さて、11月に行った発表は以下のような構成でした。
I. 序論:絶対存在とプラトン的形象、そして『プラトン的知性的諸形象』
II. 形象をめぐる5つの見解と「種」としての絶対存在
III. 本質と普遍者:学説1における種と形象の関係
1. 普遍者と述語付け:批判対象の論理
2. 絶対と普遍:種と形象の実在的同一
IV. 結語
内容については、冒頭のリンク先にある要旨で示してあるため、ここで改めて書くことはしませんが、この発表にはいろいろな課題点が含まれています。もちろんあげつらえばキリがないのですが、なかでももっとも厄介なのが第II章で取り上げたファナーリーの以下のテクストの解釈です。
思惟対象たる諸形象が全ての普遍的何性どもに対して定立されるなら、それは我々の示唆したところである。他方でそれらが種どもに対してのみ定立されるなら、それはプラトン的〔諸形象〕であるが、そのような場合は絶対存在が限定存在どもにとっての種であり得るということになる。
المثل المعقولة إن ثبتت لجميع الماهيات الكلية فذلك ما أشرنا إليه وإن ثبتت للأنواع فقط وهي الأفلاطونية فيجوز أن يكون الوجود المطلق نوعاً للوجودات المقيدة.
Fanari, Misbah al-uns, ed. Khwajawi, p. 430, par. 4/504.
このテクストは以前からこのブログでも何度となく取り上げて、その度にあーだこーだ書いてきた、そしてその度にやっぱり自信がなくなってきた、そういった代物です。何故ファナーリーはこんなもって回った言い方をしているのか(これについては以前書いたような理由が考えられそうではありますが)。「全ての普遍的何性」と種は具体的にどう違うのか。また「プラトン的形象を種のみに対して定立する」説と「プラトン的形象を全ての普遍的何性に対して定立する」説とがそれぞれどういった帰結を要請するのか。更には「定立する(或いは肯定する?)」とはどういう意味なのか(「種ないし全ての普遍的何性がプラトン的形象をもつとすること」なのか、それとも「種ないし全ての普遍的何性はプラトン的形象に対して肯定的に述語付けられるということ」なのか)。パッと思いつくだけでも、このありさまです。
また同所での議論からは、彼が知性的形象とプラトン的形象を別のものとして捉えているような印象も受けます。『プラトン的知性的諸形象』とファナーリーの議論の間にこうしたズレがあっても議論として成り立つのか、それともズレがあったら即刻成り立たなくなるのかなど、現状では問題自体を具体的に認識することができていないのですが、問題となるであろうということは予測されます。『親密の灯』中の他の箇所で知性的なもの・思惟的なものについてファナーリーがどう言及しているか確認してみるべきなのかもしれません。
本当はこのブログでも「ファナーリーの形象論」と銘打っているわけですし、ファナーリーの議論を主題的に取り上げたいのですが、こうした錯綜具合を考えると、二の足を踏んでしまいます。また上記のような疑問点が全て解決されたとして、第III章で取り上げたような議論をファナーリーは(たしか)行っていないという問題もあります。冒頭のリンク先にある発表要旨からもわかる通り、第III章の議論は恐らく形象論を援用して絶対存在の実在を語る上で要となるようなものです。それが論じられていないというのは…。ちなみに11月の発表では、それが論じられていない理由を結論の1つとして書いたのですが、はてさてどうしたものでしょう。しかしいい加減、分をわきまえて、現状でできる限りのものをまとめたいと思います。
Keine Kommentare:
Kommentar veröffentlichen