Heer, N., ''Al-Rāzī and al-Ṭūsī on Ibn Sīnā's Theory of Emanation'', in: P. Morewedge (ed.), Neoplatonism and Islamic Thought, Albany: SUNY Press, 1992, 111-25.
アヴィセンナ(1037 年没)が流出論に依拠した形而上学体系を構想していたこと、そしてそれに対してガザーリー(1111 年没)が神学者として批判を加えたこと、これら 2 点に関してはこれまでも数々の研究がなされてきました。ところがそれから 1 世紀ほど後に起こった、ラーズィー(1209 年没)によるアヴィセンナ流出論批判と、それに対するトゥースィー(1274 年没)の再批判に関しては、現在に至るまでほとんど研究がなされていません(ただし管見のかぎりでも、ゼロではない)。本論文はアヴィセンナの流出論に対して、ガザーリーとラーズィーがそれぞれどのような批判を加えたか、そしてそれに対してトゥースィーがどのような回答を示したかを論じた先駆的な研究です。ちなみに一口に「流出論」と言っても多様な側面がありますが、本論文で扱われるのは大きく分けて次の 2 点。即ち「どのようにして一から多が生ずるのか」という点と、「一の中に含まれる多なる側面と後続の多とのあいだにはどのような対応関係があるのか(例えば第二知性の流出する原因が第一知性の有する自らの始原に関する知識であるのは何故か)」という点の 2 点です。今回は個人的により重要と思われる前者、なかでも第一知性と第一作用との関係をめぐる議論に焦点をしぼってまとめておきます(なおガザーリーはこのタイプの議論に関して論じていないようなので割愛します)。
アヴィセンナは『治癒』「形而上学」第 9 巻、および『指示と勧告』「形而上学」第 6 章(namaṭ)において、流出論について論じています。彼は次のように考えます。存在必然者ないし第一者はあらゆる側面において一である。ところで絶対的に一である原因からは一なる作用しか生じない。それ故、第一の作用、あるいは存在必然者からの第一の流出は数的に一でなければならない。ちなみに一でなければならないのだから、第一作用は天球ではありえない。何故なら天球は皆、質料と形相(あるいは肉体と魂)から複合されている以上、厳密には一と言えないから。従って第一作用は知性でなければならず、この第一の知性から天球と第二知性が流出するとせねばならない。しかしこれら 2 つの存在者を流出させるためには、第一知性はその内に何らかのかたちで多性もしくは少なくとも二性を含みこんでいなければならない。そうでなければ、「一からは一しか生じない」という原則に従って、第一知性からは二ではなく一しか生じないということになってしまう。彼はこのように考えます。なおアヴィセンナによると、この第一知性の内に存する多性というのは、次の 4 つの側面からなります。
(1)第一知性が自らの原因ないし原理について有する知識
(2)第一知性が自らについて有する知識
(3)第一知性は自らの原因を通じては存在必然的であるということ
(4)第一知性はそれ自体においては存在可能的であるということ
ただしこのような多性を含みこんでいる知性が第一原理から一度に総体として流出してくることはありえません。というのも、複数の要素が一度に流出してくるとしたら、第一原理からの第一知性の流出が「一からは一しか生じない」という原則に抵触してしまうからです。むしろ第一知性の内に含まれる多性を構成する上記の 4 つの部分ないし側面が第一原理から 1 つずつ流出してくるとせねばならない、とアヴィセンナは言います。
これに対して、ラーズィーは『指示と勧告注釈』『東方的探究』『神的諸実相に関する完全なる論考』『指示と勧告の精髄』『古今学説集成』などにおいて反論を行います。彼によれば、そもそも第一知性はアヴィセンナが言うような複数の構成要素から成り立ってなどいないのだといいます。第一知性は全き一である第一原理から最初に生じた第一の作用である。故にもしそれが複数の構成要素から成り立っているとすれば、第一原理はそれら複数の構成要素全てにとっての原因だということになってしまう。ところがこれは「一からは一しか生じない」という原則に抵触する。従って第一作用(=第一知性)は非複合的だとせねばならない。ラーズィーはこのように論じます。また彼は次のようにも言います。第一知性が複数の構成要素から成り立っているとしながら、この原則は保持し、なおかつ矛盾を回避するためには、第一原理は第一知性を構成する諸要素のうちのどれか 1 つにとっての原因だとするしかない。しかしそうしたところで結局一からは一しか生じないわけだから、連鎖は 1 つずつつづいていくことになり、要素 1(=第一原理を直接の原因としてもつ部分)→ 要素 2 →[…]→ 要素 n-1 → 要素 n というぐあいに、最終的に他に対して作用をおよぼさず残るのは要素 n のみいうことになる。これでは第二知性と天球という 2 つの存在者を流出させるには不十分である。何故なら一からは一しか生じない以上、2 つのものを生じさせるためには 2 つの原因が必要だから。既に見た通り、アヴィセンナは後続する多の故に第一知性内には多性が含まれねばならないと言います。ところが一からは一しか生じないのだから、第一知性内に複数の構成要素を認めたところで、因果の連鎖が一から多へと展開していくことなどありえない。とすれば、わざわざ第一知性内に複合性を見る理由はない。ラーズィーはこのように考えます。
このようなラーズィーからの批判に対し、トゥースィーは『指示と勧告』「形而上学」第 6 章への注釈中で再批判を加えます。彼によれば、第一知性内に多性は含まれるし、なおかつ「一からは一しか生じない」という原則も保持されるといいます。彼は自身の主張の正当性を示すべく、流出に関わる概念を次のように分類します。
A: 第一原理
B: 第一知性の存在(A から直接流出[muqawwim])[流出レベル 1]
C: 第一知性の本質(B を介して A から流出[muqawwim])[流出レベル 2(CDE は同列)]
D: 第一知性が有する自らに関する知(B から流出[lāzim])
E: 第一知性が有する自らの始原に関する知(A との関係において B から流出[lāzim])
F: 始原を通じた存在必然性(B と C を介して A から流出[lāzim])[流出レベル 3(FG は同列)]
G: それ自体における存在可能性(C を介して B から流出[lāzim])
トゥースィーによれば、第一知性は A 以外の 6つ(B から G まで)の側面からなるといいます(なお BC は第一知性の本質を構成する要素[muqawwim]、DEFG は本質と不可離的ではあるもののそれを構成してはいない要素[lāzim]とされる)。彼はこれら 6 つの側面からなる第一知性が第一原理から最初に流出してくるのだと言います。ただしこの 6 つの側面が全て A(第一原理)を直接の原因として有するわけではありません。A を直接の原因として有するのは構成要素の 1つ、B(第一知性の存在)のみです。ここで彼はラーズィーが同一視していた第一知性と第一作用を別物と捉えなおし、後者は前者を構成する複数の要素のうち、第一原理と一対一対応の因果関係を有する部分だと考えています。既に見た通り、このような議論自体はラーズィーも想定しています。しかしここで注目すべきは、両者のあいだで「一からは一しか生じない」という原則の解釈が異なっているという点です。ラーズィーはこの原則を厳密に捉え、それにより第一原理という全き一から多が生ずる可能性をぬぐい去ろうとしています。ところがトゥースィーはこの原則をいくぶんゆるいかたちで解釈し、原因と結果のあいだを媒介がどのように介在するかを場合分けすることで、介在の仕方が同様でなければ「一から一が生じている」と言える、と考えます。このような解釈により、トゥースィーはラーズィーの批判を斥け、第一知性内に含まれる多性によって後続の多を説明するというアヴィセンナがとった道をふたたび主唱することができるようになったのです。
アヴィセンナ(1037 年没)が流出論に依拠した形而上学体系を構想していたこと、そしてそれに対してガザーリー(1111 年没)が神学者として批判を加えたこと、これら 2 点に関してはこれまでも数々の研究がなされてきました。ところがそれから 1 世紀ほど後に起こった、ラーズィー(1209 年没)によるアヴィセンナ流出論批判と、それに対するトゥースィー(1274 年没)の再批判に関しては、現在に至るまでほとんど研究がなされていません(ただし管見のかぎりでも、ゼロではない)。本論文はアヴィセンナの流出論に対して、ガザーリーとラーズィーがそれぞれどのような批判を加えたか、そしてそれに対してトゥースィーがどのような回答を示したかを論じた先駆的な研究です。ちなみに一口に「流出論」と言っても多様な側面がありますが、本論文で扱われるのは大きく分けて次の 2 点。即ち「どのようにして一から多が生ずるのか」という点と、「一の中に含まれる多なる側面と後続の多とのあいだにはどのような対応関係があるのか(例えば第二知性の流出する原因が第一知性の有する自らの始原に関する知識であるのは何故か)」という点の 2 点です。今回は個人的により重要と思われる前者、なかでも第一知性と第一作用との関係をめぐる議論に焦点をしぼってまとめておきます(なおガザーリーはこのタイプの議論に関して論じていないようなので割愛します)。
アヴィセンナは『治癒』「形而上学」第 9 巻、および『指示と勧告』「形而上学」第 6 章(namaṭ)において、流出論について論じています。彼は次のように考えます。存在必然者ないし第一者はあらゆる側面において一である。ところで絶対的に一である原因からは一なる作用しか生じない。それ故、第一の作用、あるいは存在必然者からの第一の流出は数的に一でなければならない。ちなみに一でなければならないのだから、第一作用は天球ではありえない。何故なら天球は皆、質料と形相(あるいは肉体と魂)から複合されている以上、厳密には一と言えないから。従って第一作用は知性でなければならず、この第一の知性から天球と第二知性が流出するとせねばならない。しかしこれら 2 つの存在者を流出させるためには、第一知性はその内に何らかのかたちで多性もしくは少なくとも二性を含みこんでいなければならない。そうでなければ、「一からは一しか生じない」という原則に従って、第一知性からは二ではなく一しか生じないということになってしまう。彼はこのように考えます。なおアヴィセンナによると、この第一知性の内に存する多性というのは、次の 4 つの側面からなります。
(1)第一知性が自らの原因ないし原理について有する知識
(2)第一知性が自らについて有する知識
(3)第一知性は自らの原因を通じては存在必然的であるということ
(4)第一知性はそれ自体においては存在可能的であるということ
ただしこのような多性を含みこんでいる知性が第一原理から一度に総体として流出してくることはありえません。というのも、複数の要素が一度に流出してくるとしたら、第一原理からの第一知性の流出が「一からは一しか生じない」という原則に抵触してしまうからです。むしろ第一知性の内に含まれる多性を構成する上記の 4 つの部分ないし側面が第一原理から 1 つずつ流出してくるとせねばならない、とアヴィセンナは言います。
これに対して、ラーズィーは『指示と勧告注釈』『東方的探究』『神的諸実相に関する完全なる論考』『指示と勧告の精髄』『古今学説集成』などにおいて反論を行います。彼によれば、そもそも第一知性はアヴィセンナが言うような複数の構成要素から成り立ってなどいないのだといいます。第一知性は全き一である第一原理から最初に生じた第一の作用である。故にもしそれが複数の構成要素から成り立っているとすれば、第一原理はそれら複数の構成要素全てにとっての原因だということになってしまう。ところがこれは「一からは一しか生じない」という原則に抵触する。従って第一作用(=第一知性)は非複合的だとせねばならない。ラーズィーはこのように論じます。また彼は次のようにも言います。第一知性が複数の構成要素から成り立っているとしながら、この原則は保持し、なおかつ矛盾を回避するためには、第一原理は第一知性を構成する諸要素のうちのどれか 1 つにとっての原因だとするしかない。しかしそうしたところで結局一からは一しか生じないわけだから、連鎖は 1 つずつつづいていくことになり、要素 1(=第一原理を直接の原因としてもつ部分)→ 要素 2 →[…]→ 要素 n-1 → 要素 n というぐあいに、最終的に他に対して作用をおよぼさず残るのは要素 n のみいうことになる。これでは第二知性と天球という 2 つの存在者を流出させるには不十分である。何故なら一からは一しか生じない以上、2 つのものを生じさせるためには 2 つの原因が必要だから。既に見た通り、アヴィセンナは後続する多の故に第一知性内には多性が含まれねばならないと言います。ところが一からは一しか生じないのだから、第一知性内に複数の構成要素を認めたところで、因果の連鎖が一から多へと展開していくことなどありえない。とすれば、わざわざ第一知性内に複合性を見る理由はない。ラーズィーはこのように考えます。
このようなラーズィーからの批判に対し、トゥースィーは『指示と勧告』「形而上学」第 6 章への注釈中で再批判を加えます。彼によれば、第一知性内に多性は含まれるし、なおかつ「一からは一しか生じない」という原則も保持されるといいます。彼は自身の主張の正当性を示すべく、流出に関わる概念を次のように分類します。
A: 第一原理
B: 第一知性の存在(A から直接流出[muqawwim])[流出レベル 1]
C: 第一知性の本質(B を介して A から流出[muqawwim])[流出レベル 2(CDE は同列)]
D: 第一知性が有する自らに関する知(B から流出[lāzim])
E: 第一知性が有する自らの始原に関する知(A との関係において B から流出[lāzim])
F: 始原を通じた存在必然性(B と C を介して A から流出[lāzim])[流出レベル 3(FG は同列)]
G: それ自体における存在可能性(C を介して B から流出[lāzim])
トゥースィーによれば、第一知性は A 以外の 6つ(B から G まで)の側面からなるといいます(なお BC は第一知性の本質を構成する要素[muqawwim]、DEFG は本質と不可離的ではあるもののそれを構成してはいない要素[lāzim]とされる)。彼はこれら 6 つの側面からなる第一知性が第一原理から最初に流出してくるのだと言います。ただしこの 6 つの側面が全て A(第一原理)を直接の原因として有するわけではありません。A を直接の原因として有するのは構成要素の 1つ、B(第一知性の存在)のみです。ここで彼はラーズィーが同一視していた第一知性と第一作用を別物と捉えなおし、後者は前者を構成する複数の要素のうち、第一原理と一対一対応の因果関係を有する部分だと考えています。既に見た通り、このような議論自体はラーズィーも想定しています。しかしここで注目すべきは、両者のあいだで「一からは一しか生じない」という原則の解釈が異なっているという点です。ラーズィーはこの原則を厳密に捉え、それにより第一原理という全き一から多が生ずる可能性をぬぐい去ろうとしています。ところがトゥースィーはこの原則をいくぶんゆるいかたちで解釈し、原因と結果のあいだを媒介がどのように介在するかを場合分けすることで、介在の仕方が同様でなければ「一から一が生じている」と言える、と考えます。このような解釈により、トゥースィーはラーズィーの批判を斥け、第一知性内に含まれる多性によって後続の多を説明するというアヴィセンナがとった道をふたたび主唱することができるようになったのです。
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