Montag, 21. November 2016

ウィスノフスキー「アヴィセンナのイスラム的受容」

Wisnovsky, R. (2013): “Avicenna’s Islamic Reception”. In: P. Adamson (ed. [2013]): Interpreting Avicenna. Critical Essays. Cambridge: Cambridge UP, 190-213.

アヴィセンナの死(1037 年)から 20 世紀に至るまでの、彼の哲学の 900 年にわたる受容史を最新の研究成果にもとづいて概観した労作です(本文はここから DL 可)。もとより 20 ページでまとめきれる内容ではないため、著者は随所でかなり明快な整理を提示しています。おそらくその一部は研究の進捗にもとづき、のちに相当の修正がくわえられることになるはずですが、この分量で 900 年の歴史を、最新の知見にもとづいて、概観できるというのは、非常にありがたい。以下、論述の細部は割愛し、おおまかな流れのみをまとめておきます。

アヴィセンナ哲学の受容という問題を考えるとき、一般には彼の最晩年の著作 al-Išārāt wa-t-tanbīhāt(『示唆と警告』)の意義が強調されます。彼以後の多くの哲学者・神学者たちがこの著作に注釈を付し、そしてそれを通じて議論を戦わせてきたからです。注釈の数という点でみれば、Išārāt は主著 aš-Šifāʾ(『治癒』)よりも圧倒的に強い影響力を誇っていました。しかしだからといって、アヴィセンナ以後の時代、Šifāʾ が全く読まれなかったというわけではありません。むしろ ŠifāʾIšārāt 注釈においても大いに参照されていました。当時の哲学者・神学者たちの動機は単純です。Išārāt という著作は論述があまりに簡潔すぎて、アヴィセンナの意図を探ることがきわめて困難でした。彼らは圧縮された Išārāt 中の論述をいわば解凍すべく、大部の著作 Šifāʾ 中の議論を参照していたわけです。

ただしこうして Išārāt 注釈がアヴィセンナ受容のメインストリームを形成していたのは、14 世紀までです。すでにアヴィセンナの死後まもなくから、Šifāʾ の内容をまとめて哲学著作を著すという傾向はバフマニヤール(1066 年没)の at-Taḥṣīl(『獲得』)やラウカリー(1123 年没)の Bayān al-ḥaqq(『真理の解明』)などにも現れていました。このような傾向の延長線上にアブルバラカート・バグダーディー(1152 年没)の al-Muʿtabar(『個人的省察により確立されたもの』)もあったわけですが、13 世紀になるとさらにアブハリー(1264 年没)の Hidāyat al-ḥikma(『叡智の導き』)とカーティビー(1276 年没)の Ḥikmat al-ʿayn(『泉の叡智』)という 2 つの著作が生み出されます。以後の時代、14-15 世紀(部分的には 16 世紀も)においては、これら 2 著作ならびにトゥースィーの Tağrīd al-iʿtiqād(『神学綱要』)が Išārāt に代わり、形而上学・神学・自然哲学に従事する学者たちにとっての中心的な注釈対象テクストとなっていきます。

ちなみに論理学に関しては、アヴィセンナの死後しばらくはやはり Išārāt 論理学部が主たる注釈対象でしたが、13 世紀以降になるとアブハリーの Īsāġūğī(『エイサゴーゲー』)、カーティビーの ar-Risāla aš-šamsiyya(『太陽の書簡』)、ウルマウィー(1283年没)の Maṭāliʿ al-anwār(『光昇る場所』)、タフターザーニーの Tahḏīb al-manṭiq(『論理学の精錬』)などの著作が現れ、これらが 14-17 世紀の論理学者たちの主たる注釈対象テクストとなっていくのだそうです。また厳密には論理学とは呼べないものの、サマルカンディー(1291年頃〔活躍?〕)の有名な論争術の著作 Ādāb al-baḥṯ(『探究の作法』)やイージー(1355 年没)の Risāla fī ādāb al-baḥṯ(『探究の作法に関する論考』)および ar-Risāla al-waḍʿiyya(『意味論』)なども重要で、時代的には 14-15 世紀に多くの注釈を生んだとのこと。

さらにアヴィセンナの影響は彼自身の哲学(Avicenna’s philosophy)や、それをもとに後代築かれていったいわば「アヴィセンナ的な哲学」(Avicennian philosophy)に対して批判をくわえた学者たちにもおよんでいます。何故なら彼らも「アヴィセンナが設定した哲学上の議題に対して」反論を行ったから。例えばガザーリーがその一例であるわけですが(ただしガザーリーは一般に哲学批判者として知られているものの、彼が哲学批判を行った Tahāfut al-falāsifa[『哲学者の自壊』]に対しては、アヴェロエスの Tahāfut at-Tahāfut[『自壊の自壊』]とオスマン朝のハージャザーダ[1488 年没]による注釈、それからアラーウッディーン・トゥースィー[1482 年没]による注釈という 3 つの注釈しか付されておらず、後代への影響は限定的なものでしかなかったらしい)、彼以外にも、一般には神秘家として括られるイブン=アラビー(1240 年没)やスフラワルディー(1191 年没)も、このような流れのなかで捉えられるのだと、Wisnovsky は言います。

例えば彼らはともに、ファフルッディーン・ラーズィー(1210 年没)が提示した「存在は何性に対して付加される」という理論を、それぞれの仕方で拒絶します。スフラワルディーによれば、存在と何性はいずれも仮象と見なされますが、これは Wisnovsky によれば Šifāʾ 形而上学第 1 巻第 5 章で提示される本質と存在の区別(「本質と存在は intensional には区別されるが、extensional には同一である」)を強く解釈しなおしたものと見ることができるとのこと。他方でイブン=アラビー(Inšāʾ ad-dawāʾir[『天球の創出』])によれば、存在はそれ自体において存在しており、それこそが神であると考えられるわけですが、これは Wisnovsky によれば Šifāʾ 形而上学部第 8 巻第 4 章で提示される存在の 2 区分(「何ものにも共有されえない抽象的に捉えられた存在(muğarrad al-wuğūd)」/「諸物に共有されうる存在」)を崩壊させる議論なのだといいます。

そして見逃してはならないのが、バイダーウィー(1312 年没)の Ṭawāliʿ al-anwār(『光昇るもの』)とイージーの al-Mawāqif(『神学教程』[これは基本的にジュルジャーニー[1413 年没]による同書への注釈とともに読まれた])ならびに ʿAqīda ʿaḍudiyya(『イージーの信条』)という 3 つの著作。Ṭawāliʿ は 14-15 世紀に多くの注釈を生み、Mawāqif はつづく 15 世紀と 17-19 世紀に多数の注釈を生みました(16 世紀に注釈が途絶えたのは、おそらく後述のサファヴィー朝の宗教政策と関係)。ʿAqīda も 17-19 世紀にスンナ派の哲学的神学綱要として広く読まれたそうです。

ところがこうした流れの先に、16 世紀、突如アヴィセンナの著作自体への注釈活動が復活します。それも Išārāt ではなく Šifāʾ への注釈です。11 世紀に Išārāt 注釈から出発し、その後 14 世紀頃からポスト・アヴィセンナ期(具体的には 13 世紀頃)に著された著作への注釈や、アヴィセンナが提出した哲学の重要議題への応答等を通して哲学受容が進められていった先に、何故この 16 世紀という時代に至って、ふたたびアヴィセンナ自身の著作、しかも Šifāʾ へ還るという傾向が現れだしたのでしょうか?Wisnovsky によれば、これはおそらく 16-17 世紀当時のサファヴィー朝で現れだした新古典主義(Neoclassicism)と軌を一にしています。この時代(16 世紀末期から 17 世紀頃にかけて)のイランでは、ファーラービー(950 年没)やヤフヤー・イブン=アディー(974 年没)、アヴィセンナといった古典期の哲学者たち(qudamāʾ)の著作、ならびにアリストテレスや彼の諸著作に対して注釈を付したギリシア人注釈者たち(awāʾil)の作品への、写本の写字数が著しく増加したのだそうです。

重要なのは、これがサファヴィー朝の宗教政策(シャー・イスマーイール 1 世はイランをシーア派に改宗させ、領内にあるスンナ派系のマドラサを閉鎖し、そしてスンナ派の学者たちを領外へと追放した)に資するものだったという点。上述のとおり、アヴィセンナの死後、15 世紀末から 16 世紀初頭にかけての時代に至るまで、スンナ派の学者たちはさまざまな哲学書・神学書を著してきました。これらの著作はアヴィセンナの死後 500 年ほどのあいだ、イスラム圏の知的言説(intellectual discourse)を支配してきました。サファヴィー朝はいわばそうしたスンナ派の伝統に対する自らの優位を示すべく、これらを飛び越え、その淵源にある古典著作へと還ろうとしたわけです。そしてサファヴィー朝から追放されたシーラーズ出身のスンナ派の学者たちは、ムガル朝やオスマン朝領内へと移動しました(カーディー・ミール・フサイン・マイブディー[1504/5 年没]のように処刑されてしまう学者もいた)。

この時代までは、例えばトゥースィーの Tağrīd のようなシーア派系の著作に対してスンナ派の学者が注釈を付すことも多かったそうですが(むしろ Tağrīd に対する注釈は主としてスンナ派の学者たちによってなされていた)、サファヴィー朝の宗教政策により、同朝(イラン)とオスマン朝(アナトリア・アラブ世界)、そしてムガル朝(インド)のあいだに、学問伝統上での大きな分断が生まれます。結果として 16 世紀末までに Tağrīd はオスマン朝とムガル朝下で活動したスンナ派の学者たちのあいだで影響力を失いました。こうして彼らのあいだでは、それ以前からすでに広く読まれていたスンナ派学者イージーの Mawāqif(およびジュルジャーニーによる同書への注釈)と ʿAqīda(北アフリカでは、これらにくわえてサヌースィー[1490 年没]の Umm al-barāhīn[『論証の基盤』]も広く読まれた)が 19 世紀に至るまで大きな影響力を保ちつづけることになります。

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