スフラワルディー(Shaykh al-Ishraq al-Suhrawardi, 1191年没)は『照明哲学Hikmat al-ishraq』において、「存在は本質に対して付加される」という学説に批判を加えています。これは一般にアヴィセンナの存在付帯性説に対する批判であると理解されてきました。しかしこの解釈が事実に即しているかというと、かなり疑わしい部分もあります。何故ならアヴィセンナ自身は「存在は本質に対して付加される」とは、どこにも明言していないからです。本論文はスフラワルディーによる上の批判を当時の思想状況に照らし合わせたうえで、彼の批判の矛先を探るという研究です。そして著者が提示する仮説は、「スフラワルディーの標的はアヴィセンナではなく、むしろファフルッディーン・ラーズィー(Fakhr al-Din al-Razi, 1210年没)が着手しはじめていたアヴィセンナ存在論の体系的再構成だった(ただしラーズィー自身を標的としていたわけでもない)」というもの。これがこの論文の狭義の位置づけです。ただし本論文は広義には古典期のイスラム神学(kalam)における神の属性論とアヴィセンナ以降の本質論・存在論とのつながりを示唆した研究にもなっています。狭義の議論は細かくてあまりついていけなかったため、今回は広義の議論を(かなり自分の関心に引きつけたかたちではありますが)簡単にまとめておきます。
古典期のイスラム神学においては、神の属性(sifat)に関して2つの考えかたがありました。1つはアブルフザイル(Abu l-Hudhayl, 841年没)に淵源する属性論、もう1つはイブン=クッラーブ(Ibn Kullab, 855年没)に淵源する属性論です。例えば神は知あるもの('alim)と言われます。神は「知('ilm)」という属性によって知あるものとなっている――この点に関しては、両者の見解にちがいはありません。ところが「知」と「知あるもの(=神)」との関係になると、両者は見解を異にします。アブルフザイルは知と知あるものとを同一視します(「神は自分自身であるところの知を通じて知あるものとなっている(Allah 'alim bi-'ilm huwa huwa)」)。他方でイブン=クッラーブは知と知あるものとを区別します(「神は自分自身と同一ではない(が別ものでもない)知を通じて知あるものとなっている(Allah 'alim bi-'ilm la huwa [wa-la ghayru-hu] )」)。前者は初期ムウタズィラ派神学が、後者はアシュアリー派神学がそれぞれ拠り所としている学説です。以下では後の思想史に対する影響という観点から、アシュアリー派神学における属性論のみを見ていくことにします。
アシュアリー派属性論には、ある大きな問題が胚胎していました。同派の属性論によると、神の属性はすべて神とともに永遠である(qadim)とされます。ところが上で見たとおり、同派の属性論は神とその属性を区別してもいます。そのためアシュアリー派属性論には、神のみならず神の属性までも「永遠性(qidam)」を有すとする多神論的要素がまぎれこんでしまうことになります。こうした問題を解決するために、同派の神学者たちは2つの道具立てを導入します。1つは「様態(hal)」理論です。様態理論はアシュアリーと同時代のバスラのムウタズィラ派を代表するアブー=ハーシム・ジュッバーイー(Abu Hashim al-Jubba'i, 933年没)が提唱した理論で、アラビア語文法学における様態構文(対格副詞句など)を援用して、神の属性を神が存在する際の副詞的なありかたと捉えるものです。前述のとおり、アシュアリー派属性論は神そのものとともにその属性をも永遠なものとする多神論的要素をはらんでいました。しかしこの様態理論の導入(バーキッラーニー[Qadi Abu Bakr al-Baqillani, 1013年没]・ジュワイニー[Imam al-Haramayn al-Juwayni, 1085年没])によって、属性は様態という現実には存在しない(ただし全く存在しないわけではない)ものと見なされるようになります。これにより、神とは異なる「属性」という存在者が神とともに永遠に存在するという構図は斥けられることになるわけです。
こうした様態理論とともにアシュアリー派神学に導入されたのが、アヴィセンナに淵源する存在必然者(wajib al-wujud)としての神観です。古典期のイスラム神学において、永遠(qadim)-有始的(muhdath)という区別は神の存在証明においても用いられる重要な区別でした。あらゆる有始的なものには、それらに対して存在を付与する「創始者(muhdith / originator)」が必要とされる。しかし無限遡行は不可能であるため、「有始的なもの」-「創始者」の連鎖はどこかで断ち切られねばならない。連鎖が断ち切られるためには、「有始的でない創始者」が存在する必要がある。ところでこの世界にあるものは皆、永遠か有始的かのいずれかである。そのためこの「有始的でない創始者」は永遠なるものである。この永遠なるものこそ神である。古典期の神学では、このようにして神の存在が証明されていました。ところが既に見たとおり、アシュアリー派属性論においては、神だけでなくその属性までもが永遠なるものとされていました。従ってこうした属性論にのっとると、永遠ではあるが創始者ではないものの存在を認めることになり、従来の永遠-有始的の区別に基づいた神の存在証明が機能しなくなってしまいます。このような背景から、アヴィセンナ以降のアシュアリー派神学者たちは存在必然者としての神というアヴィセンナ的神観を導入し、神のことを「必然的」という語で叙述するようになっていきます(「神は必然的に存在する」「神は必然的に知あるものである」など)。
以上2つの道具立てにより、アシュアリー派神学は神とその属性との関係について、問題なく論じることができるようになった、かに見えました。ところがここで新たな問題が生じます。それは神を「存在必然者(=必然的に存在するもの)」と叙述することで意識されるようになった、「存在」という属性と神本体(dhat)との関係です。アヴィセンナ的神観の導入に先んじて、既に様態理論はアシュアリー派属性論に取り入れられていました。そのため、これに従って考えると、「存在」という属性もまた様態の1つということになります。で、ここから先はいまひとつ議論についていけなかったため、完全な思弁ですが、おそらくWisnovsky が言いたいのは次のようなことだと思われます。「ラーズィーは『可能的なものどもだけでなく神においても存在は本質に対して付加される』と考えていた。これは神とその属性とを同一視せずに区別するアシュアリー派的属性論と親和的な考えかたである」。
ただしこうしたアシュアリー派属性論の正当性を担保する様態理論自体は、排中律からの逸脱を根拠に、後の同派においては概ね否定されていたのだそうです。ラーズィー自身も存在の実在性を認めているため、様態理論は否定していたのかもしれません。結局、初期イスラム神学における属性論とアヴィセンナ以降の本質論・存在論とのつながりや、存在と様態の関係など、以前からよくわからなかった問題は、私の読解力不足のせいかもしれませんが、わからずじまいでした。とはいえ、神の本体と存在との関係は存在一性論においても徹底的に考察されるため、それがアシュアリー派属性論において問題視されていく流れが確認できただけでも、勉強になる1本でした。
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