣl 1-3)
9. 詩学について(maqāla 9, faṣl 1-2)
II. 自然諸学(第3巻 fols. 401r-584v)
1. Physica(自然学講義[?];maqāla 1, faṣl 1-3)
2. 運動と静止について(maqāla 2, fann 1 [faṣl 1-10])
3. 場所について(maqāla 2, fann 2 [faṣl 1-2])
4. 時間について(maqāla 2, fann 3)
5. 大きさについて(maqāla 2, fann 4 [faṣl 1-2])
6. 無限について(maqāla 2, fann 5 [faṣl 1-5])
7. 方向について(maqāla 2, fann 6)
8. 天と世界について(maqāla 2, fann 7, qāʿida 1 [faṣl 1-3] & qāʿida 2
[faṣl 1-4])=天空論
9. 生成と消滅について(maqāla 2, fann 8 [faṣl 1-6])=生成消滅論
10. 作用と被作用について(maqāla 2, fann 9 [faṣl 1-2])=De actionibus
et passionibus
11. 混合について(maqāla 2, fann 10 [faṣl 1-2])=De mixione
12. 鉱物等について(maqāla 2, fann 11 [faṣl 1-3])=鉱物論および気象論
III. 形而上学(第5巻 fols. 585r-724v)
1. 形而上学の主題・目的・有益性・序列・名称について(maqāla 1)
2. 存在者の10 のカテゴリーへの分類について(inqisām al-mawğūd[maqāla
2, faṣl 1-7])
3. 一と多およびそれらのconcomitants について(maqāla 3, faṣl 1-4)
4. 存在者の原因と結果への分類について(maqāla 4, faṣl 1-8)
5. 存在必然者とその諸属性に関する証明について(maqāla 5, faṣl 1-6)
6. 原因と結果の諸階梯、存在の原理からの世界の流出、そして天球の運動
について(maqāla 6, faṣl 1-7)
7. 魂と肉体の還帰について(maqāla 7, faṣl 1-2)
8. 預言者性と奇蹟、および敬虔なカリフの場合と正しい道を歩む指導者の
場合について(maqāla 8, faṣl 1-3)
2, faṣl 1-7])
3. 一と多およびそれらのconcomitants について(maqāla 3, faṣl 1-4)
4. 存在者の原因と結果への分類について(maqāla 4, faṣl 1-8)
5. 存在必然者とその諸属性に関する証明について(maqāla 5, faṣl 1-6)
6. 原因と結果の諸階梯、存在の原理からの世界の流出、そして天球の運動
について(maqāla 6, faṣl 1-7)
7. 魂と肉体の還帰について(maqāla 7, faṣl 1-2)
8. 預言者性と奇蹟、および敬虔なカリフの場合と正しい道を歩む指導者の
場合について(maqāla 8, faṣl 1-3)
残念ながら第4巻の存在が確認できていない現状では、同所で論じられているのが数学かどうか判断することはできませんが、それでも著作の構成(アヴィセンナ以後の世代でなされるアヴィセンナ的哲学体系の解体が『光輝』中では起こっていない)、ならびに著作の規模(アヴィセンナ以後の哲学史でわりあい一般的になっていく1巻本で哲学体系全体を簡潔に叙述しようとする傾向が『光輝』には見られない)という2点から、おそらくアーミディーがこの著作を執筆する際に念頭に置いていたのはアヴィセンナの『治癒』だったのではないかと考えられます。くわえて実際にテクスト間を比較してみると、アーミディーが明に暗に『治癒』を(多少手は加えつつも)大幅に引用しているということがわかる、ともArif は言っています(実例はpp. 217-18)。
とはいえ、だからといって、『光輝』が『治癒』の完全なる引き写しだということにはなりません。Arif は同書の『治癒』との構成上の相違を次の5点にまとめています。(1)『光輝』では『治癒』とは異なり、カテゴリー論が論理学部ではなく、形而上学部に置かれている。(2)『光輝』(少なくとも現在伝存するヴァージョン)では、魂論・植物論・動物論が省かれている。(3)諸元素の混合論が『治癒』では生成消滅論の一部として論じられているのに対し、『光輝』では独立した1章を与えられている。(4)『治癒』では形而上学部の序論の直後で早速、存在必然者と存在可能者に関する議論が始められる(maqāla 1)のに対し、『光輝』では存在必然者に関する議論(maqāla 5)に先だって一と多についての議論(maqāla 3)が置かれている。(5)『治癒』で論じられている「完全 / 不完全」(at-tāmm wa-n-nāqiṣ)、普遍と個物、類と種、種差と定義に関する議論が『光輝』では省かれている。
このようにアーミディーは『光輝』においてアヴィセンナの『治癒』に大幅に依拠した議論を展開しつつも、随所でアヴィセンナが提示した枠組みを意図的に脱しています。そこにはおそらくアヴィセンナ以外の哲学者・神学者からの影響もあったのだろうし、彼自身の創意によるところもあったのだろう(しかしこれらの確定は今後の課題とせざるをえない)というのが本論文での著者の結論です。近年のEichner を中心としたポスト・アヴィセンナ期の哲学史叙述を見ると、アヴィセンナが『治癒』で提示したような哲学体系はすでに彼の弟子であるバフマニヤール(1066年没)の手によって解体されはじめると言われているため、この時代にもまだ『治癒』に比肩しうるような大部の哲学全書が著されていたということ自体、私には純粋に驚きでした。ただ、だからこそ、著者にはそうした後期哲学の研究にももう少し目配せしてもらいたかったというのが正直な感想です。
関連ポスト:「アーミディー研」(2011.7.21-8.31)。
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