竹下政孝「論理学は普遍的か:アッバース朝期における論理学者と文法学者の論争」竹下政孝・山内志朗(編)『イスラーム哲学とキリスト教中世.II: 実践哲学』岩波書店,2012, 117-53.
アッバース朝中期の 932 年、カリフ・ムクタディルの宰相であったイブン=フラートの館で論理学者と文法学者の公開論争が執り行われました。論理学者として参加したのは、アブー=ビシュル・マッター・イブン=ユーヌス(940 年没)。彼はアレクサンドリアのアリストテレス註解の伝統をひくいわゆるバグダード・アリストテレス学派の創始者で、当時を代表する論理学者でした(ちなみにファーラービー[950 年没]は彼の弟子の 1 人)。ネストリウス派のキリスト教徒だったマッターはシリア語とアラビア語の双方を解し、アリストテレスの『分析論後書』『詩学』『形而上学』ラムダ巻などをシリア語からアラビア語に翻訳したことで名声を博しました(特に後書は彼によってはじめてアラビア語に訳されたとのこと)。他方、文法学者として参加したのは、アブー=サイード・スィーラーフィー(979 年没)。彼はファーラービーと親交のあった文法学者イブン=サッラージュ(928 年没)に師事した人物であり、バスラ派文法学を代表するスィーバワイヒ(796/7 年没)の主著 al-Kitāb (『書』)に註解を付したことで名声を博しました。彼らが争ったのは、一言でいえばギリシア由来の論理学(manṭiq / nuṭq)とアラビア固有の文法学(naḥw)のはたしてどちらがより優れているかという問題。今回はこの論争の概要を日本語で手短にまとめてくれた 1 本を読みました。
マッターの主張は明快です。彼によれば、「言葉(kalām)」には 2 つの側面があります。1 つは発話された言葉(lafẓ)、そしてもう 1 つは発話以前の抽象的意味概念(maʿnā)。文法学はこのうち前者のみを扱うが、論理学は後者をも扱う。ところで発話された言葉は言語が異なれば必然的に異なるものになってしまう。他方で意味概念は全ての言語間で共通である。従って後者を扱う論理学のほうが普遍的で優れた学である。これがマッターの主張です。スィーラーフィーはマッターのこうした主張に対して、さまざまな角度から批判をくわえていきます。彼の批判は主に次の6点にまとめられます。
1) 論理学もアラビア語で表現される以上、アラビア語文法学に関する知識は不可欠である。
2) 論理学者の言う「論理学」は 1 人の古代ギリシア人がギリシア人の言語・表現・慣習に基づいて生み出したものでしかない。ところが各言語はそれぞれ異なった特徴を有するため、厳密な意味での翻訳は不可能である。従ってギリシア語で構想された論理学をアラビア語という別の言語を通じて学ぶことなどできはしない(ここでスィーラーフィーはマッターがギリシア語原文を通じてアリストテレスに接することができなかったという点をも暗に批判している)。
3) 論理学者はアリストテレスという権威に盲従(taqlīd)しているだけである。だが我々は権威に盲従などせず、自ら理性(ʿaql)を行使している(ムウタズィラ派的な理性主義的傾向)。
4) 論理学者は意味概念を把握することの重要性を説くが、言葉というのは意味概念を把握しさえすれば事足れりというものでは決してない。言葉は正しい内容で語られるだけでなく、雄弁に語られる必要もあるのである。だが論理学者らは『弁論術』や『詩学』について語っていながら、1 人の雄弁家・詩人をも輩出していない。
5) 論理学者はカテゴリーの 1 つとして関係(iḍāfa)について語っているが、文法学では「関係」構文について論理学ではなされないほどの精緻な議論が展開されている。
6) いくら三段論法を用いて証明をくりかえしても、対立する複数の学説間の相違は現に解消されずに残っている。対立するさまざまな見解の相違を解消するには、証明よりも思弁神学・法学で用いられる弁証術のほうが有用である。
マッターはこれらの批判に対して、説得的な回答を示すことができなかったようです。こと彼らの論争にかぎって見れば、軍配はスィーラーフィーに上がったように見えます。ところがその後、マッターの弟子であるヤフヤー・イブン=アディー(974 年没)が師の主張をより説得的に展開し、文法学陣営への再批判を行います。さらにもう 1 人の弟子であるファーラービーは(イブン=サッラージュを介して文法学の影響を受けつつ)、Iḥṣāʾ al-ʿulūm (『諸学の列挙』)では論理学と文法学の関係性について論じ、Kitāb al-ḥurūf (『文字の書』)ではアラビア語の分析を通じて哲学的文法学の構築へと向かいます。その後も論理学はガザーリー(1111 年没)の手によって伝統的なイスラム諸学の内に確固たる地歩を占めることになり、イブン=タイミーヤ(1326 年没)からの批判にもかかわらず、現代に至るまで連綿と学ばれつづけてきました。マッター対スィーラーフィーの論争では文法学に軍配が上がりましたが、その後の思想史においては(著者の言うように「むしろ論理学が勝利した」とまでは言い切れない気がしますが)、こうした文法学の圧倒的優位はそこまで長続きしなかったようです。
アッバース朝中期の 932 年、カリフ・ムクタディルの宰相であったイブン=フラートの館で論理学者と文法学者の公開論争が執り行われました。論理学者として参加したのは、アブー=ビシュル・マッター・イブン=ユーヌス(940 年没)。彼はアレクサンドリアのアリストテレス註解の伝統をひくいわゆるバグダード・アリストテレス学派の創始者で、当時を代表する論理学者でした(ちなみにファーラービー[950 年没]は彼の弟子の 1 人)。ネストリウス派のキリスト教徒だったマッターはシリア語とアラビア語の双方を解し、アリストテレスの『分析論後書』『詩学』『形而上学』ラムダ巻などをシリア語からアラビア語に翻訳したことで名声を博しました(特に後書は彼によってはじめてアラビア語に訳されたとのこと)。他方、文法学者として参加したのは、アブー=サイード・スィーラーフィー(979 年没)。彼はファーラービーと親交のあった文法学者イブン=サッラージュ(928 年没)に師事した人物であり、バスラ派文法学を代表するスィーバワイヒ(796/7 年没)の主著 al-Kitāb (『書』)に註解を付したことで名声を博しました。彼らが争ったのは、一言でいえばギリシア由来の論理学(manṭiq / nuṭq)とアラビア固有の文法学(naḥw)のはたしてどちらがより優れているかという問題。今回はこの論争の概要を日本語で手短にまとめてくれた 1 本を読みました。
マッターの主張は明快です。彼によれば、「言葉(kalām)」には 2 つの側面があります。1 つは発話された言葉(lafẓ)、そしてもう 1 つは発話以前の抽象的意味概念(maʿnā)。文法学はこのうち前者のみを扱うが、論理学は後者をも扱う。ところで発話された言葉は言語が異なれば必然的に異なるものになってしまう。他方で意味概念は全ての言語間で共通である。従って後者を扱う論理学のほうが普遍的で優れた学である。これがマッターの主張です。スィーラーフィーはマッターのこうした主張に対して、さまざまな角度から批判をくわえていきます。彼の批判は主に次の6点にまとめられます。
1) 論理学もアラビア語で表現される以上、アラビア語文法学に関する知識は不可欠である。
2) 論理学者の言う「論理学」は 1 人の古代ギリシア人がギリシア人の言語・表現・慣習に基づいて生み出したものでしかない。ところが各言語はそれぞれ異なった特徴を有するため、厳密な意味での翻訳は不可能である。従ってギリシア語で構想された論理学をアラビア語という別の言語を通じて学ぶことなどできはしない(ここでスィーラーフィーはマッターがギリシア語原文を通じてアリストテレスに接することができなかったという点をも暗に批判している)。
3) 論理学者はアリストテレスという権威に盲従(taqlīd)しているだけである。だが我々は権威に盲従などせず、自ら理性(ʿaql)を行使している(ムウタズィラ派的な理性主義的傾向)。
4) 論理学者は意味概念を把握することの重要性を説くが、言葉というのは意味概念を把握しさえすれば事足れりというものでは決してない。言葉は正しい内容で語られるだけでなく、雄弁に語られる必要もあるのである。だが論理学者らは『弁論術』や『詩学』について語っていながら、1 人の雄弁家・詩人をも輩出していない。
5) 論理学者はカテゴリーの 1 つとして関係(iḍāfa)について語っているが、文法学では「関係」構文について論理学ではなされないほどの精緻な議論が展開されている。
6) いくら三段論法を用いて証明をくりかえしても、対立する複数の学説間の相違は現に解消されずに残っている。対立するさまざまな見解の相違を解消するには、証明よりも思弁神学・法学で用いられる弁証術のほうが有用である。
マッターはこれらの批判に対して、説得的な回答を示すことができなかったようです。こと彼らの論争にかぎって見れば、軍配はスィーラーフィーに上がったように見えます。ところがその後、マッターの弟子であるヤフヤー・イブン=アディー(974 年没)が師の主張をより説得的に展開し、文法学陣営への再批判を行います。さらにもう 1 人の弟子であるファーラービーは(イブン=サッラージュを介して文法学の影響を受けつつ)、Iḥṣāʾ al-ʿulūm (『諸学の列挙』)では論理学と文法学の関係性について論じ、Kitāb al-ḥurūf (『文字の書』)ではアラビア語の分析を通じて哲学的文法学の構築へと向かいます。その後も論理学はガザーリー(1111 年没)の手によって伝統的なイスラム諸学の内に確固たる地歩を占めることになり、イブン=タイミーヤ(1326 年没)からの批判にもかかわらず、現代に至るまで連綿と学ばれつづけてきました。マッター対スィーラーフィーの論争では文法学に軍配が上がりましたが、その後の思想史においては(著者の言うように「むしろ論理学が勝利した」とまでは言い切れない気がしますが)、こうした文法学の圧倒的優位はそこまで長続きしなかったようです。
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