Samstag, 8. September 2012

ルワイヘブ『関係的推論とアラビア論理学の歴史(900-1900年)』(序論部)

El-Rouayheb, Kh., Relational Syllogisms and the History of Arabic Logic, 900-1900, Leiden: Brill, 2010, 1-13 [Introduction].

アヴィセンナ以後のアラビア論理学や初期近代イスラム世界のインテレクチュアル・ヒストリーに関して幅広く研究を発表しているハーヴァード大学の Rouayheb が大胆かつ偏執病的な研究を出版しました。何と古典期から現代に至るまでのアラビア論理学 1000 年の歴史を「関係的推論」という 1 点のみに焦点を絞ってまとめきってしまおうという試みです。ここでは序論部(1-13)で簡潔に示されている本書全体の論旨のみをまとめておきます。

古典的なアリストテレス論理学には、2 つの決定的な欠陥がありました。1 つは命題の多重量化を扱えないという欠陥。古典論理は「誰もが誰かを好きである」のような全称と特称が混在した命題を扱うことができないという問題をはらんでいました。そしてもう 1 つは関係文を扱えないという欠陥。例えば「トマトは野菜である」⇒「トマトサラダは野菜サラダである」という関係文を含む推論の妥当性は、古典論理では説明できません。これらの欠陥を埋め、より完成された論理学を作りあげようという試みのなかで、19 世紀以降、ド・モルガン(1871 年没)やフレーゲ(1925 年没)らの手によって、現代論理学が発展していった、というのが論理学史の教科書的記述のようです(野矢『論理学』[1994]86-89)。ところがこのうち関係文をめぐる問題に関しては、すでに中世アラビアの論理学者たちがその解決を目指し、さまざまな可能性を模索していたのだといいます。

関係文問題の解決に対してもっとも自覚的に取り組んだのは、16 世紀以降(特に18 世紀?)のオスマン朝で活躍した論理学者でした。彼らは「未知の推論」(unfamiliar inferences)の 1 つとして、関係的推論を扱い、これを救うための論理学を構想します。具体的には、定言的三段論法は「小項(S)/ 中項(M)/ 大項(P)」という 3 つの項辞から構成されねばならないとする古典論理の大原則を、彼らは破棄するのだといいます(ただしそこから最終的にどのような代替案が示されるかは本文を読まないと確認できないもよう)。とはいえ、もちろんこのような着想も彼らが独自に生み出したものではありません。彼らもまた先行する論理学者から多大な影響を受けていました。なかでもこうした古典論理の原則破棄に決定的な影響を与えたのが、ファフルッディーン・ラーズィー(1210 年没)でした。ラーズィーは ''argument from equals'' を根拠に、定言的三段論法において中項がくりかえされるとする古典的原則を破棄します。例えば次のような推論を考えます。

(小前提)AはBに等しい
大前提)BはCに等しい        
(結 論)AはCに等しいものに等しい

ここで注目すべきは、通常 Barbara 型の推論において中項となるはずの大前提の主語と小前提の述語が一致していないという点です。つまりこの推論において、大前提の主語は B ですが、小前提の述語は B ではなく、「B に等しい(もの)」になっているのです。B に等しいものは B だろうという気もするのですが、いずれにしても、このような点からラーズィーは上述のとおり、古典論理の原則を破棄し、2 つの前提間に中項などというものがある必要はないと結論するようです。

かつて Rescher はアラビア論理学者を西方派(親アリストテレス派)と東方派(反アリストテレス派 / 親アヴィセンナ派)の 2 派に区分し、ラーズィーを(アブルバラカート・バグダーディー[1165 年没]やアヴェロエス[1198 年没]らとともに)西方派に分類しました(The Development of Arabic Logic[1964])。ところが Rouayheb によれば、ラーズィーの論理学の出発点にあるのは、断固としてアヴィセンナ論理学なのだといいます(例えば一般にラーズィーはバグダーディーから大きな影響を受けたと言われますが、こと論理学に関しては両者のあいだにはほとんど共通点がないとのこと)。こうして彼はファーラービー(950 年没)やイブン=ズルア(1008 年没)、アヴィセンナ(1031 年没)などといった古典期のアラビア論理学者の議論から出発して、最終的に16 世紀以降オスマン朝期の論理学者が提示した非古典論理へと至る、その道程を描出していくことになります。なおこのようなアラビア論理学史の概要を示すと、以下のようになるそうです。

1) 9 世紀~:ファーラービー、イブン=ズルアなど[アリストテレスのオルガノン註解が中心]

2) 11 世紀~:アヴィセンナ、バフマニヤール(1065 年没)、サーウィー(1145 年頃活躍)など[オルガノン註解から離反]/ バグダーディー、アヴェロエスなど[オルガノン註解]/ スフラワルディー(1191 年没)[反逍遥学派]
 
3) 12 世紀末から 13 世紀初頭~:ラーズィー、フーナジー(1248 年没)、トゥースィー(1274 年没)、カーティビー(1277 年没)、ウルマウィー(1283 年没)、サマルカンディー(1303 年没)[アヴィセンナ論理学(具体的には、彼が行った combinatorial hypothetical syllogism や the distinction between 'descriptional' [wafī] and 'substantial' [ātī] readings of modality propositions といった革新)を出発点とする(ただし必ずしも親アヴィセンナというわけでもない);この頃から論理学書で主に扱われるテーマは、(i)5つの可述語(ii)定義(iii)命題の換位・換質など(iv)三段論法の諸形式の 4 点になっていく]
 
4) 14 世紀半ば~:ジュルジャーニー(1413 年没)、ダワーニー(1502 年没)、ダシュタキー(1498 年没)など[ふたたび先行する論理学書(具体的には、カーティビーの ar-Risāla aš-Šamsiyya とウルマウィーの Maāliʿ al-anwār などへの註解が中心となる;この頃から論理学書で扱われるテーマは哲学的・意味論的な問題が主になっていく(具体的には、[i]概念と判断の区別[ii]論理学の主題[第二次思惟対象なのか、それともより一般的に概念・判断の対象なのか][iii]意味論的・認識論的パラドクス[嘘つきのパラドクスやメノンのパラドクス][iv]命題は 3 つの要素[主語‐関係‐述語]から構成されるのか、それとも 4 つの要素[主語‐関係‐述語+関係の肯定 / 否定]から構成されるのか等
 
5) 16 世紀末から 17 世紀初頭~:すでに 14-15 世紀から北アフリカの論理学者とその他の地域で活動した論理学者とのあいだにはほとんど交流がなくなっていたが、この頃になるとそれ以外の地域間でも交流がなくなっていき、地域的偏差が顕著になっていく。結果、この時代以降は複数の論理学伝統が併存するようになる(こうした地域的偏差は 19 世紀末以降、トルコではオスマン語が、インドではウルドゥー語が著述に際して用いられはじめ、より拡大していくことになる)。
 
6) 18 世紀~:オスマン朝の論理学者が関係的推論の問題を認識し、これに取り組むようになる(メフメト・エミーン・シルヴァーニー[1627 年没]、ムーサー・ペフレヴァーニー[1720 年没]、メフメト・ダーレンデヴィー[1739 年没]、オスマーン・アラーシェフリー[1776 年没]、メフメト・ターヴースカーリー[1748 年頃活躍]など)。この頃インドの論理学者は上記のような意味論的問題や consequentia mirabilis について主に扱い、イランの論理学者は論証とそれにまつわるさまざまな認識論的トピックについて論じていた。北アフリカの論理学者は命題の形式に関する議論(仮言命題の換位・換質など)に取り組んでいた。

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