2) Aydın, I. H. & T. Görgün, ''Molla Fenârî'', in: K. Güran (ed.), Türkiye diyanet vakfı İslâm ansiklopedisi, c. 30, İstanbul: Türkiye diyanet vakfı, 2005, 245-48.
ファナーリーの生涯について知るうえで、おそらく基本となる2つの文献です。いずれもトルコ語だという理由でこれまで忌避してきたのですが、博論執筆上不可避の文献であるため、遅まきながら意を決して読みました。以下ごく簡単にその内容をまとめておきます。
シャムスッディーン・ムハンマド・イブン=ハムザ・ファナーリー(Shams al-Din Muhammad b. Hamza al-Fanari, 1431年没)は、751年サファル月 / 1350年4月にトランスオクシアナにあるファナールという村で生まれた。父ハムザ・イブン=ムハンマド(Hamza b. Muhammad, *年没)のもとで初等教育を終えたあとはアナトリアにやってきて、イズニクのオルハーニーイェ・マドラサでアラーウッディーン・アスワド('Ala' al-Din al-Aswad, 1393年没)、およびタージュッディーン・クルディー(Taj al-Din al-Kurdi, 1397年没)に師事した。しかしアスワドとのあいだに起こった学問上の論争がきっかけとなり、彼はイズニクを出てアマスィヤへと向かうことになる。アマスィヤではアヴィセンナ哲学批判者として知られるファフルッディーン・ラーズィー(Fakhr al-Din al-Razi, 1209年没)の孫弟子ジャマールッディーン・アクサラーイー(Jamal al-Din al-Aksara'i, 1388年没)に師事し、778 / 1376年には彼からイジャーザを受けとった。その後はシャリーフ・ジュルジャーニー(al-Sayyid al-Sharif al-Jurjani, 1413年没)とともにカイロへ向かい、4年ほどの滞在期間中、アクマルッディーン・バーバルティー(Akmal al-Din al-Babarti, 1384年没)をはじめとするさまざまな学者に師事して聖法的諸学を学んだ。バーバルティーからもイジャーザを受けとったあとはブルサに戻り 、795 / 1393年にはバヤズィト1世(1403年没)からマナストゥル・マドラサの教授職とブルサのカーディー職を同時に委任された。彼はこの職務を10年ほど全うしたという。
だが1402年のアンカラの戦いをきっかけに彼はブルサをはなれ、カラマン侯国に身を寄せる。同国君主であるメフメト・ベイ(1424年没)はファナーリーを厚遇し、ファナーリーもマドラサで講義をしつつ12年ほどの期間をこの地で過ごした。その後オスマン朝がカラマン侯国領内を侵略していく中で、時の同朝スルタン・メフメト1世は1414年にファナーリーをブルサへと連れ帰る。ブルサに戻ったファナーリーはふたたびマドラサの教授職につき、翌年には再度ブルサのカーディー職にも任命される。しかしカラマン侯国とのつながり、および折に触れて起こっていたシェイフ・ベドレッティン(Shaykh Badr al-Din, 1420年没)による反乱との思想的つながり(=存在一性論)を理由に、同朝内部でファナーリーに対して強硬な態度をとる者たちが現れてくる。こうしてファナーリーは1418年に70歳ではじめてのメッカ巡礼へと旅立つ。翌年巡礼をおえたファナーリーは、マムルーク朝スルタン・マリク・ムアイヤド・シャイフ(*年没)に招待され、カイロに一定期間滞在した 。彼はムアイヤドの要請でmevlüd〔?〕の式典に参加し、そこで当時のカイロの優秀な学者らと学問的議論を交わし、また講義を行った。823 / 1420年にエジプトを発ったファナーリーはイェルサレムに立ち寄ったあと、ブルサに戻り、三度カーディー職につく。そして828 / 1425年にはムラト2世によって初代シャイフルイスラーム(=イスタンブルのムフティー職)にも任命された。その後1429年には2度目のメッカ巡礼に旅立ち、翌年巡礼をおえたあとはふたたびカイロに立ち寄り、同地の学者らと学問的な会合を複数回行った。そしてエジプトから戻りほどなくして、834年ラジャブ月1日 / 1431年3月15日、ブルサで没した。
これ以外にも特にAşkar (1993) のほうでは、ファナーリーによる制度史上の寄与(マドラサ・システムの改変など)をめぐってもページが割かれたりしていますが、いずれにしても以上がファナーリーの生涯の大まかな流れになります。ここで注意すべきは、Aşkar (1993) とAydın & Görgün (2005) のいずれもが上記のイジャーザの系譜から、ファナーリーのことを「ラーズィー思想がオスマン朝に根付くうえで重要な役割を担った人物」と評している点です。またAşkar (1993) では、ファナーリーが学んだオルハーン・マドラサの初代教授が『叡智の台座』注釈者として知られるダーウード・カイサリー(Dawud Qaysari, 1350年没)だったことを根拠に、「ファナーリーの存在一性論はカイサリーからの影響を受けている」とも言われています。
ラーズィーに関しては膨大な著作が残っているため何とも言えませんが、これまでファナーリーの著作を多少なりとも読んできたかぎりでは、彼がとりたててラーズィーから大きな影響を受けていたとまでは言えないような気がします。もちろん存在のことを種と言ったり、存在そのものの実在性を主張するといったいくつかの重要な点においては、ラーズィーとのつながりは垣間見えます。しかし例えば逆に彼を批判したトゥースィー(Nasir al-Din al-Tusi, 1274年没)の著作からもファナーリーは引用をしており、その意味でラーズィーからの影響だけをとりあげて強調するのは恣意的にすぎるという印象を受けます。またカイサリーに関しても、ファナーリーは少なくとも『親密の灯』中では(私が確認できているかぎり)一度も引用しておらず、むしろファルガーニー(Sa'd al-Din al-Farghani, 1296年没)やジャンディー(Mu'ayyad al-Din al-Jandi, 1300年頃没)といった彼以前の存在一性論者から多く引用しています。ラーズィー思想とカイサリー思想という2つの軸をもとに、ファナーリーを思想史上に位置づけるというのは、一見きれいなやり口に見えますが、それが事実と一致しているかというと、かなり疑わしいように思います。
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