Montag, 5. September 2011

アーミディー研6

第6回アーミディー研を行いました。

1. Ihkam: p. 22, line 4 まで。今回は難しくて意味のとれない箇所がいくつもありました。素人読みのため、どうしようもないのですが、とりあえず以下にそれらを列挙しておきます。

[T1: p. 21, lines 3-5]
法源〔法源学(?)〕とは、法(fiqh)のdalil どもや、それらが聖法の諸規定を指し示す際の〔その指し示しの〕様相、ならびにそれらを通じて推論が遂行される〔推論規則(?)〕(al-mustadall bi-ha)の様態を総体的に〔扱うもの〕であって、その細目を、〔即ち〕個々の特定の諸問題において使用される特殊な〔それら〕を〔扱うもの〕ではない。

فأصول الفقه هي أدلة الفقه وجهات دلالاتها على الأحكام الشرعية وكيفية حال المستدل بها من جهة الجملة لا من جهة التفصيل بخلاف الخاصة المستعملة في آحاد المسائل الخاصة.

全体を通していまひとつよくわからないが、特に下線部が意味不明。

[T2: p. 21, lines 16-18]
〔何故法源学が〕思弁神学〔から引き出されるの〕かと言えば、それは諸規定のdalil どもが諸規定の意味をshar' として伝達する(?)ということに関する知が、至高なる神と彼の諸属性、彼の使徒の――もたらしたものにおける――正しさ、そしてその他思弁神学以外〔の学〕では知られえないようなものについての認識に依存しているためである。

أما علم الكلام فلتوقف العلم بكون أدلة الأحكام مفيدة لها شرعاً على معرفة الله تعالى وصفاته وصدق رسوله فيما جاء به وغير ذلك مما لا يعرف في غير علم الكلام.

下線部がよくわからない。特にshar'an の意味が不明。

[T3: p. 21, ult-p. 22, line 4]
〔何故法源学が〕アラビア語学〔から引き出されるの〕かと言えば、それはコーランやスンナ、そして共同体内のカリフ選挙人(ahl al-hall wa-al-'aqd)の発言などといった、言語で表されたdalil どもに関する認識が、それらのmawdu' どもに対して言語的に(?: lughatan)、〔即ち(?)〕haqiqa やmajaz 、'umum 、khusus 、itlaq 、taqyid 、hadhf 、idmar 、mantuq 、mafhum 、iqtida' 、ishara 、tanbih 、ima' 、そしてそしてその他アラビア語学以外〔の学〕では知られえないようなものの観点から、依存しているためである。

وأما علم العربية فلتوقف معرفة دلالات الأدلة اللفظية من الكتاب والسنة وأقوال أهل الحل والعقد من الأمة على معرفة موضوعاتها لغة من جهة الحقيقة والمجاز والعموم والخصوص والإطلاق والتقييد والحذف والإضمار والمنطوق والمفهوم والإقتضاء والإشارة والتنبيه والإيماء وغيره مما لا يعرف في غير علم العربية.

恐らく文法用語と思われる単語の意味を確認する必要有。また下線部のmawdu'atu-ha が意味不明。ha を直前にあるdalalat (指示作用)ととり、mawdu' を「基体」の意味で解して、これを「指示作用の基体」→「指示者」(=al-adilla al-lafziya)と考えることもできそうだが、解釈として恣意的にすぎる気もする。

2. Weiss: p. 57, line 27 まで。前回は神の存在まで解説が終わっため、今回は神の属性から。正統派(とアーミディーが呼ぶ)神学者たちは、神の本体(dhat)に7つの自体的属性(al-sifat al-dhatiya / al-nafsiya)を認めます。「知('ilm)」「意志(irada)」「力(qudra)」「生(hayat)」「聴力(sam')」「視力(basar)」「言葉(kalam)」の7つです。これらの属性を神の本体に対して定立するため、正統派神学者は「定立の徒(ahl al-ithbat)」とも呼ばれるのだそう。他方でこれらの属性を本体から否定する神学者もいました。彼らは「否定の徒(ahl al-ta'til)」と呼ばれ、この種の人々はアーミディーによれば、哲学者やシーア派、ムウタズィラ学派によって構成されていたそうです。もちろん彼はこの否定の徒に対して批判を行います。しかし気をつけなければならないのは、彼が批判するのは否定の徒だけではないという点です。たしかにアーミディーは肯定の徒の議論の結論部を支持しています。しかし彼が支持するのは、その結論部のみ。そこに至るまでの方法論は、誤りであると指弾しています。彼らは上記の自体的諸属性を定立する際に、現在から非在を類推します(=qiyas al-gha'ib 'ala al-shahid)。つまり彼らは人間(=現在)が有する属性をヒントに、神(=非在)がどのような属性を有すか類推しているわけです。しかしアーミディーによれば、これは虚偽です。何故なら人間と神は全く異なる本性を有すのであって、これは人間に関する判断をそのまま馬に対して適用するようなものだからです。そのためアーミディーは神の有する属性の実相を、人間との類比に基づいてではなく直接、三段論法に基づいて、1つずつ確認していくことになります。

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