Dienstag, 16. August 2011

ファナーリーの学問論2

ファナーリーは『親密の灯』緒言第4章(39-54, 2/74-2/119)で、学問一般が備える構造について論じています。彼が依拠するのは、アリストテレス『分析論後書』に端を発する、或いはより直接的にはイブン=スィーナーの恐らく『指示と勧告の書al-Isharat wa-al-tanbihat』論理学を(或いはまたもしかすると、トゥースィーによるその注釈を)ソースとする学問論です。これによると、あらゆる学は皆、固有の主題(mawdu')と原理(mabadi')、問題(masa'il)を有すとされます。主題とは当該の学における探究がそれをめぐってなされるようなもの、原理とはその学において探究を行う際に証明なしで受け入れるべきもの、そして問題とはその学において実際に探究され、その解決が目指されるようなものを指します。なお主題自体はその学においては探究されえず、ただその存在が措定されるだけ。問題はその主題が自体的に有する付帯性(al-'awarid al-dhatiya)だと考えられるようです。

ファナーリー自身も基本的にはこのような逍遥学派的学問論を継承しているのですが、ここで気になるのは彼がところどころでこうした学問論に対して修正を加えているという点です。特に目を引くのが主題の規定に対する修正です。果たしてこの修正が存在一性論の学問論的基礎付け(などということをファナーリーが実際に意図していたとして)に対してどのように寄与するのかは定かではありませんが、個人的なメモとして以下に主だったテクストのみを引用しておこうと思います(但し意味内容についてはまだほとんど把握できていない状態なので、あくまで暫定的な翻訳でしかありません)。

[T1: Misbah, 39-40, 2/74, 3-5]
あらゆる学知の主題は、そこにおいて次〔の3つ〕の事柄が探究されるところのものである。即ち(1)当該の学の主題の実相(haqiqatu-hu [= mawdu' al-'ilm])。これは至高なる神の知の中でその当の学知の主題がどのように個体化しているのか、その個体化のあり方のことである。次に(2)当該の学の主題が有する自体的諸様態(ahwalu-hu [= do.] al-dhatiya)。これは即ちその当の学知の主題の実相が指定する、その当の学知の主題の実相の後に続く諸実相のことである。ちなみに〔ここで〕先に来る〔実相〕は本体(dhat)と呼ばれ、後に来る〔諸実相〕は本体的〔自体的(なもの?)〕(dhati)と呼ばれる。そして〔最後に〕(3)それら〔自体的諸様態〕の有する自体的付帯性ども('awaridu-ha [= ahwalu-hu al-dhatiya] al-dhatiya)。これは即ちそれら〔自体的諸様態〕に――諸々の様態・階梯を介してではあるが――付随する諸実相のことである。

(※下線部の「それら〔自体的諸様態〕」は、文法的には「それ〔当該の学の主題の実相〕」と修正される可能性もある)

[T2: Misbah, 40, 2/75]
〔思弁の徒の議論は次の3つの根拠の故に誤っている。〕第1〔の根拠〕は次の通りである。彼らは〔任意の学において〕探究される対象を諸様態のみとしている。彼らは、あらゆる学知の主題の実相は他の学知において定立されざるをえないと主張する。何故なら複合的なhaliyaは単純な〔haliya〕から派生したものだからである。しかし或る学知の諸問題の定立は、その当の学知の主題の実相の定立に依存している。従ってもし仮にその学知が自らの諸問題から恩恵を蒙るとしたら、循環が〔帰結〕してしまう。だからこそ我々は諸問題をその当の学の諸様態のみに特定することを正しいとは認めないし、ましてそれより高次でない学についてはなおさら認められないのである〔?〕。

[T3: Misbah, 40-41, 2/76]
第2〔の根拠〕は次の通りである。彼らは「自体的」〔という表現〕を「媒介がないこと('adam al-wasita)」〔の意〕だと説明している。ところでこの〔「媒介がない」という表現〕は以下のいずれか〔の意味でしかありえないが、そのいずれの意味〕においても、これは正しくない。(a)判断(tasdiq)において媒介がない〔という意味だと説明されている(つまり無中項の判断が想定されている)のだとした〕場合。何故〔判断において媒介がないときに、それを「自体的」と形容できない〕かと言えば、そのようなもの〔媒介のない判断〕は生得的なもの(fitri)であって、学知において探求されるものには含まれないからである。(b)定立(thubut)において媒介がない〔という意味だと説明されているのだとした〕場合。何故〔定立において媒介がないときに、それを「自体的」と形容できない〕かと言えば、多数の特性を一である限りでの一なる実相に対して〔媒介なしで〕定立することは、後述されるであろう理由の故に、不合理だからである。従ってそれらと付随物どもとの間には〔つまり任意の学の主題とその当の学の主題が有する自体的諸様態との間、およびその当の学の主題が有する自体的諸様態や無媒介的判断における主語、無媒介的定立における基体と、それら諸様態の自体的付帯性ども、無媒介的判断における述語、無媒介的に定立されるものとの間には〕、諸々の〈関係〉が介在することになり、そういった諸〈関係〉という観点から、両者の間には或るつながりが成立せざるをえない。故に定立において媒介〔を想定〕しないような選択肢は皆無なのである。

以上のことから、大雑把に次の2点は明らかになったと言えるでしょう。

1) ファナーリーは任意の学において探究される対象(=諸問題)を、当該の学における主題が有する自体的諸様態のみに限定しない。
2) 「自体的」なものであっても、それとその基体との間には〈関係〉が介在する、とファナーリーは考える。

ここでも〈関係〉が出てくるというのが、何ともというかんじです。

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