Mittwoch, 31. August 2011

アーミディー研5

遅くなりましたが、先週末に第5回アーミディー研を行いました。

1. Ihkam: p. 21, line 2 まで。前回の終盤で読んだあたりから読み直したところ、今回はほとんど進みませんでした。今回議論になったのは、p. 20, lines 14-15 の内容です。前回のポストでも示した通り、直前部のp. 20, lines 4-5 でアーミディーは、「法(fiqh)」の定義を示しています。それによると、法とは「実定法の根拠となるような聖法の諸規定(al-ahkam al-shar'iya al-furu'iya)全体から思弁と推論を通じて獲得される知」のみをいうのだそうです。今回よくわからなかったのは、このうちの「実定法の根拠となる(furu'iya)」の部分。何故ここでわざわざ「実定法の根拠となる」という限定が付されねばならなかったのか。アーミディーは次のように言っています。

また我々は「実定法の根拠となる」と言ったが、これは種々のdalil がhujja たることに関する学を避けるため〔つまり指さないようにするため〕である。何故ならそのようなものは法ではないからである。とはいえ、学の対象は聖法的思弁的な判断なのだが。何故ならそれは実定法的でないからである。

وقولنا الفروعية إحتراز عن العلم بكون أنواع الأدلة حججاً فإنه ليس فقهاً في العرف الأصولي وإن كان المعلوم حكماً شرعياً نظرياً لكونه غير فروعي.

3つの下線部がここでよくわからない箇所です。文脈的に考えて、1つ目の「種々のdalil がhujja たることに関する学」とは恐らく法源学を指すはずです、わからないですが。次の「そのようなもの」もそれを受けて、同様に法源学を指すのではないかと思われます、確信はありませんが。それでは3つ目の「学の対象」とは何を指すのでしょうか。可能性としては、法源学の対象と法学(fiqh)の対象の2つが考えられるでしょうし、直前に置かれた「とはいえ(wa-in)」という表現も1つのヒントになりそうですが、やはりこれは結局「聖法的思弁的な判断(hukm shar'i nazari)」を対象とする学がいずれであるのか明らかにならない限り、決しえないでしょう。差し当たっては判断を留保して、先を読んでいくしかないと思います。

2. Weiss: p. 54, line 19 まで。前回までで神学的要請のうちの方法論的な部分に関する解説が終わったため、今回からは神学の実質的な内容に関する説明です。Weiss によると、アーミディーの神学思想を考える上で重要な手掛かりとなるのは次の2点。i) 神の啓示に関する議論が厳密な意味で神学に関わるような議論(神の存在や属性などに関する議論)より後ろに置かれているという点。ii) 厳密な意味での神学に関わる議論が「知の対象(ma'lum)」という表題の下に論じられているという点。i) からは、アーミディーが神の存在や属性などに関して啓示とは独立に(=自然神学的に)論ずることができると考えていた、ということがわかるそうです。つまり彼においては、厳密な意味での神学に関する議論が形而上学に、或いは神に関する探究が存在(ないし存在者)に関する探究に、根ざしているわけです。但しアーミディーを含むムスリムの思想家たちにおいては、形而上学はそれ自体で独立した学とはならず、あくまで神学というより大きな学の中に、さまざまな非形而上学的トピックとともに包含されていたのだそうで、換言するならば、ムスリムにとっては神学こそが第一の学だった、但しその神学自体の内部においては、形而上学こそが第一の関心事だったのだが、ということになるようです。次にii) に関してですが、たしかにアーミディーは存在必然者(=神)を「知の対象」に含めています。しかしこれはあらゆる人間が現実に神についての知を有しているという意味ではないのだそうです。神に関する知は、必然知でなく獲得知。但しそれが啓示に全く依拠せず、完全に推論的な思弁によって獲得される限りにおいては、神という概念は人間の思考中に潜在すると見なされているとも言えよう、とWeiss は論じています。このあいまいな物言いがWeiss によるものなのかアーミディー自身のものなのかはまだわかりませんが、「人間の思考中に潜在すると見なされている」というフレーズからは公理知とのつながりが連想されます(cf. アーミディー研3)。つまり神に関する知は獲得知でありながら、一種の公理知とも考えられるということなんでしょうか、よくわかりませんが。いずれにしてもアーミディーは3つの必然知のうちの経験知を出発点として、神に関する知の獲得へと向かうのだそう。その際、彼が依拠するのが先行するムスリムの思想家たちが好んで用いた「可能性からの証明(the argument from contingency)」です。この証明はあまりにも有名なのでここで詳しくは紹介しませんが、興味深かったのは彼が哲学者の因果論と神学者の原子論、いずれを採っても神の存在は証明される、という構成で議論を展開しているらしい点。このあたりは、Davidson (1987) などを見てからでないと何とも言えませんが、何となくアーミディーの思想史的な位置付けを象徴しているようにも見えます。以上は神の存在に関する議論ですが、これに引き続いて今度は神の属性に関する議論が解説されていきます。Weiss も言っているように、神学者たちは神の存在に関しては基本的に合意していますが、こと神の属性に議論がおよぶと見解の相違が顕著になってきます。今回も一応はこの点に立ち入りはしたものの、私の予習が甘かったせいで、あまりよくわからずじまいでした。次回は属性論のあたまから改めて読み直していこうと思います。

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