Thiele, J., ''La causalité selon al-Ḥākim al-Ǧišumī'', Arabica 59 (2012), 291-318.
12世紀イエメンのザイド派によるムウタズィラ派神学受容に関して、昨年著作を上梓したThiele が最新作となる論文を発表しました。イエメンでは12世紀以降、ザイド派の神学者たちによってムウタズィラ派(特にバフシャミーヤ[=アブー=ハーシム・ジュッバーイー(933年没)のフォロワー])神学の受容が進められます。ハサン・ラッサース(1188年没)などがこうした受容プロセスにおいて最重要の人物となるのですが、今回取りあげられるのはこの12世紀以降の受容に対して重大な影響を与えたとされる11世紀の神学者ハーキム・ジシュミー(1101年没)の因果論です。
因果論は神学と哲学のいずれにおいても中心的な議題の1つでありつづけました(例えばここを参照)。ザイド派神学者らも神学大全や自然学関係の著作の一部で因果律に関する議論を展開しており、ジシュミーもまた神学書Kitāb at-taʾṯīr wa-l-muʾaṯṯir(『作用と作用者の書』)中で因果について詳細に論じています(なお同書の写本で現存が確認されているのは、Ms. Dār al-kutub 2119[おそらく13世紀初頭頃に書写]1点のみ)。ただし同書は一般に神学者たちが「神学上の微妙な点(laṭīf al-kalām / les subtilités de la théologie)」と呼ぶ宇宙論的な考察と厳密な意味での神学的考察とを統合する観点から書かれており、書名とは対照的に因果論以外の多様なテーマも扱う体系的な著作だという点には留意が必要です。ちなみに構成は以下のとおり。
[I.]第1部(fī bayān mā yuʾaṯṯiru wa-mā lā yuʾaṯṯiru wa-kayfiyyat at-taʾṯīr[fol. 3r-]):因果に関する詳細な議論
[II.]第2部(fī bayān ağnās al-maqdūrāt wa-ṣifāti-hā wa-mā yuʾaṯṯiru fī-hā wa-bayān aḥkām kull ğins[fol. 25v-]):自然学部
[II-1.]第1章:実体(ğawāhir)とその消滅(fanāʾ)について
[II-2.]第2章:付帯性(aʿrāḍ)について
[II-3.]第3章:さまざまな属性について[色、味とにおい、熱と冷、音、苦と快(al-alam wa-l-laḏḏa)、湿と乾、akwān(或る原子の特定のposition を決定するさまざまなaccidents)、構成(taʾlīf)、緊張(?: iʿtimādāt / pressions)、生、力、知と確信、臆見、意思と嫌悪、欲求と気の進まなさ(aš-šahwa wa-n-nifār)、熟考(naẓar)、認識、自責と繊細さ(?: an-nadam wa-l-laṭfa)]
[III.]第3部(fī iṯbāt aṣ-ṣāniʿ wa-ṣifāti-hi wa-mā yattaṣilu bi-hi min an-nubuwwāt wa-š-šarāʾiʿ[fol. 58v-]):神認識、神の存在証明、属性論、神の公正さ、al-wadʿ wa-l-waʿīd 、勧善懲悪(al-amr bi-l-maʿrūf wa-n-nahy ʿan al-munkar)、イマーム性
このうちThiele が本論文で主題的に取りあげるのは、第1部(下線部)です。この部分は一言でいえばmuʾaṯṯir(「作用者」;或いは意訳すれば「原因」)の分類を示した箇所。ジシュミーはこの第1部において先行するさまざまな神学書を渉猟し、そこで用いられているmuʾaṯṯir という語の用法を徹底的に分類していきます。なお彼が参照するのは、主に次の6人のムウタズィラ派神学者の議論です。
1) アブー=アリー・ジュッバーイー(915年没)[ムウタズィラ派のバスラ学派頭領]
2) アブー=ハーシム・ジュッバーイー[アブー=アリーの息子で、バスラ学派頭領;バフシャミーヤの祖;バスラ学派の文法理論を援用して、神の属性論に「様態」理論を導入]
3) アブー=アブディッラー・バスリー(980年没)[ムウタズィラ派のバグダード学派頭領]
4) アブドゥルジャバール・ハマザーニー(1024年没)[後期ムウタズィラ派を代表する神学者]
5) アブルカースィム・カアビー・バルヒー(931年没)[ムウタズィラ派のバグダード学派頭領]
6) アブー=ラシード・ニーサーブーリー(11世紀前半に活躍)[ムウタズィラ派のバスラ学派に属す;自然学書al-Masāʾil fī l-ḫilāf bayna l-Baṣriyyīn wa-l-Baġdādiyyīn の著者]
これらの神学者の議論を明に暗に参照しつつ、ジシュミーはmuʾaṯṯir の定義と分類を示していきます。まず彼によれば、muʾaṯṯir には次の2つの定義があるといいます。
[定義]
1) muʾaṯṯir とはそれなしでは顕現しないようなものがそれの故に顕現するところのもの(mā li-ağli-hi yaẓharu mā law lā-hu lam yaẓhar)である。
2) muʾaṯṯir とは或る何ものか(X)〔の存在〕がその(Y)〔存在の〕肯定・否定によって肯定されたり否定されたりし、またもし仮にそれ(Y)がなかったとしたら〔その何ものか(X)は〕そのものたりえなくなってしまう、そういったもの(allaḏī li-ağl ṯubūti-hi wa-nafyi-hi yaṯbutu šayʾ aw yunfā wa-law lā-hu la-mā kāna ka-ḏālika)のことである。
それではこれら2つのうち、どちらがとるべき正しい定義なのでしょうか。Thiele によると、ジシュミーはこの点について明言してはいないとのこと。とすれば、もしかするとジシュミーはいずれの定義に関しても、或る程度の妥当性を認めていたのかもしれません。いずれにせよ、こうしてmuʾaṯṯir の定義を示したあと、彼はmuʾaṯṯir の分類へと進みます。ジシュミーによると、muʾaṯṯir は次の13のカテゴリーに分類されるのだといいます。
[分類]
1) fāʿil (行為者):qudra をおよぼす対象をもつもの〔=qādir(?)〕
1-i) 創造されていないfāʿil(=神)[qādir li-ḏ-ḏāt であるため、万物に対して永遠にqādir]
1-ii) 創造されたfāʿil(=この世界にある生と力をもつ全てのもの)[qādir bi-qudra muḥdaṯa; 万物に対してqādir とはならない(qudra をおよぼす対象に制限がある)]
2) ʿilla (原因):他
〔のḏāt〕 に対して何らかの様態(ḥāl)を必然化させるḏāt
3) sabab (原因):他〔のḏāt〕に由来し、そこから生じてきたあらゆるḏāt
3-i) iʿtimād (緊張[?])の付帯性:自らの基体に隣接する基体を押させる付帯性
3-ii) naẓar (熟考)の付帯性:心の内に存立し、ʿilm のような付帯性を自身の基体内部に生み出す付帯性
3-iii) kawn の付帯性:基体の空間的位置を確定する付帯性(或る物体を構成する複数の基体間につながり[taʾlīf]という付帯性を生みだしたり、それら複数の実体が相互に離れるときは分離[alam]という付帯性を生みだす)
4) muqtaḍī (要請するもの):他の本質、すなわちmuqtaḍā を要請するḏāt のṣifa
5) muṣaḥḥiḥ (可能にするもの):他者のiṯbāt を可能にするもの
6) iḥtiyāğ (必要):或るものの存在が他者の存在に依存しており、後者なしでは前者が存在しえないこと
7) taḍmīn (含意):何らのṣifa ないしḥukm ももたずには存在することができないḏāt
8) šarṭ (条件):それが生ずることによって〔或るものの存在〕を必然化することができるようになり、それなしではその必然化がなされえなくなるようなもの
9) dalāla (指示):〔或るもの〕に関するnaẓar がそれを通じてmadlūl のmaʿrifa へと至るようなもの
10) al-wuğūh allatī taqaʿu ʿalay-hā l-afʿāl (行為がそれに基づいて生起するところの様相)
11) aḥwāl (様態):属性(ṣifa)に等しい
11-i) muʾaṯṯir をもつことがありえず、従って永遠のréalité をもつようなḏāt のṣifa [或るḏāt がそのものと認識されるのはこのṣifa による]
11-ii) ḏāt のṣifa によって要請されるところのもののṣifa [ḏāt が存在者となった瞬間から必然的にréalité をもつことになる]
11-iii) この属性によって性質づけられたものを生み出したばかりのagent によって確定されたṣifa (ṣifat al-fāʿil)〔?〕
11-iv) そのréalité が付帯性によって原因づけられているようなṣifa (ṣifat al-maʿnā)〔?〕
12) ḍidd (対立するもの)
13) ad-dawāʿī wa-ṣ-ṣawārif (動機づけるものとその妨げとなるもの):或る行為がそれの故になされるようなもの(dawāʿī)と、或る行為がそれの故になされなかったり放棄されたりするようなもの(ṣawārif)
Thiele によれば、これら相互のあいだには細かな使い分けがあるようですが、ここでは個人的に気になった点のみをメモしておきます。
・ʿilla とmaʿlūl は同時(→ バルヒーのʿilla 先行説への批判)
・dawāʿī はʿilla でない(→ 「行為する能力と動機とが一致することによって、対立する2つの行為のうちの一方が結果する」とするアブルフサイン・バスリーとその支持者の学説に対する批判;おそらく神をfāʿil muḫtār ではなくʿilla とする哲学者の学説への批判も含意)
・バフシャミーヤにおいて、sabab という概念はtawlīd / tawallud (人は自らの肉体の外部に行為を達成する能力を有しているのかどうかという問題を提起する概念;ビシュル・イブン=ムウタミル[825-40 年のあいだに没]が導入)と結びついている。人は自らの行為によって自分自身の肉体(すなわちqudra という付帯性の基体)の外部にさまざまな結果をcauser する。すなわちまずはじめに人が自らの行為によって中間的な原因sabab を生みだし、次のこのsabab が間接的な行為(人が直接行う直接的な行為と対比)の結果を生みだすという図式。
・sabab はḏāt を生みだすが、ʿilla は生みださない(maʿlūl がḏāt であることは決してない)。
・ʿilla はmaʿlūl とともにしかありえないが、sabab はmusabbab なしでもありうる。
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