Samstag, 31. August 2013

中西・森本・黒岩「17・18世紀交替期の中国古行派イスラーム」

中西竜也・森本一夫・黒岩高「17・18世紀交替期の中国古行派イスラーム:開封・朱仙鎮のアラビア語碑文の検討から」『東洋文化研究所紀要』162 (2012), 120 (223)-55 (288).

近年急速に関心が高まっている中国イスラムに関する、日本でのおそらく最新論文(原文はこちらのページからダウンロード可能)。しかも今回取りあげるのは、中国伊斯蘭思想研究会を中心に検討されている劉智(1710年頃没)思想を対象とした思想史研究ではなく、同時期のとある碑文を対象とした宗教社会史研究です。研究が立ち遅れている中国イスラム研究のなかでも、清真寺(=中国ムスリム共同体におけるモスク)を核として形成された共同体に関する研究は、15 世紀半ばから16 世紀のいわゆる「回民形成期」以降かなり後代に至るまで、一貫して乏しい状況にあるのだそうです。そのもっとも大きな理由の1 つが、絶対的な史料不足。前近代の中国ムスリムたちには、自らの歴史を書き残す習慣がほとんどなく、ウラマー列伝のたぐいも数えるほどしか残されていない。かといって、一般的な地方誌のたぐいに残されている中国ムスリムに関する断片的な情報からでは、当地のムスリム共同体の状況を再構成することは困難である。こうした状況から研究者たちの関心を引いてきたのが、各地の清真寺に残されている碑文なのだとか。ところが中国ムスリムに関する研究が比較的まだ盛んな中国国内においても、主に検討されるのは漢語碑文のみであり、アラビア語・ペルシア語碑文については、ほとんど検討されていないのが現状なのだといいます。

そこで今回著者らは、以後の中国ムスリム史において重要な論争の1 つとなる「古行・新行論争」に焦点を当てます。古行・新行論争とは、17 世紀に一部の学者がイスラムの教条改革を唱えたことをきっかけに、それに反発する保守的な人々(=古行派)とそうした改革的な人々(=新行派)とのあいだで勃発した教義論争のことを指します。改革運動の引き金となった学者は、常志美(1670 年没)と舎起霊(1710 年没)という2 人の学者。彼らが改革教条を唱えて以降、論争は深刻な対立(ときには流血の惨事をも含む)を生み、それは民国時代に至ってもなお止まず、むしろ激化の一途をたどったといいます。今回著者らが検討するのは、その古行・新行論争の発生時期とほぼ同時期に建立された2 基の石碑(1 つは河南省開封市の「北大寺」に、もう1 方は同市郊外に位置する朱仙鎮の「清真北寺」に帰属)に刻まれたアラビア語碑文です(あくまで「石碑」の成立時期が同時期なだけであって、石碑に刻まれた「碑文」まで同時期に成立したという保証はない)。これらの碑文(以下「開封・朱仙鎮碑文」)は、いずれもほぼ同内容、すなわち新行派に対する古行派信仰箇条の正統性主張を意図して作成されたものと見られます

さらにこの開封・朱仙鎮碑文は、まず古行派の儀礼に関する信仰箇条13 点をまとめて列挙し、その後にその典拠となりうるアラビア語・ペルシア語文献27 点を列挙するという構成をとっています。従って開封・朱仙鎮碑文に現れた古行派信仰箇条の内容を(他の史料からすでに明らかとなっている後代の古行派信仰箇条とも比較しつつ)分析し、そのうえで、その典拠として挙げられている文献27 点を可能なかぎり同定することで、古行・新行派論争の最初期段階において、古行派がどのような史料を拠り所としながら、新行派に対して自らの教条を示そうとしていたかが明らかとなるわけです。ちなみに前近代の中国ムスリムが用いたアラビア語・ペルシア語文献については、これまでにもいくつかの研究が発表されているそうですが、イスラム法学、とりわけ宗教儀礼に関するものばかりが27 点もの規模で一挙に示された例はないとのこと。ここからこれらの典拠文献の同定を詳しく行うことで、イスラム世界の辺境にあった中国ムスリムが中核地域の知をどれほど共有し、またどのような知を権威として前提していたかを把握することにもつながるのだ、と著者らは言います。なるほど。

ただし、その13 の信仰箇条と27 の典拠文献については、リンク先の論文本体内ですでに、簡潔にまとめられているため、ここで私がそれを繰り返す必要はないでしょう。ここでは私自身が読んで重要と感じた点のみを列挙しておきます。

[13 の信仰箇条について]
1) 開封・朱仙鎮碑文で列挙されている13 の信仰箇条は、後代の他の史料から知られている古行の信仰箇条と、若干の例外をのぞき、ほとんど重なる。
2) 古行派と新行派の教義上の対立点を13 点にまとめるというスタイルは、後代に作られた他の碑文内でも確認できる。開封・朱仙鎮碑文はそうしたスタイルをとる、現在確認されている最古の例である。
3) 開封・朱仙鎮碑文内では、古行派の教条は「マー・ターイ・バーバー・フークワーンウィー(Mātay Bābā Fūqūwānwī)」なる人物に帰されているが、これは著名なムスリム学者・馬明龍(1679 年没)を指す。古行派と彼との関係性については、これまで全く指摘されていないが、「マー・タイ・バーバー」は「馬太爸爸」の音写で、「フークワーンウィー」は「湖広の」を意味するニスバ(彼は武昌出身だが、中国ムスリムは中国の地名をアラビア文字で表記する際、しばしば元代の行政区分を音写するため、ここでは元代に湖広行省に属した武昌が湖広と表記されているものと考えられる)。
4) 開封・朱仙鎮碑文はアラビア語碑文と漢語碑文(アラビア語の内容要約)とからなっているが、前者については開封碑文と朱仙鎮碑文とのあいだで内容がほとんど同一なのに対し、後者については両碑文のあいだで若干の相違が見受けられる。具体的には、開封碑文の漢語部分には古行派の特定教条に対する新行派からの批判に答えようとして付加されたと見られる但し書きがあるが、アラビア語本文中にはその但し書きに対応する一節が見られない。ここから実際に当時の信徒に読まれることを意図して書かれていたのは後者だけで、前者については聖典の言語であるという観点から碑文の権威づけのために添えられていただけと推察される。

[27 の典拠文献について]
1) 開封・朱仙鎮碑文が挙げる27 の典拠文献は、他の史料を通じて明らかにされてきた、中国ムスリムにとっての権威著作とかなりの程度重なっている。
2) 27 の典拠文献のうち、多くは中央アジアや南アジアにおいて、あるいは同地の出身者によって著されたハナフィー派の法学文献であり、同時に中央アジアや南アジアにおいても権威が確立していたと見られる文献や、ペルシア語文献も多く含まれている。このことは、中国ムスリムがハナフィー派法学を奉じていること、中央アジアや南アジアにおいても同法学派が優勢なこと、そして両地域同様、中国イスラム圏もまたペルシア語文化圏を構成する地域と考えられることに鑑みれば、当然の帰結と言える。
3) 27 の典拠文献中、3 点はハディース集。これは中国ムスリムたちが法学書などによって整理された権威ある学説をただ踏襲するだけでなく、自らも法源に当たって解釈を行っていた可能性を示している。
4) 27 の典拠文献には、おおむね上述の13 の信仰箇条を正当化する一節が含まれているとはいえ、同時にそれらの中には問題の信仰箇条の正当性を否定するような一節も含まれている。事実、これらの文献は新行派によっても自説を正当化するために利用されていたりもする。ここから開封・朱仙鎮碑文は典拠文献中に散見される自説に有利な記述のみを、つまみ食い的に利用しているということがわかる。

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