ガザーリー研究で有名なイェール大学のFrank Griffel による最新著作。今回はそこから、ガザーリー(1111年没)以前のイスラム神学・アラビア哲学において、因果律がどのように捉えられていたか概観した箇所を読みました。以下ではさしあたり神学(kalām)での議論の方だけをまとめておきます。神学において、因果律の問題は一方で神の全能性の問題と、他方で神の公正さ(あるいは人間の責任)の問題と鋭く対立します。ある原因(X)が特定の結果(Y)を要請する(例:綿は炎と接すると発火する)。このような因果関係の存在は日常的な感覚からすると、自明に見えます。しかしX とY のあいだにもし本当にこのような関係が存在するとしたら、神には世界の運行に関与する余地がなくなってしまうのではないか。そうしたら神の全能性は損なわれてしまうのではないか。とすれば、神の全能性を確保するためには、因果律は否定されねばならないのではないか。神の全能性という側面から見ると、因果律は否定されるべき存在として立ち現れてくることになります。
しかしある原因が特定の結果を要請しない(例:何らかの善行を遂行しようとしても、実際にその善行が遂行されない)としたら、何故人間は最後の審判の際に自らの行為の責任をとらなければならないのか。善行をなしたはずが実際には悪行がなされてしまっている。神は公正なのだから、このような不公正を人間に対して働くはずがない。とすれば、神の公正さを確保するためには、因果律は認められなければならない。神の公正さという観点から見ると、因果律は逆に肯定されるべき存在として立ち現われてくることになります。
前者の観点から因果律を否定するのがアシュアリー派神学、後者の観点からこれを肯定するのがムウタズィラ派神学であると、一般には整理されます。しかしGriffel によると、アシュアリー派神学者の多くは前者の観点に立ちながらも因果律を完全には否定していないと言います。鍵になるのは、「二次的原因(asbāb ṯawānī)」という概念です。例えばガザーリーの師であるジュワイニー(1085年没)によると、神はある任意の行為を遂行するための能力をそのつどそのつど人間の内に一時的に創造するといいます。人間はこの一時的に創造された能力(quwwa muḥdaṯa / qudra muḥdaṯa)をもって、その能力と対応する行為(maqdūr)を遂行します。つまり神が一次的原因としてある能力を人間の内に創造し、それが今度は二次的原因として特定の行為を結果させる(taʾṯīr)というわけです。ただし能力(qudra)と行為(maqdūr)との関係については、同じアシュアリー派神学者のあいだでも捉えかたに違いがあり、ジュワイニーのように能力が行為を結果させるとは考えず、むしろ能力と行為のあいだにも神が介在するとする立場もあったのだとか。
なおファナーリーも『親密の灯』「総括的序論」序章前半部で、因果律を肯定するための議論を展開していますが(Miṣbāḥ, 76-109, 3/1-108)、そこで扱われている因果論は(用いられている術語から判断する限り)哲学者が依拠するアリストテレス的な四原因論ではなく、上記のような神学的因果論であるように見受けられます。とはいえ、上のような仕方で因果律を認めるジュワイニーも、外界の対象との関係においては(例えば人間が目の前にある石を動かすような場合)、能力と行為とのあいだの因果関係を認めてはいない(少なくとも明示的には肯定していない)ようで、この点においてファナーリーの形而上的な因果論が古典期の神学的因果論とどこまで対応するかには、注意が必要そうです。Griffel のこの本は、これ以降はガザーリーの哲学批判書『哲学者の矛盾Tahāfut al-falāsifa』に見られる因果律否定を集中的に分析していくようなので、読み終わり次第、またここにまとめていこうと思います。
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