Sonntag, 21. August 2011

ファナーリーの学問論3

ファナーリーは『親密の灯』緒言第4章冒頭部で学問一般が備える構造について論じていますが、さらにその直後から、今度は自らの考える実相学('ilm al-haqa'iq)/ 真理探究の学('ilm al-tahqiq)/ 神的聖法的学(al-'ilm al-ilahi al-shar'i)が有する構造について大まかに言及していきます。そもそも『親密の灯』という著作は大きく分けて、「緒言(al-fatiha)」「総括的序論(al-tamhid al-jumali)」「普遍的神秘の開示章(bab kashf al-sirr al-kulli)」という3つの部分からなりたっています。以下で見るように、この学問論はこれらのうち少なくとも緒言と総括的序論(全体の約半分ほどの分量)までの論述を支えており、その意味で同書について分析を行う上で学問論は避けて通れないテーマだと言えます。今回はまだ意味がよく理解できていない部分もかなりありますが、試みにその全体像を示しておこうと思います(以下、各項のタイトルは必ずしも直訳ではありません)。

実相学
I. 主題:被造物との関係において捉えられた神の存在
II. 原理(=諸措定[awda']/ 措定されたものども[mawdu'at])
  a. 当該の学の概念(=問題の述語となるもの[mahmulat al-masa'il]):[?]
   1) 当該の学もしくは技芸の主題に関する諸定義
   2) 当該の学から派生したものども、即ちその学の諸性質や諸結果
   3) 当該の学のさまざまな区分や個別的なもの〔?〕
   4) 当該の学の諸部分〔分科学〕(分科がある場合)
   5) 当該の学〔の主題(?)〕がそれらの故に定立されるところの付帯性
  b. 判断(=前提[muqaddima]):完全人間が有する開示の領域で本体がもつ神名
   1) 確実なもの
   2) 信仰として伝達者を信じて受け入れるもの(=措定原理[al-usul al-mawdu'a])
   3) 後で正しいと明らかになるまで暫定的に受け入れるもの(=要請[musadarat])
III. 問題(思弁的ないし生得的・開示的論証によって論証される探求項目)
  a. 当該の学が包括するものを類が種を限定するような仕方で限定する根本原理
    1) 神の存在の概念(tasawwur wujud al-haqq)
    2) 神の存在概念のhaliya の様態(kayfiya)
    3) 主題の認識(idrak)はどのような側面からなら可能か
    4) 神の本体、およびその属性的実相、被造物的実相に対する存在の
      関係の様態
    5) 神と多性との間を媒介する第一流出者(al-fa'id al-awwal)について
    6) 全被造物に対する第一流出者の関係は全て同様だということ
    7) 被造物どもは何を通じて第一者(al-awwal)と関係をもつのか
    8) 多なるものどもはどのような階梯から生ずるのか
    9/10) 神を多性の始源として捉える観点と、他を必要としない一者として
      捉える観点の識別
  b. こうした根本原理の下にくる、それらから派生するところの種や種の種のようなもの

この中で特に目を引くのは、I. 主題の設定の仕方とIII-a. 根本原理に関する議論です。実相学の主題はファナーリーによれば、被造物との関係において捉えられた神の存在だとされます。ところで通常、或る学問において実際に探究される(=「問題」とされる)のは、当該の学問の主題が有する自体的付帯性どもだとされます。そのため実相学においても、それらに関する探究は中心的な位置を占めるはずです(なおこのような諸問題を1つずつ解明していくのが、総括的序論[序文(al-sabiqa)と本文の2部構成]の後半部)。

ここで重要なのは、一般的な逍遥学派的学問論においては、或る学の主題は当該の学の枠内では探究されないと考えられている、という点です。主題は当該の学よりも上位の学において探究されるのであって、当該の学においては、ただその存在が措定されるだけ。そのため、この考え方を維持すれば、仮に被造物との関係を超絶した神の存在を実相学の主題として設定したとしても、それは探究対象とはなりえず、その意味で神の超越性は担保されているようにも見えます。にもかかわらず、ファナーリーは実相学の主題を存在論的諸階層の頂点にくる、被造物との関係を超絶した限りでの神の存在とはせず、むしろその一段下位に位する被造物との関係において捉えられた神の存在としています。そして彼はさらに
先日のポストでも言及した通り、学問において探究される対象を拡張し、主題それ自体をも探究対象の1つに数えているようです。つまりファナーリーは、もともとの逍遥学派的学問論に従えば何の問題もなく探究対象となるはずだった、被造物との関係において捉えられた神の存在をわざわざ主題の位置にもってきて、さらにこれに関する探究の道を確保するために、今度は学問論の枠組み自体に改変をほどこしているわけです。これはどういうことか。可能性としては、緒言第3章で論じられている思弁知の瑕疵をめぐる議論からの類比で、神の実相の不可知性を強調するために、被造物を超絶した神の存在は主題にすらなりえないと論じた、という理解もできそうですが、解釈として安直であるような気もします。いずれにしても、以上のような観点から、今後の課題はi) 実相学の主題設定と探究対象の拡張との関係、およびii) 総括的序論後半部で論じられている10の問題の2点に関する調査となりそうです。

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