Atcil [Atçıl], A. (2010): “The Formation of the Ottoman Learned Class and Legal Scholarship (1300-1600)”. PhD diss. Chicago Univ. 1-66.
オスマン朝期におけるウラマーと権力側との関係性を考察した最新の博士論文です。今回はイスラーム初期からオスマン朝初期(1400-1500 年)までの時代を扱った第 1-3 章(pp. 1-66)を読みました。論述に反復が多く、また情報の羅列然とした部分も散見されますが、全体的には非常に勉強になる内容でした。以下、詳細は端折って全体の流れのみまとめておきます。
預言者ムハンマドは存命中、信仰と政治の両面において権威的な存在でした。ところが彼の死をきっかけに、これら 2 つの権威の帰属をめぐって、争いが生じます。「初期時代のカリフら」はそのいずれの帰属をも主張し、そうした状況はウマイヤ朝期に至ってもつづきました。しかしウマイヤ朝カリフの支配には、信仰面での関心から、さまざまな集団が抵抗を行うことになります。彼らは同朝を「コーランと預言者の伝統 / 伝承を遵守していない」として批判しました。為政者の王朝さえコーランと預言者の伝承には従うべきとするこうした考えかたは、つづくアッバース朝との関係において、より明確なかたちで問題となります。いわゆる「異端審問(miḥna)」です。
ウマイヤ朝期には、信仰面での権威を構成する「預言者の伝統 / 伝承」がまだ単なる抽象概念としてしか把握されていませんでした。しかしアッバース朝期に入ると、それは後世知られるような個々の言行の膨大な集積として把握されはじめます。熱心な人々は各地を渡り歩いて、預言者の言行に関する証言を集めるようになっていきます。そしてこうした中で、あらゆる知識と社会全体を預言者の言行に基づいて構成すべきとの考えが現れてくるのだそうです。彼らはそうした知識を担う専門家集団となり、結果としてアッバース朝カリフはウマイヤ朝や初期時代のカリフがなしえていたように、信仰面での権威を主張することができなくなってしまいました。このような流れをくつがえすために、マアムーン(r. 813-33)ら当時のアッバース朝カリフは理性(ʿaql)の行使を重要視するムウタズィラ派神学に肩入れし、これに従わない者を公職から追放するという策に出るのです。
しかしムタワッキル(r. 847-61)の治世になると、このような政策は転換されます。彼はムウタズィラ派への支援を取り消し、伝承主義的なウラマーが自律的に教義を生み出していくことを暗黙裡に認めました。このような政策転換は、当時進行中であった正統四法学派の形成とあいまって、国家に対するウラマーの立ち位置をさらに強化することにつながっていったのだとか。くわえて 11 世紀に至るまで教育は基本的には裕福な個人のワクフによって支えられており、国家はそこに必ずしも介入しなかったのだそうです。11 世紀以降になると、セルジューク朝宰相ニザームルムルクのニザーミーヤ学院のように、国が財政的な援助を通じて教育機関を設立することはありましたが、それでも私的な教育施設は依然として残りつづけました。
時を同じくして、セルジューク朝はマンツィケルトの戦い(1071 年)でビザンツ帝国を破ります。アナトリア半島はこれをきっかけにイスラーム化していくことになり、セルジューク朝以前はほとんどムスリムの存在しなかった半島に、少なくとも 12 世紀以降になると、ムスリムの教育施設が数多く建設されていきます。ところが 13 世紀になると、アッバース朝をつぶしたモンゴル帝国による支配が決定的となります。モンゴル人たちは基本的には非ムスリムであり、自分たちの支配を正統化するために、ウラマーに忠誠を誓わせ、さらにそのネットワークを利用しようと考えていました。これに対してウラマーはモンゴル人たちの非イスラーム的な要素を批判することで、自分たちの信仰面での権威としての役割をより強く主唱するようになっていきます。このような反目状態の中、モンゴル人たちは 13 世紀半ば頃にはアナトリアにまで進出し、特に世紀の終わり頃からは半島支配をいっそう強めていきます。にもかかわらず、ムスリムの教育施設は彼らの半島支配をしぶとく生き延びたといいます。
オスマン朝が支配を確立したアナトリアの北西部はもともとキリスト教徒が支配していた地域でした。同朝の勢力伸長に際してはビザンツ帝国やバルカン半島のキリスト教国との衝突が不可避であり、彼らはこうした地域を奪い取った上で、そこにあてがうためのウラマー拡充政策を模索します。このような経緯で近隣諸地域から多くのウラマーが招聘されることになりました(なおこのときに招聘されたウラマーの 1 人にファナーリーがいたのだそうです)。王朝側は自らの権力を示すために、半島各地に新たな教育施設を建設し、また自らウラマーのパトロンになっていきます。ただしこの頃のアナトリア半島は、いまだカイロ、ダマスクス、アレッポ、バグダード、ヘラート、サマルカンド、ブハーラなどと並ぶような学問の中心地たりえてはおらず、ウラマーと王朝とのあいだにも密接な関係は成立していませんでした。 おそらく彼らをつなぎとめるために、14 世紀初頭から 15 世紀初頭にかけての王朝側は、上述のような半島各地に存在する教育施設に対しても積極には介入しなかったのでしょう。オスマン朝初期においては、権力側につくことを望まないウラマーが、個人のワクフで管理されている教育施設に職を求める自由があったわけです。
しかしウラマーと権力側とのこのような関係性は、メフメト 2 世によるコンスタンティノープル征服(1453 年)を期に大きく転換していきます。彼はまず自分より前の時代に建設された全ての教育施設を閉鎖し、代わりにイスタンブルに 8 つの新たな高等教育機関を設立します。そしてその上で教授や学生らに高給を支払い、自らの考える帝国の理想実現に彼らをコミットさせていくのだそうです。ファナーリー(1431 年没)が生きた時代は、このような権力側によるウラマー利用が現れてくる直前の時代にあたります。
オスマン朝期におけるウラマーと権力側との関係性を考察した最新の博士論文です。今回はイスラーム初期からオスマン朝初期(1400-1500 年)までの時代を扱った第 1-3 章(pp. 1-66)を読みました。論述に反復が多く、また情報の羅列然とした部分も散見されますが、全体的には非常に勉強になる内容でした。以下、詳細は端折って全体の流れのみまとめておきます。
預言者ムハンマドは存命中、信仰と政治の両面において権威的な存在でした。ところが彼の死をきっかけに、これら 2 つの権威の帰属をめぐって、争いが生じます。「初期時代のカリフら」はそのいずれの帰属をも主張し、そうした状況はウマイヤ朝期に至ってもつづきました。しかしウマイヤ朝カリフの支配には、信仰面での関心から、さまざまな集団が抵抗を行うことになります。彼らは同朝を「コーランと預言者の伝統 / 伝承を遵守していない」として批判しました。為政者の王朝さえコーランと預言者の伝承には従うべきとするこうした考えかたは、つづくアッバース朝との関係において、より明確なかたちで問題となります。いわゆる「異端審問(miḥna)」です。
ウマイヤ朝期には、信仰面での権威を構成する「預言者の伝統 / 伝承」がまだ単なる抽象概念としてしか把握されていませんでした。しかしアッバース朝期に入ると、それは後世知られるような個々の言行の膨大な集積として把握されはじめます。熱心な人々は各地を渡り歩いて、預言者の言行に関する証言を集めるようになっていきます。そしてこうした中で、あらゆる知識と社会全体を預言者の言行に基づいて構成すべきとの考えが現れてくるのだそうです。彼らはそうした知識を担う専門家集団となり、結果としてアッバース朝カリフはウマイヤ朝や初期時代のカリフがなしえていたように、信仰面での権威を主張することができなくなってしまいました。このような流れをくつがえすために、マアムーン(r. 813-33)ら当時のアッバース朝カリフは理性(ʿaql)の行使を重要視するムウタズィラ派神学に肩入れし、これに従わない者を公職から追放するという策に出るのです。
しかしムタワッキル(r. 847-61)の治世になると、このような政策は転換されます。彼はムウタズィラ派への支援を取り消し、伝承主義的なウラマーが自律的に教義を生み出していくことを暗黙裡に認めました。このような政策転換は、当時進行中であった正統四法学派の形成とあいまって、国家に対するウラマーの立ち位置をさらに強化することにつながっていったのだとか。くわえて 11 世紀に至るまで教育は基本的には裕福な個人のワクフによって支えられており、国家はそこに必ずしも介入しなかったのだそうです。11 世紀以降になると、セルジューク朝宰相ニザームルムルクのニザーミーヤ学院のように、国が財政的な援助を通じて教育機関を設立することはありましたが、それでも私的な教育施設は依然として残りつづけました。
時を同じくして、セルジューク朝はマンツィケルトの戦い(1071 年)でビザンツ帝国を破ります。アナトリア半島はこれをきっかけにイスラーム化していくことになり、セルジューク朝以前はほとんどムスリムの存在しなかった半島に、少なくとも 12 世紀以降になると、ムスリムの教育施設が数多く建設されていきます。ところが 13 世紀になると、アッバース朝をつぶしたモンゴル帝国による支配が決定的となります。モンゴル人たちは基本的には非ムスリムであり、自分たちの支配を正統化するために、ウラマーに忠誠を誓わせ、さらにそのネットワークを利用しようと考えていました。これに対してウラマーはモンゴル人たちの非イスラーム的な要素を批判することで、自分たちの信仰面での権威としての役割をより強く主唱するようになっていきます。このような反目状態の中、モンゴル人たちは 13 世紀半ば頃にはアナトリアにまで進出し、特に世紀の終わり頃からは半島支配をいっそう強めていきます。にもかかわらず、ムスリムの教育施設は彼らの半島支配をしぶとく生き延びたといいます。
オスマン朝が支配を確立したアナトリアの北西部はもともとキリスト教徒が支配していた地域でした。同朝の勢力伸長に際してはビザンツ帝国やバルカン半島のキリスト教国との衝突が不可避であり、彼らはこうした地域を奪い取った上で、そこにあてがうためのウラマー拡充政策を模索します。このような経緯で近隣諸地域から多くのウラマーが招聘されることになりました(なおこのときに招聘されたウラマーの 1 人にファナーリーがいたのだそうです)。王朝側は自らの権力を示すために、半島各地に新たな教育施設を建設し、また自らウラマーのパトロンになっていきます。ただしこの頃のアナトリア半島は、いまだカイロ、ダマスクス、アレッポ、バグダード、ヘラート、サマルカンド、ブハーラなどと並ぶような学問の中心地たりえてはおらず、ウラマーと王朝とのあいだにも密接な関係は成立していませんでした。 おそらく彼らをつなぎとめるために、14 世紀初頭から 15 世紀初頭にかけての王朝側は、上述のような半島各地に存在する教育施設に対しても積極には介入しなかったのでしょう。オスマン朝初期においては、権力側につくことを望まないウラマーが、個人のワクフで管理されている教育施設に職を求める自由があったわけです。
しかしウラマーと権力側とのこのような関係性は、メフメト 2 世によるコンスタンティノープル征服(1453 年)を期に大きく転換していきます。彼はまず自分より前の時代に建設された全ての教育施設を閉鎖し、代わりにイスタンブルに 8 つの新たな高等教育機関を設立します。そしてその上で教授や学生らに高給を支払い、自らの考える帝国の理想実現に彼らをコミットさせていくのだそうです。ファナーリー(1431 年没)が生きた時代は、このような権力側によるウラマー利用が現れてくる直前の時代にあたります。
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