van Bladel, K. (2009): The Arabic Hermes. From Pagan Sage to Prophet of Science. Oxford: Oxford UP.
* 更新:「ヘルメス文書」(Corpus Hermeticum)の位置づけが不正確とヒライさんからご指摘いただき、§0 の記述の一部を修正しました(2021 年 2 月 6 日 6:55)。
** 更新:本記事の内容を大幅に加筆修正した「エッセイ・レヴュー:アラビア・イスラム文化圏におけるヘルメス関連文書とヘルメス観の歴史」が、まもなく『慶應義塾大学言語文化研究所紀要』より出版されます!出版後はリンクを貼るので、そちらを参照することをお勧めします(2022 年 3 月 16 日 7:08)。
第一部 背景
第一章:序論 3
1.1. ローマ期エジプトの古代ギリシア語ヘルメス関連文書とそのヨーロッパでの受容 4
1.2. 古代におけるギリシア語ヘルメス関連文書の受容 10
1.3. アラビア語の学問の誕生とバグダードにおける古代人の書物 14
1.4. アラビア学の文脈で「ヘルメス的」と「ヘルメス主義」という術語を理解する 17
第二章:ササン朝期イランのヘルメス 23
2.1. ササン朝の魔術テクストにおけるヘルメスの証拠 25
2.2. ササン朝の占星術師にとってのヘルメス 27
2.3. ギリシア語から中期ペルシア語への翻訳にかんする後代の証言 30
2.4. ササン朝期のホロスコープとされるもの数点 39
2.5. シャープール 1 世治下のヘルメス関連文書 41
2.6. オスタネスとマギ 48
2.7. オスタネスとアラビア語のヘルメス 54
2.8. 真珠の歌と学知のイラン史 58
2.9. 学知のイラン史におけるアレクサンドロスの役割 58
2.10. 小結 62
第三章:ヘルメスとハッラーンのサービア教徒 64
3.1.「サービア教徒」をめぐる問題への序論 66
3.2. ハッラーンのプラトン学派? 70
3.3. ハッラーンのヘルメス関連文書が与えたとされる影響 79
3.4. ハッラーンのサービア教徒によるヘルメス関連文書伝達の証拠 83
3.5. ハッラーンのサービア教徒の最期 104
3.6. 小結 113
第三章への補遺:ハッラーン人とインド 115
第二部 アラビアのヘルメスの歴史
第四章 三人のヘルメス 121
4.1. 三人のヘルメスにかんするアラビアの伝説:初期の形態 122
4.2. アラビアの伝説に対応する古代ギリシアの先行する〔伝説〕 132
4.3. 年代記の跡 135
4.4. シリア語とアラビア語におけるアンニアヌス 139
4.5. 年代記作家としてのアブー=マアシャル 147
4.6. ヘルメス伝説の他の諸相 155
4.7. 三人目のヘルメス 157
4.8. 小結 161
第五章 預言者ヘルメス 164
5.1. ヘルメスの天界飛翔 164
5.2. 律法者ヘルメス:ムバッシル・イブン=ファーティクが描くヘルメス 184
5.3. アラビアのヘルメスの叡智 196
5.4. 12-13世紀以後の綜合 219
第六章 結論:アラビアのヘルメスを作る 234
文献目録 241
索引 267
***
0. イントロ
そもそも「ヘルメス」とは誰なのか。そして特に西欧ルネサンスに関心を持つ人ならば耳にしたことがあるはず、「ヘルメス主義」(Hermeticism)とは何なのか。ヘルメスは古代ギリシアの神話に淵源する存在で、おおむねイタズラ好きの伝令神と見なされていました。そんな彼がヘレニズム時代のエジプトで知識と文筆を司る土着の神トートと魔合体し、さらにローマ時代にはローマ帝国由来のさまざまな信仰と混淆して、いつしか錬金術・占星術・魔術等に通暁した神、あるいは古の賢者と見なされるようになります(4 頁)。そうして紀元後 1-3 世紀のどこかの時点で、彼の名を冠した(つまり彼が著したという体で捏造された)一群の書物がギリシア語で成立する。「ギリシア語ヘルメス関連文書」(Greek Hermetica)です。文書群全体は占星術・宇宙論・医学を含む広範な領域のトピックを扱うんですが、通常、内容にそくして二種類のカテゴリーに区分されます。ひとつは「哲学的ヘルメス関連文書」(philosophical Hermetica)、もうひとつは「技術的ヘルメス関連文書」(technical Hermetica)。前者は宇宙の構造と人間、神の関係を論じる内容がメイン。後者は星々の持つ特殊な力をいかに引きだして制御するか、そしてそのための護符はどうやって作成すべきか等の内容がメインです。
* ギリシア語ヘルメス関連文書の全体に通底する世界観は、すでに van Bladel 以前の歴史家 Fowden が簡潔なまとめを行っているため、彼はそれを利用します。曰く、「神は一であり、万物の創造者。万物は存在の階層(a hierarchy of beings)をなす多なる構成要素。後者はこうして神に依存しつづける。この階層で神自身に次ぐ第二の位置を占めるのが知性界、そしてこれに次ぐ〔第三の位置を占めるのが〕感覚界である。神の創造的な善なる諸力は知性界と感覚界をつうじて太陽へと流れ込む。太陽はデミウルゴスであり、その周りを恒星天と 6 つの惑星天、そして大地の 8 つの天球(the eight spheres of the fixed stars, the planets and the earth)が回転する。これらの天球にはダイモーンらが従属し、ダイモーンらには創造のミクロコスモスたる人間が従属する。かくして全ては神の一部をなし、神は全ての内に宿る。彼の創造の営為は止まることなく〔永遠に〕持続する。万物は一であり、存在のプレローマを破壊することはできない」(4-5 頁)。
** 哲学的関連文書では、ヘルメスは知性の純化と瞑想をつうじて肉体の桎梏(bodily circumstances)を超越し、運命を超克して、神についての真知に至る、その術を弟子との対話によって教示します。他方、技術的関連文書では、彼は天界の諸力と地上の個物のあいだに存する共感作用の調和(the sympathetic harmony)の実態を正しく認識することで、地上界にあらゆるレベルの力と支配を行使できるようになると説きます。こうして、たとえば未来予知のために重要な天の徴だとか、諸実体(さまざまな植物等)のもつオカルト質、そしてそれらが惑星との共感作用から得る星辰の諸力を解釈する術が教授されることになります。ちなみに近代の学者たちが何故これを「技術的」と呼んできたかといえば、それが宇宙に働くさまざまな原理・力についての知識を日常生活や現実の問題に適用するテクニックを解説する文書だから(5 頁)。
このうち、前者の哲学的関連文書群(の一部?)が 15 世紀イタリアのメディチ家にもたらされ、お抱え学者マルシリオ・フィチーノによってラテン語に翻訳されることになります。彼はすでに着手していたプラトン著作群の翻訳プロジェクトを一時休止するかたちで、これを訳出しました。
* 何故か。答えは単純。ヘルメスのほうがプラトンよりも古い時代の賢者だと考えられていたから。近代以前の世界に広くみられ、とりわけイタリア・ルネサンスを特徴づける尚古主義(「古いものこそ偉い」)というやつです。そしてだからこそ、1614 年、フランスの歴史家カゾボンがヘルメス文書の超古代性を捏造と示し、その成立をせいぜい初期キリスト教時代にまでしかさかのぼれないと証明して以降(より正確には 17 世紀末以降からですが)、西欧でのヘルメス人気は斜陽となるわけです(5-6 頁)。
** フィチーノの訳業によって、ヘルメス文書は西欧世界で一世を風靡する。中世をつうじて大学で教えられてきたアリストテレス系哲学よりも、はるか古の時代にぞくするヘルメスの叡智。これこそ、新たな再生の時代にふさわしい哲学である。フィチーノを筆頭に、当時の知識人たちはヘルメス的な知、「ヘルメス主義」にもとづき、学問に、科学に、風穴をあけていった。そしてそれがいわゆる「科学革命」の素地を準備したのだ。かつて歴史家イェイツ(Frances Yates)はそう説きました。しかし彼女の説は今日ではもはや支持されていません。これはヒライさんから教えてもらったことですが、そもそもフィチーノはヘルメスだけに特権的な地位を与えてはいないのだそうです。彼においてはむしろゾロアスターのほうが重視されている。フィチーノの哲学はヘルメス主義哲学でもなんでもなく、プラトン主義哲学のルネサンス的変奏版と定義される。そしてヘルメスに特権的な地位を与えるかたちで哲学体系を構想した学者も、実際にはほとんどいない。こうしてルネサンス期の「ヘルメス主義」の存在は、もはや学問の世界では完全に否定されたようです。これについては著者自身は明言していませんが、前提となる重要な点です。
*** ただし、それでも古代末期のエジプトには「ヘルメス文書」を実際に編んだ一群のヘルメス主義者たちがいたのではないか。その意味で、当時のエジプトにはヘルメス主義が存在したのではないか。こういう問いは、依然として学術界でも存在するようです。つまりヘルメス文書成立の背景に、特定の歴史的集団の存在を想定するのかしないのか。このような研究史上の問いの存在と歴史は、van Bladel もまとめてくれてはいますが(特に 7-8 頁)、アラビア学に直接の関係はないということで、判断を保留します。「ヘルメス主義」とは古代末期エジプトについて論じるための概念であって、それを安易に中世アラビア世界を論じるときに転用すべきではない。アラビアにヘルメス主義が存在したかどうかよりも、まずそもそも「ヘルメス」の名を冠した書物群の受容と伝播の歴史を調べること、こちらのほうが優先されるべき課題である(10-18, 特に 18 頁)。これが van Bladel の立場です。
そして学術的には、この哲学的関連文書群(フィチーノの訳業であるラテン語版 / その元にあるギリシア語版)だけを指して「ヘルメス文書」(Corpus Hermeticum)と呼ぶのが慣例になっています(8 頁)。その後の西欧の学問に与えた影響から、権威的にもひびく Corpus などという単語が付されるわけですが、実際のところ、「ヘルメス文書」に含まれない「ヘルメス関連文書」(Hermetica)は膨大に存在します。そのうち、規模の面でも影響力の面でも最重要でありながら、もっとも研究が立ち遅れているのが「アラビア語ヘルメス関連文書」(Arabic Hermetica)だと、著者はいいます(9-10 頁)。ここで重要な点がひとつ。そもそも van Bladel によれば、古代末期のギリシア語ヘルメス関連文書と中世アラビアで生まれたヘルメスの名を冠する文書群は、ほとんど何の関係もありません。もちろん今後の研究の進展によって、両者のあいだにより強い関係性(翻訳・引用など)が明らかになる可能性もありますが、現時点で判明しているかぎりでは、前者にぞくする書物のうち、アラビア語に訳されたことが確認できるのは、たったの一点。Kyranis のみです。
* Kyranis: アラビア語では Ǧiranīs。ギリシア文字の配列にしたがって 24 の章が設けられていて、それぞれの文字からはじまる植物、鳥、鉱物、海の生物の名前が列挙されるという構成(Ullmann [1972] S. 425-26)。そしてこれによって、24 のタリスマ(護符)を作成するレシピが得られるようになっている。9 世紀頃、ギリシア語からアラビア語に(シリア語をかいして?)翻訳されたそうですが(van Bladel [2012])、その際、何故かヘルメスの名前への参照がことごとく削除されました(17 頁注 45 + 21 頁注 60)。
** さらにややこしいことに、これは「ギリシア語からの直接訳であることが確認できるのは一点のみ」ということで、ギリシア語ヘルメス関連文書に何らかの形でもとづいていると見られる文書ならば、もう一点だけ存在が確認されています。『星々の秘密の書』(Kitāb asrār an-nuǧūm)と呼ばれる文書で、中期ペルシア語の単語がアラビア文字転写で大量にまぎれこんでいることから、現存するバージョンは中期ペルシア語からアラビア語に翻訳されたと考えられています。1143 年、カリンティアのヘルマン(Hermann of Carinthia)が『諸本質について』(De essentiis)中でアラビア語からラテン語に翻訳。
その他すべては同じヘルメスの名を冠していながら、ギリシア語ヘルメス関連文書とは全くの別物。あるいは著者自体別に立てられていて、ただ「ヘルメスに帰される古の叡智を明らかにするものだ」と主張する書物なんてものも。これら全てを総称して「アラビア語ヘルメス関連文書」と呼び、さらにその周辺に存在したさまざまな伝記史料(ヘルメスの捏造された伝記を含み、知恵文学的な側面を持つ)も込みで博捜し、前イスラム期から 13 世紀頃までを中心に、中近東でヘルメス観・ヘルメス表象がいかに推移していったかを跡づけたのが、この『アラビアのヘルメス』という研究です。対象言語はギリシア語、中期ペルシア語(パフラヴィー語)、シリア語、アラビア語、近世ペルシア語。いやはや、すごい人はいるものです。ちなみに先の哲学的か技術的かというカテゴリーでいうと、アラビア語ヘルメス関連文書は(二点の例外をのぞいて)技術的文書にぞくします。したがって、アラビア語からの翻訳が多い中世ラテン世界のラテン語ヘルメス関連文書も基本的に技術的文書です。
さて、以下は比較的細かい内容になります。読むのが面倒な人のために、ここで大筋だけをまとめておきましょう。まず古代末期エジプトで生まれた「太古の賢者ヘルメス」というイメージは、すでにムハンマド存命中の 6 世紀後半から 7 世紀初頭、メソポタミアのハッラーンの街に集住する星辰崇拝者のあいだに受けつがれていました。このことは史料から確認できます。その後、200 年ほどの展開は史料がないため不詳ですが、アッバース朝下の 9 世紀になると、「ヘルメスは太古の(賢者だっただけでなく)預言者でもあったのだ」というイメージが出来あがります。そしてこのイメージをイスラム教徒たちは徐々に自家薬籠中のものとしていき、12 世紀頃、現在まで伝わるヘルメス観の大枠が完成、13 世紀以後はその形が再生産され、広く受けつがれていく。地理的には、アンダルスからインドまで、時代的には少なくとも 18 世紀にいたるまで(17 頁)、いろいろな文書でヘルメスの名が語られる。こんな流れです。
1. ササン朝期(後 3-6 世紀):ギリシア語ヘルメス関連文書翻訳の可能性
アラビア語ヘルメス関連文書の成立を考えるうえで無視できないのは、古代末期ギリシア語文化圏から中世アラビア語文化圏への学術文書の翻訳運動です。なかでもギリシア語ヘルメス関連文書の移入を考えるうえで避けてとおれないのが、ササン朝下でのギリシア語文献翻訳運動。いや、ギリシア語ヘルメス関連文書とアラビア語ヘルメス関連文書はほとんど無関係なのだろう、だったら翻訳運動を考慮する必要なんてないのでは?と考える人もいるかもしれませんが、事態はそう単純でもないのが難しいところです。
* 前提として押さえておかなければならないのは、圧倒的な史料不足という状況。ササン朝下ペルシアにせよ、イスラム期前後のハッラーンにせよ、何しろ同時代の一次史料がほとんど残っていません(少なくとも宗教史や哲学史の周辺で必要になる史料は、ほぼないもよう)。あるのは、イスラム期に成立したものか、外部史料のみ。ハッラーンはさておくとしても、ササン朝ペルシア帝国の史料でさえこれほど残っていないというのは、門外漢からすると少し驚きですが、現存する中期ペルシア語史料の大半は 9 世紀頃、アッバース朝下で成立したもの。つまり前イスラム期の歴史を叙述するには、イスラム期に入ってから成立した複数の二次史料をつきあわせ、そこに残された間接証拠(互いに矛盾する場合も少なくないし、基本的に何らかのバイアスがかかっている)からどうにかこうにか過去をおぼろげに浮かびあがらせる以外にない。だからこそ、慎重に慎重を重ねた煩瑣な論述がつづくわけです。
どういうことか。ひと言でいえば、すでにササン朝下で古代ギリシア語文化圏の学術書が中期ペルシア語に翻訳され、それがアラビア語に翻訳された可能性はつとに指摘されているんですが、そこにギリシア語ヘルメス関連文書の一部(主として占星術関係のもの)も部分的に係ると、そう語る史料が初期イスラム時代に残されているのです。もっともまとまった形の「証言」は、イブン=ナウバフト(9-10 世紀)による『ナフムターンの書』(Kitāb an-nhmṭʾn)にみられます(正確にはこれも原本は散逸していて、我々はアッバース朝バグダードの書店商イブン=ナディームが残した『図書目録修正』[al-Fihrist]での引用から、かろうじてその内容を知ることができます)。アッバース朝宮廷占星術師の第二世代にあたるイブン=ナウバフトは、次のような歴史を語っていたそうです。「カイの子ダハーク(aḍ-Ḍaḥāk b. Qayy)は世界の第二千年紀を 1000 年にわたって支配した悪魔的暴君。彼は黄道十二宮に対応させてイラクに 12 の城塞を造り、そこに学者を呼び集めた。この学者たちが人民を支配し、人民は彼らにしたがったのだが、ある預言者が現れると事態は変わった。人々は彼のお告げを聴くや、学者たちを拒絶し、かくして彼らは国々へと散らばり、それぞれの地で王となった。ヘルメスはバビロニアを去り、エジプトで王になった学者。学者たちのうちで、知性においてもっとも完全、知識においてもっとも正確、そして探究にさいしては最も緻密だった彼は、エジプトの地で古代のさまざまな学問を教えた。時代がくだり、エジプトはアケメネス朝の支配下にあったが、これをアレクサンドロスが征服。彼の書物破壊によって、古代の学芸は終止符を打たれる。とはいえ、彼が持ち去った数々のペルシア語書物はのちにギリシア語とエジプト語に(ar-Rūmī wa-l-Qibṭī)に翻訳されたし、それ以外にも古代の諸学はインドと中国に散り散りとなって生き延びた。アレクサンドロスによる破壊のあとは、蒙昧の時代がイラクをつつむが、ササン朝の創始者アルダシール(後 224-41 年頃在位)が破壊を生き延びた古代イランの書物をまとめ、息子のシャープール 1 世もこの事業を継続。後者の治世には、ドロテオス、プトレマイオス、そしてかつてエジプトを統治していたバビロニアのヘルメスが中期ペルシア語へ翻訳され、研究された。そしてホスロー 1 世(531-79 年在位)の時代になると、諸学への関心がふたたび復興される」(31-32 頁)。
ヘルメスはエジプトとバビロニアに所縁があり、彼の叡智は一度アレクサンドロスによって(対アケメネス朝戦争のなかで)破壊・簒奪されたが、これによりギリシア語等の他言語に翻訳される機会をえた。そしてシャープール 1 世はヘルメス関連文書の中期ペルシア語訳をつうじて、古代バビロニアの(すなわち、その地を支配していたペルシア帝国に起源を持つ)ヘルメスの叡智を復興したのだ。まとめれば、こういうナラティヴです。実際には、ホスロー 1 世時代の翻訳事業(6 世紀)も、シャープール 1 世(3 世紀)によるそれも史実である確証はありません。しかしそれを全くの捏造と切って捨てることも、他史料での証言状況からみて不適切だろうというのが、著者の見解(であり、Sezgin や Kinitzsch も支持する立場)です。つまり古代ギリシア語文化圏で生まれたかなりの数の学術文献が 3 世紀の時点で中期ペルシア語に翻訳され、そこにギリシア語ヘルメス関連文書の一部も含まれていた可能性はある。そしてそれが事実であれば、9-10 世紀頃、アッバース朝下のバグダードで起こったギリシア語学術文献のアラビア語訳(シリア語を話すキリスト教徒が翻訳者として活躍し、主として哲学・科学関係のものが訳された)とは、全くコンテクストを異にする翻訳運動だったことになる、というわけです。いずれにしても、ヘルメスの名がアラビア語ではじめて現れたのは 8 世紀。これはどちらかといえば、中期ペルシア語文献の伝統にぞくすものであって、古代ギリシア語文献の伝統にはぞくさない。このことは確実な点として指摘できるようです(63 頁)。
2. ハッラーン人の星辰崇拝:前イスラム期からアッバース朝下での改変まで(6-10 世紀)
ムハンマド存命中の 600 年頃、ハッラーン人たちは異教の哲学者たちを尊崇していることで知られていました。そんななか(正確には、6 世紀末から 7 世紀初頭にかけて)とあるシリア語文書が著されます。タイトルは『異教の哲学者たちの預言者性』。非キリスト教徒のハッラーン人(unbaptaized Ḥarrānians)にたいする宣教を目的とした書物です(内容まとめは 83-85 頁)。論考の著者の主張は単純なもの。要するに「あなたがたハッラーン人たちの信仰内容はキリスト教信仰そのものである、だから洗礼を受けない理由はないですよ」と説いています。そしてそのなかで自説を補強する例として、ギリシア語ヘルメス関連文書からキリスト教信仰の正しさを説得できるような諸議論を引用してきます。「ヘルメス・トリスメギストスも、じつはキリスト教の正しさを伝えているのだ」というわけです。しかしながら、この時点でヘルメスないしヘルメス関連文書がハッラーン人の教説のなかで特別な位置を占めていたことを示す確実は証拠は存在しないようです。むしろ彼はこの時点では数々の古代人哲学者(大半はギリシア人だが、少なくとも一人、バーバーは現地のアラム人)の一人として尊崇されていただけだろうと、van Bladel は論じます(113 頁)。
その後 2 世紀の発展の詳細は不明。しかし 9 世紀になるとヘルメスが明確に預言者と見なされていたことが確認できるようになります。当時ハッラーンの街でカルケドン派司祭として活動していたテオドル・アブー=クッラ(805-29 年頃活躍)は、この街の特殊な星辰崇拝にかんして、アラビア語ではじめて明確な証言を残した人物です。彼によれば、この時代のハッラーン人たちはヘルメスを預言者と見なし、自分たちの星辰崇拝の教義と明確に結びつけていたといいます。それから数十年後、サービト・イブン=クッラ(901 年没)がバグダードに移住した頃になると、今度はアラブ人哲学者キンディー(870 年頃没)が一篇のアラビア語ヘルメス関連文書について書き残しています。それは現在では失われ、キンディー以後のムスリム学者も全く参照していない(とおぼしき)文書ですが、van Bladel によれば、形式面ではギリシア語ヘルメス関連文書と何らかの関係を持つか、あるいは類似する文書だったと考えられるようです。いずれにしても、キンディーはそこではっきりと「ハッラーン人たち(いまや「サービア教徒」として知られる)は、このアラビア語ヘルメス関連文書の教義を権威的なものと見ている」と記しています。このようにヘルメスがハッラーン人の認める預言者だという考えは、9 世紀以降、アラビアの学者たちの広く知るところとなりました(この点は以下 §3 でも言及します)。しかし、かといって、ヘルメスが預言者として具体的にどのような啓典をもたらしたのかについては、十分に語られていないようです。仮にそうしたテクスト群が実際に存在していたとしても、それを手元に保有していた著述家はほとんどいなかったのではないかと、van Bladel は推測しています(113 頁)。
なお、この時代に成立したとみられるヘルメス関連文書として重要な意義を持つのが、「擬アリストテレス・ヘルメス関連文書」(Pseudo-Aristotelian Hermetica)とよばれる数篇の文書群です。『イスタマーヒースの書』(K. al-Isṭamāḫīs)、『イスタマーティースの書』(K. al-Isṭamāṭīs)、『ウストゥウワタースの書』(K. al-Usṭuwwaṭās)、『マディーティースの書』(K. al-Madītīs)、『ハーディートゥースの書』(K. al-Hādītūs)のように、意味不明の書名が付されたこれらの文書群は、ひと言でいえば、惑星の特殊な力を得るための儀式について記した指南書といえます(さらに例えば『イスタマーヒースの書』では、ヘルメスが自らの「完全な本性」と出会い、会話する様子も描かれます)。興味深いのは、こうした教えがアリストテレスの権威に仮託して語られている点です。具体的にいえば、アリストテレスが弟子のアレクサンドロスにたいして、ヘルメスから伝わる叡智を参照して、君主としてのあるべき教えを説くというスタイルがとられている。これらの文書群は後代のイスラム圏におけるオカルト諸学とその周辺で参照され、ラテン語にも翻訳されたことが知られています(この点は §3 でも言及する)。ただ、実際のところ、これらの文書群がハッラーンの星辰崇拝とどう関係するかは、いまだ明らかになっていません。一見すると、ハッラーンのサービア教徒の教説を明確に記した最初のアラビア語ヘルメス関連文書にもみえますが、ハッラーンとは一切関係がなく、むしろ架空の「サービア教」(9-10 世紀に星辰魔術に関心をよせ、アラビア語で執筆した知識人たちが、想像のなかで再構成した「異教」)の内容を反映させた書物群という可能性も、つとに指摘されています。その実態が明らかになるには、研究の進展を待つほかありません(現時点では批判的校訂版も作られていない)。
* 哲学と魔術にかんするアラビア語偽書作品群は、9-10 世紀に豊かな発展をみせました。擬アリストテレス、擬テュアナのアポロニオス、そして錬金術師ジャービル・イブン=ハイヤーンの偽名をかたって著作をものした人々は皆、ヘルメスに帰された作品をこぞって引用したそうです。
ともあれ、このような星辰崇拝に彩られたヘルメス表象をたずさえて、一部のハッラーン人がバグダードに移住しだすのが 9 世紀。彼らはカリフの宮廷でギリシアの学術文献の翻訳者等として活躍したため、当時の宮廷で支配的だったイスラム的規範も意識的に受け入れていったといわれます。さらに(これは van Bladel 自身は指摘していない点ですが)10 世紀になると、伝承学を中心とするスンナ派正統信仰の基礎が出来あがり、アッバース朝も基本的にその路線を採用します(それ以前はいわゆる理性主義的傾向の強いムウタズィラ派神学を保護し、伝承学者を弾圧していた)。このような時代状況をうけ、バグダードで活動したハッラーン人たちもより意識的にイスラム教に同化していく。そしてこれと軌を一にする形で、ハッラーン的「預言者ヘルメス」観そのものがイスラム教徒にも受け入れやすいものへと変容していくわけです。
* この時代、『ヘルメスの法』(Nawāmīs Hirmis)とよばれる書物が成立します。といっても、後代の史料での言及から書名のみ伝わっている状態なのですが(94 頁)、バグダード在住のハッラーンのサービア教徒の信仰内容を記録したアラビア語の史料だと推定できるそうです。そして基本的にはイスラム法の言葉を操る預言者としてヘルメスを描く内容になっていると、そう考えてよいと書かれているように見えます(236 頁、このへんは論述が複雑できちんとフォローできていません)。この文書の成立には、スィナーン・イブン=サービト・イブン=クッラ(942-43 年没)が係っていた(具体的には、シリア語オリジナルをアラビア語に訳した可能性がある)らしいのですが(92-94 頁)、先取りしてのべれば、これが(どういう経路をたどってかは不明であるものの)後代とても広く読まれることになるムバッシル・イブン=ファーティク(11 世紀)の『叡智の選集』(K. Muḫtār al-ḥikam)中で、かなり広範に参照されている、と考えられるんだとか。『ヘルメスの法』を参照しつつ『叡智の選集』が描きだす「ヘルメスの法」は、もはや儀礼についての規定などの点でイスラム法と対応する内容になっているんだそうです(95 頁)。
3. ムスリム学者による受容(1):「預言者ヘルメス」の導入(9-11 世紀頃)
「ヘルメスは旧約のエノク、コーランのイドリースであり、諸天に昇ってさまざまなヴィジョンを目にし、天使たちから自然学と占星術にかんする秘密の知識を授けられた預言者である」。9 世紀中葉(840 年代)、このような主張の存在していたことを、大学者ジャーヒズ(868 年没)はすでに耳にしていました(236-37 頁)。それからほどなくして占星術師アブー=マアシャル(886 年没)の頃になると、イスラム教徒の側から主体的に「ヘルメスは実際にイドリース=エノクであった」と明確にのべるようになります。歴史占星術書『幾千の書』(K. al-ulūf)において、アブー=マアシャルは上述のイラン系とハッラーン系ふたつのヘルメス伝承を綜合し、ヘルメス・「トリスメギストス」の伝説にならって、3 人のヘルメスの伝記を構成しました(『幾千の書』は全体としては散逸しているが、後の史料で広く引用されているため、一部のみ内容を再構成して校訂済、122-23 頁)。曰く、一人目は洪水以前のヘルメス。彼は諸学をつかさどる預言者(prophet of the sciences)であった。二人目は洪水以後のヘルメス。彼は一人目のヘルメスが碑文のかたちで残した教えを再興した人物である。そして三人目はエジプト人の賢者である、と。これが以後のアラビア世界で繰り返し参照される、ヘルメスの伝記の主要ソースのひとつになります。
ヘルメス=エノクによる天界飛翔(とそれにともなう自然学・占星術関係の秘密の知の獲得)という伝説は、アブー=マアシャル以後、どんどん一般化していきます。10 世紀の最初の 10 年間、カイラワーンとイラク北部で宣教活動に従事していたイスマーイール派の宣教員たちも、すでにこのストーリーのヴァリアントを受け入れ、自派の啓示論(「人間の有する知識は全て根源的には理性でなく啓示をとおして獲得される」)を裏書きする目的で利用しました。ちなみにこの天界飛翔ストーリーはイラクやシリアから遠く離れた地域でも見てとれるらしく、ここから van Bladel は 9 世紀末のイスマーイール派による宣教活動によってヘルメス伝説が遠方にまで流布した可能性を指摘しています(237 頁)。それから数十年経つと、天界飛翔伝説は有名な『リンゴの書』(Kitāb at-Tuffāḥa)で扱われることになります。後代(12 世紀以降?)のアラビア哲学の著作では、もはやエノクの名が完全に省略され、天界に飛翔し、天上の秘密を知った預言者としては、ただヘルメスの名を挙げるだけの例も出てきます。このようなパターンの構成を初期の時点で提示し、以後数世紀、アラビア世界のヘルメス表象に大きな影響を与えたのが、この『リンゴの書』です。歴史家たちによれば、この論考はプラトンの『パイドン』(死を前にしたソクラテスが弟子に「死を恐れるな、魂は不滅だ」と説く)をモデルに著されています。『パイドン』同様、死を前にした賢者がヘルメスの伝説を参照しながら、弟子に死を恐れぬよう勧告し、魂の不滅性(来世)を説くわけです。
* ただしここでもヘルメスはあくまで古代の権威の一人として言及されるだけで、対話それ自体には参加しません(222 頁)。さらに興味深いのは、写本伝承に大きく 2 つのバージョンがあり、一方では『パイドン』同様、ソクラテスが語り手になっているのにたいして、もう一方ではアリストテレスが語り手になっているということ(!)。このあたりには、非常に複雑な背景があるようです(176 頁)。
** 『リンゴの書』は 13 世紀になると、バーバー・アフダル・カーシャーニー(後述)によって、ペルシア語に翻訳されます。『リンゴの書』はさらに 1235 年にバルセロナでヘブライ語に訳され、これが 1255 年にシチリアでラテン語に翻訳されました。こうして Liber de pomo の名を与えられた同書は、その後のヨーロッパの学者のあいだで広く知られることになるわけです。(175-76 頁)。
こうして 10 世紀に入ると、スンナ派正統信仰の基礎ができあがり、アッバース朝宮廷もその路線を採用します。そのため、バグダード在住のハッラーン人たちも意識的にイスラム教へと同化していく。そしてこれと軌を一にする形で、ハッラーン的「預言者ヘルメス」観そのものがイスラム教徒にも受け入れやすいものに変容していく。これは §2 で説明したとおりです。ただしアブー=マアシャルをのぞけば、この時点でのイスラム教徒自身のあいだでのヘルメス人気は、まださほど高くありませんでした。(ほぼ?)唯一の例外となるのが、10 世紀バスラで活動した混淆主義的哲学者集団イフワーン・サファー。いわゆる純潔同胞団です。11 世紀以前に活動した初期の哲学者(それ以外の人々はまだヘルメスに見向きもしなかったのか、ここで著者は話を哲学者に限定します)、たとえばファーラービー(950 年没)、ヤフヤー・イブン=アディー(974 年没)、アヴィセンナ(1037 年没)、ガザーリー(1111 年没)らの体系において、ヘルメスは全く重要視されていなかったんだそうです。何故なら哲学のカリキュラムは基本的に古代末期のアリストテレスやプラトンへの注釈者たちから受けつがれてきた複数のモデルにもとづき、細心の注意を払って構築された体系を持つわけですが、そこにそもそもヘルメスやヘルメス関連文書が占めるべき座を持たないから。緊密に構築された体系のなかに異物を混入することは難しいというわけです。たしかに上述のキンディーや『リンゴの書』のような例もないではないですが、そこでもヘルメスは別段特別な地位は与えられていない(222 頁)。そこへ来ると、純潔同胞団はちがいます。ヘルメスにきわめて重要な役割を与えます。他の預言者や古の賢者たちと並べたてるだけではありません。擬アリストテレス・ヘルメス関連文書(上述)を参照し、ヘルメスの叡智にもとづいて自説を展開するのです。このようなヘルメスに体系の重要な一部を担わせるイフワーンのアプローチは、同時代においては孤立した例外でした。けれども後代に大きな影響をおよぼすのは、むしろ彼らのこうしたアプローチなのだと、van Bladel は論じます(222 頁)。実際、彼自身は指摘していませんが、純潔同胞団の『書簡集』は後のガザーリーやイブン=アラビー(1240 年没)にも強い影響を与えることになります。また純潔同胞団と時をほぼ同じくして、西方アンダルスの地で活動したクルトゥビー(964 年没)という学者が星辰魔術書『賢者の目標』(Ġāyat al-ḥakīm)、つまりかの有名な『ピカトリクス』(Picatrix)のアラビア語原典にあたる書物を著しますが、同書でも擬アリストテレス・ヘルメス関連文書(『イスタマーヒースの書』と『ウストゥウワタースの書』)が参照されることになります(101 頁)。
11 世紀に入ると、後代のヘルメス表象に多大な影響を与える書物が、新たに 2 点現れます。ムバッシル・イブン=ファーティクの『叡智の選集』(K. Muḫtār al-ḥikam)と著者不詳『叡智の戸棚』(Ṣiwān al-ḥikma)。いずれも哲学者 / 賢者の知恵文学的伝記集です。前者は 1048/49 年に成立。10 世紀バグダードで活動したハッラーンのサービア教徒たちのヘルメス観を記録した『ヘルメスの法』(Nawāmīs Hirmis)なる書物(散逸、上述)がありますが、これを広範に利用しているようです。他方、後者、つまり『叡智の戸棚』は 1000 年頃の成立。先に紹介したアブー=マアシャル『幾千の書』の圧倒的影響下にあります。ただしオリジナルは散逸し、現在はいくつかの簡約版と派生テクストをとおして知られるのみ。最重要の簡約版は『叡智の戸棚選集』(Muḫtār Ṣiwān al-ḥikma)、1191-1241 年頃の成立です。これ以降、イスラム圏でヘルメスについて語る書物は、基本的にこの二つの書物と前述のアブー=マアシャル『幾千の書』にみられる伝記的記述を適宜ブレンドして論述を行うことになります。次節でみるイブン=キフティー、イブン=アビー=ウサイビア、グレゴリウス・イブン=イブリー(バルヘブラエウス)、そしてシャフラズーリーは、その典型です(185 + 222 + 236 頁)。
* ムバッシルの『叡智の選集』は 13 世紀にはスペイン語とラテン語に、1400 年頃にはフランス語に、そして 15 世紀にはプロヴァンス語と英語にも訳され、西欧でも広く知られることになったそうです(185 + 236 頁)。
4. ムスリム学者による受容(2):「サービア教徒」の追放とヘルメス観の固定(12-13 世紀を中心に)
ここで著者は 12 世紀前半のイラン東部から、興味深い事例をひとつ紹介します。1128 年、ホラーサーン地方北部で活動した神学者シャフラスターニー(1153 年没)が、分派学書『諸宗派と諸宗教の書』(K. al-milal wa-n-niḥal)を著しました。アヴィセンナ哲学の影響下にあり、親イスマーイール派的傾向をも示す彼は、この著作のなかで「サービア教徒」の教説を論駁します。ただし、あくまで「彼が理解したかぎりでのサービア教徒」という点に注意が必要です。何故ならハッラーンから移住してきたサービア教徒は、12 世紀初頭の時点ですでに消滅していた。つまり皆、イスラム教に改宗していたからです。もちろん「湿地のサービア教徒」=マンダ教徒は依然として存在していましたが、都市部からみて周縁的な場所に集住していた彼らがこの時代のアラビア語文献で言及されることはめったにありません(221 頁)。シャフラスターニーのいう「サービア教徒」は、当時の社会に実在しなかった、記憶のなかで再構成された存在ということになります。
* ただし「サービア教徒」が架空の「異教」しか意味しないような用例は、すでに 10 世紀以降からみられるようです(101 頁ほか)。
そんな架空の「サービア教徒」を、彼は上述の分派学書で論駁する。具体的には「一神教徒」のカテゴリーから除外してしまう。彼によれば、「一神教徒」(ḥanīf)とはイスラム教徒(muslim)の同義語に他なりません。当然、サービア教徒はイスラム教徒でない、だから一神教徒でもない、と、畢竟するにそういうことです。では、一体どういう理屈で彼はサービア教徒のことを一神教徒でないと断じるのか。シャフラスターニー曰く、サービア教徒たちはヘルメスが天上の「霊的存在」(rūḥāniyyāt)のもとに飛翔したことばかりを主張して、その逆を信じない。天使が物事を教えるために、人間のもとに下降することを、彼らは決して信じようとしない。シャフラスターニーが指弾するのはこの点です。なにせ、天使の存在はイスラム教の六信のひとつ。それを受け入れないなら、大問題になります。しかし重要なのはここから。だからといって、シャフラスターニーもサービア教徒が崇敬していた預言者ヘルメスの存在を受け入れること自体は拒否しません。彼にとっても、ヘルメスは偉大な預言者イドリースと同一人物なのです(この同一視自体は §3 で上述のとおり、9 世紀までさかのぼります)。かくして彼は次のようにいいます。
あなたがた〔サービア教徒〕は偉大なるヘルメスが霊的世界(al-ʿālam ar-rūḥānī)へと昇り、彼ら〔天使たち〕の位階に参入した(fa-nḫarata fī silki-him)と主張する。人間が天へ昇ることを考えながら、何故、天使が地上に降り来ることは考えないのか。〔人が〕人としての衣を脱ぎ去ることを認めながら、天使が人としての衣を身につけることがありえないというのか(220 頁)。
〔ヘルメスは〕もっとも偉大な預言者のひとりに数えられる。彼こそは預言者イドリースであり、十二宮と惑星の名と印(zodiacal signs)を決められた御方。それらを個々の家に並べ、アセンダントとディセンダント、遠地点と近地点を定めた御方。三分〔120 度〕と六文〔60 度〕、四文〔90 度〕のアスペクトを定め、対、合、逆行、順行の動きを定め、惑星の対応関係と真の位置を説明された御方(220 頁)。
シャフラスターニーが行ったのは、言ってみれば、スキャンダラスな剽窃、あるいはヘルメスの簒奪です。「天界へ飛翔した一神教の預言者」としてのヘルメス観自体は正しいと受け入れながら、その背景にあったサービア教徒の星辰崇拝(と彼が考えたもの)は正しくないと拒絶し、一神教のアリーナから追放する。ヘルメスの伝記を神学的議論に援用する例は、シャフラスターニー以外にほとんどないそうですが(220 頁)、彼のそうした議論は見ようによっては、イスラム教徒がアラビア世界でマジョリティを形成しはじめた 12 世紀という時代にあって、ヘルメスの存在も徐々にイスラム化されていく、そのプロセスを如実に象徴するものだったと言えるでしょう(私見)。いずれにしても、以上のような神学的議論を作りあげる際にシャフラスターニーが大幅に依拠したのが、件の伝記集『叡智の選集』と『叡智の戸棚選集』所収の知恵文学的記述です。
* ちなみに最近の研究 Noble (2021) では、ファフルッディーン・ラーズィー(1209 年没)の星辰魔術に同様の傾向が指摘されています。彼もまた「サービア教徒」をスケープゴート化して批判しつつ、彼らに帰される星辰魔術を(アヴィセンナ哲学、特に魂論の改変をつうじて補強し)受け入れていたようです。
そうして 13 世紀になると、上述のさまざまな先行ソースにもとづきつつ、装いも新たな歴史書、より具体的には、哲学史、そして広義の科学史を記録・編纂した書物が現れます。§3 末尾でふれたイブン=キフティー(1248 年没)、イブン=アビー=ウサイビア(1270 年没)、バルヘブラエウス(1286 年没)、シャフラズーリー(1288 年頃没か、§5 で後述)は、この時代を代表する史書作家。そのなかでも後代のムスリム社会への影響が格段に大きかったのが、イブン=キフティーの『賢者列伝』(Taʾrīḫ al-ḥukamāʾ)とイブン=アビー・ウサイビアの『記録の典拠』(ʿUyūn al-anbāʾ)です。前者はコンセプトとしては、哲学史書。本体は散逸し、ザウザーニーによる縮約版をつうじてのみ伝存していますが、ムバッシルの『叡智の選集』に大幅に依拠していることが知られています(211 頁)。他方、後者、つまり『記録の典拠』は、医学史書。いずれも古代から 13 世紀に知られていた哲学者、医者、さまざまな学者にいたるまでの系譜を網羅的に記録したもので、ここにヘルメスが確固たる位置づけを与えられるわけです。知的選良が習熟すべき叡智・学知の歴史にヘルメスの存在を統合しようとする試みは、すでに先行する知恵文学的な伝記集が着手してはいましたが、van Bladel によれば、イブン=キフティーとイブン=アビー・ウサイビアはそうした統合を不可逆的なものにしたのだといいます(229-30 頁)。換言すれば、13 世紀以後、ムスリム学者たちは皆、ヘルメスを哲学者や医学者たちの連綿とつづく系譜のなかで捉えるようになり、そこから外れるヘルメス理解は現れなくなっていきます。
* ただし van Bladel は触れていないようですが、イブン=キフティーとイブン=アビー=ウサイビアはいずれもエジプトとシリアを中心に活動した学者です(前者はカイロ、エルサレム、アレッポで、後者はダマスクス、カイロで)。この地域周辺で編まれた 14 世紀以降の史料では、かなり広く参照されていたようですが(大渕くん情報)、それ以外の地域での利用の実態はどうなのか、不明です。そもそも「不可逆的」(irreversible)などと言いながら、具体的な典拠は示されていません。以下で見るように、13 世紀以降の事例も断片的に拾ってはいますが、それだけでは不可逆的と断定するには弱すぎる。この点は注意が必要だと感じます。
5. 哲学、スーフィズム、魔術との関係:魂論と擬アリストテレス・ヘルメス関連文書など(11-12 世紀以降)
最後に少し視点を変え、11-12 世紀頃に焦点を当てて、哲学、スーフィズム、魔術の伝統におけるヘルメス観とヘルメス関連文書の受容(と創作!)が論じられます。先に 11 世紀以前までの哲学の伝統においては、基本的に(純潔同胞団の例をのぞけば)ヘルメスの占めるべき場所がなかったといいました(§3 参照)。しかし 12 世紀以降、とりわけスフラワルディー(1191 年処刑)の出現によって、こうした事態は一変します。彼の照明哲学が絶対者(「光の光」)についての神秘主義的根本直観とアヴィセンナ以降のアラビア・アリストテレス主義哲学の綜合によって生まれたことは、周知のとおり。ですが、それが全てではありません。彼は生前、星辰魔術の実践者としても知られており、むしろ魔術をもちいて為政者の政敵をかつぎ、クーデターを企てたとの弾劾を受けた結果、処刑されるにいたったのです。後述のとおり、彼の世界観においてヘルメスは確固たる位置をしめている。彼以降、哲学の伝統でも、このような傾向が強くなっていきます。
* どういうわけか著者はイブン=アラビー(1240 年没)と彼の一派にほとんど言及しませんが、12-13 世紀以降のイスラム圏のインテレクチュアル・ヒストリーを論じる際、彼(ら)の存在を無視することは不可能です。もう少し研究が進まないと確定的なことは言えませんが、私の見立てでは、イブン=アラビー(派)の世界観においてヘルメスは、少なくともスフラワルディー(派)と同程度、重要な役割を担います。
** また正確にいうと、「哲学の伝統でもヘルメスの存在が広範に受け入れられていく」というのは、少し語弊があります。アヴィセンナ以後、彼の哲学の影響はスーフィズムだけでなく、カラーム(護教神学)や法学など、およそあらゆる学問領域におよびます(たとえばこちらのブログ記事を参照)。魔術も例外ではありません。その意味では哲学の影響下にない、あるいは「哲学的でない」もののほうが例外になっていくともいえるでしょう。§4 でまとめたとおり、13 世紀頃からヘルメスはオカルト諸学(特に占星術、錬金術、魔術)とのつながりから解き放たれ、より広い読者の目にふれる広義の科学史書に占めるべき位置を与えられます。彼の名が知のさまざまな境界を越境し、より広い領域で受け入れられていく過程は、ディシプリン間の境界線そのものがボヤケはじめる過程と、相互浸透的に共起していたと私は考えます。
とはいえ、スフラワルディーも(イブン=アラビーも)全くの無から新しい世界観を生みだしたわけでは当然ありません。鍵になるのは、アリストテレス主義の魂論とコスモロジー(特に De anima III.5)だと、van Bladel はいいます。ファーラービー以後のアリストテレス派は「能動知性」と呼ばれる不滅の非物質的実体の存在を唱えるようになります。彼らによれば、能動知性とは一者から連続継起する一連の知性体流出の終局点。それは人間による全ての知解活動の原因(cause)で、しばしば光の比喩によって叙述されるもの。そしてこの能動知性論が、とりわけアヴィセンナ以降、さまざまな学問領域で受け入れられていくのです。例えばガザーリーも能動知性を天使と見ていた節がある。ファーラービーやアヴィセンナのように、預言者とは能動知性からの流出を受けとることができ、それにより超常的、まさに「預言者的」なレベルの知に到達できる「完璧な本性」を有する人物だと、そう考える哲学者もいました。ここまで来れば、能動知性の照明を受けた預言者としてヘルメスを理解するまでの道は、もうそう遠くはありません。かくしてヘルメスの神話はアリストテレス主義哲学の体系(万物を考察しようとする)に適合され、その枠組みから説明されることになるのです。
* たとえば(と、ここで著者の挙げる例がどれもアンダルスなのは気になりますが)、アンダルスの哲学者イブン=バーッジャ(1139 年没、ラテン名アヴェンパケ)は、ファーラービーの諸著作にもとづきつつ、「ヘルメスとアリストテレスは能動知性にふれることができた点で、ともに等しい〔位階〕にある」と主張しました。同じくアンダルスで活動したヤフーダー・ハレヴィ(1141 年没)は、今度はイブン=バーッジャの著作にもとづきつつ、「天使にも似た能動知性(angelic Active Intellect)との合一を得た人々は完全人間(al-insān al-kāmil)の階梯に達したあと、その天使〔的知性〕とひとつになり、かつて同様の知性的合一を果たした他の哲学者たち、例えばヘルメスやアスクレピウス、ソクラテス、プラトン、アリストテレスらの仲間にくわわる」と、そう論じたそうです(222-23 頁)。スーフィー哲学者イブン=サブイーン(1269-71 年頃没)も哲学大全『真知者必修』(Kitāb budd al-ʿārif)の本論冒頭部で「第一アイオーンのヘルメスたちが象徴的に表した叡智を顕示なさるよう、偉大なる神に祈りたてまつる」と記しています(229 頁)。
このような流れと軌を一にして活動したのが 10 世紀バスラの純潔同胞団であり、それら全ての延長線に現れたのがスフラワルディーです(本当はイブン=アラビーもなんですが…)。アラビア語とペルシア語で著述した彼は『解明』(at-Talwīḥāt)において、イフワーン・サファー同様、こういいました。最高度の霊的次元に達した古代の賢者たちは魂のレベルで(psychically)上位の世界に飛翔した。そしてその最初の人物がヘルメスだった、と。曰く:
〔古代の哲学者たちは〕皆、次の点で見解の一致を見ている。すなわち、自身の肉体を脱ぎ捨て、諸感覚を放棄する能力を有する者ならば、誰であれ上位の世界へ昇りゆく〔ことができる〕と。また彼らはヘルメスがその魂において上位の世界に昇ったこと、そして他の天界飛翔者たちも同様に〔上位の世界に昇った〕ということについても、見解を等しくしている。賢者であれば、肉体を脱ぎ捨て、飛翔するための本性を欠くことは決してない。哲学者〔賢者〕を模倣する惑乱の物質主義者どもに注意を払うのはやめよ。何故ならコト〔世界の実相〕は彼らが断言するよりも〔理性で把握できるようなレベルよりもずっと〕偉大であるから。
スフラワルディーはいくつもの著作で、エンペドクレス、アガトダイモン、そしてプラトンとならび、ヘルメスの名をしばしば先達として挙げています。彼らの教説を受けつぎ、再興するのが自分なのだと、そう主張しながら、そのじつ、彼らに帰される著作や学説に直接レファレンスすることは、ほとんどありません。したがって、ヘルメス関連文書との接点も基本的には希薄。ではあるのですが、注意深く検討すると、彼のヘルメスへの言及のソースを明らかにできる例も二点だけ存在するとのこと。ひとつは古代史の年代記(といいながら、具体的にどんな年代記かの説明は van Bladel 自身は示さず、注の先行研究にゆずります)、もうひとつは上述の擬アリストテレス・ヘルメス関連文書『イスタマーヒースの書』の冒頭数頁。ヘルメスが自らの「完全な本性」と出会い、会話する場面です。いずれも『散策と議論』(al-Mašāriʿ wa-l-muṭāraḥāt)中で参照されるのですが、より重要なのは後者。彼はこれをもちいて、「種の主」(rabb an-nawʿ)という彼特有の術語(非質料的で光の性質をもつ何か、種のイデア的形相のようなものとされる)の意味を説明します。
エンペドクレスやアガトダイモンらが諸々の「種の主」〔の存在〕を示唆するのを聞くとき、〔あなたがたは〕彼らの意味するところを〔正しく〕理解しなければならない。彼らが「種の主」を物質ないし物質的なものであり、ひとつの頭と二本の脚を有する〔何かとして理解していた〕、などとは考えてはいけない。ヘルメスはこういっている。「或る霊的実体〔ḏāt rūḥāniyya〕が私に真知をもたらした。それ〔霊的実体〕にたいして私が『あなたは誰だ?』と問うと、それは『私はあなたの完全なる本性だ』と答えた」と、そう言った。この言葉を目にしたとき、あなたはそれ〔霊的実体〕が私たちと同じようなものを意味しているとは考えてはならない。この点をめぐって彼ら〔古代の哲学者 / 賢者〕に帰されている事柄は全て誤りである。彼らの言葉の精妙な点〔を細心の注意をもって検討すれば、それ〕が〔私の主張〕を裏づける証拠になる〔ことはたしかである〕。だが翻訳者たちや言語の本性〔に起因するさまざまな曲解〕、また彼らの言葉を理解しない輩〔の発言〕を彼ら〔古代の真正の言葉〕としてしまう〔ようなことも起こっている。これら〕にたいしては、非難が向けられねばならない(225 頁)。
スフラワルディーが『イスタマーヒースの書』それ自体から当該の一節を引用したのか、あるいはその一節を引用した何か別の著作、例えばクルトゥビーの『賢者の目標』(§3 で上述)を介在させて間接的に引用したのかは不明。いずれにしても重要なのは、ヘルメスの名を冠した文書を直接参照している唯一の箇所で、スフラワルディーは彼の言葉の正しさをほとんど拒絶しているという点です。これは van Bladel 曰く、スフラワルディーの常套手段だそうで、彼はまずもっとも古く、もっとも純粋な叡智を自分が代表していることを主張します。しかしながら、その後の長い時間のなかで翻訳等をつうじて、本来の意味からズレが生じてしまった。故に現在入手可能なソースは信頼できない。そんなものより自分のほうが彼らの言葉の真意をよく知っている。「だから俺だけ信じとけ」ってなことですね。ちなみに同様の疑念は、ピュタゴラスのものとして伝わるさまざまな見解にも向けられるそうです(225 頁)。いずれにしても、やはり彼にとっても、ヘルメス関連文書よりヘルメスの天界飛翔ストーリーそれ自体のほうがはるかに重要だったのは間違いありません。前節で説明したとおり、13 世紀以降、『叡智の選集』と『叡智の戸棚』によってヘルメスの存在は古代からアラビアにいたる学知の歴史のなかに確固たる位置づけを与えられ、オカルト諸学の枠を越えて、広範な知の領域で参照されるようになっていきます。したがって、ヘルメスの名を唱えただけで、スフラワルディーや彼のフォロワーを「ヘルメス的」(Hermetic)と呼ぶことは決してできません(226 頁)。しかしながら、スフラワルディーの諸著作が後代に絶大な影響を与えたことは、まぎれもない事実。著者自身は直接指摘していませんが、彼の影響は照明学派の垣根をこえて、イブン=アラビー派にもおよんでいきます。その意味では、13 世紀の科学史書と同様、スフラワルディーのヘルメス論それ自体が後代のヘルメス理解をテクスト・レベルで大きく規定したともいえそうです(同頁でそう論じられてるように読めなくもないが、ここまではっきりとは書かれていない)。
スフラワルディーの処刑とほぼ同時期、新たなヘルメス関連文書『魂への非難』(Zaǧr an-nafs)が成立します。プラトンに帰されることも、アガトダイモンに帰されることもある文書ですが、同書の存在に最初に言及したペルシアの哲学者バーバー・アフダル・カーシャーニー(1213-14 年頃没)はこれをヘルメス=イドリースの作としています。そのため van Bladel によれば、もともとはヘルメスの著作として捏造されたのだろうとのこと(226 頁)。カーシャーニー以前にこの文書の存在を示す証言はなく、書簡のやりとりからは、彼が同書を他の人々に宣伝しようとしていた可能性も読みとれるようで、ここから『魂の非難』の著者はカーシャーニー自身という説もあるそうです。なお、彼は同書のペルシア語訳を行っています(『魂の非難と訓告にかんする生命の泉』[Yanbūʿ al-ḥayāt dar muʿātabat va naṣīḥat-i nafs])(175 + 228 頁)。『魂の非難』はアラビア語ヘルメス関連文書としては例外的に、技術的文書ではなく哲学的文書に分類されます。
* アラビア語ヘルメス関連文書には、『魂の非難』以外にもうひとつ、哲学的文書に分類されるものがあります。『天球にかんする偉大なる論考』(Ar-Risāla al-falakiyya al-kubrā)とよばれる小品著作です。著者はデンダラのヘルメス([Hirmis] ad-Dandarī)なる人物(預言者?)で、エジプトのデンダラの街にあるハトホルの神殿(黄道十二宮が描かれた柱で有名)の地下道で「発見」されたと自称する文書。アブー=マアシャル『幾千の書』や擬テュアナのアポロニウスの『創造の秘密』(Sirr al-ḫalīqa)末尾に収録された「ヘルメスのエメラルド板」からの影響が見られるとのこと。冒頭は次のような一節ではじまります。「ヘルメス曰く、至高の光に永遠の奉仕を〔捧げる〕者にとって、物事は〔全て〕望みむようになる。私は驚異の主。七つの天球に飛翔した!私は燦燦たる太陽と皓皓たる月を支配している(malaktu)。叡智の木を植え、その実を食べるものは誰であれ、決して飢えず、飲食を必要とはしない。誰であっても、霊的神的な存在(rūḥāniyyan ilāhiyyan)となり、尽きせぬ知と終わりなき善を手にするのだ」(17 頁 + 181 頁)。
その内容はというと、ヘルメスが「魂」にたいして語りかけ、さまざまな訓告を与えるというもの。その際、魂の持つ「純粋な彼岸的相貌」(a pure, otherworldly outlook)が称揚されるんだそうです。魂は天上の知性界に由来する何かを内に秘めている。だからこそ、人は知性界について哲学的な観照を行うことで、この低劣な質料界からの救済を約束される。とまぁ、そんな内容です。それがいろいろな比喩を交えつつ、語られるわけです。次のように:
おお、魂よ!次に〔挙げるの〕は三つの位階。そのなかでもっとも高次でもっとも美しいもの〔を目指すのだ〕。もっとも低劣な階梯にあるのは、知っていながら行動しない者。喩えとなるのは、武器を手にしながら〔戦う〕勇気を持たない者である。臆病者が武器を手にしたところで、何をなしえようか?第二の階梯〔にあるのは〕知りもせず行動する者。それは勇気はあるものの、武器をもたない者に似ている。何故〔この位階にある者のほうが先に言及した者のそれより上位にある〕かといえば、そもそも武器をもたない者がどうして敵と相対することができようか?〔できはしない。〕だが勇気をもつ者が武器に習熟するのは、臆病者が勇気に習熟するよりも〔容易である〕。それ故、知りもせず行動する者のほうが知っていながら行動しない者よりも、まだ高貴なのだ。そして第三の〔最高次の〕位階〔にあるの〕は、知り、かつ行動する者。これは勇気と武器の双方を有する者のごとくであり、これこそが〔もっとも〕高貴な階梯となるはずである(227 頁)。
おお、魂よ!水中で溺れる者が釣りをすることから、どれほど気を逸らしているだろう!同じように、この世界の住人が自らの此岸での状況のいかに劣悪かを自覚するとき、この世界での財や快から魂の救済によってどれほど気を逸らすだろうか!おお、魂よ!この世界にありながら、あなたには自らがその諸々の道具〔身体各部?〕や対立物〔?〕、穢れから受ける苦しみを十分に知覚できる。自分の道具に別の人間を加えてはならない。〔さもなくば?〕あなたは溺れる者も同然となるだろう。大海にゆだねられ、肩の上には石をかつぐことになるだろう。私の考えでは、溺れる者が独力で大海から助かることなどない。とすれば、肩の上に別の誰かをかついでしまったら、彼はどうして〔助かるというのか〕?(228 頁)
これらの箇所は、van Bladel によると、件の 11 世紀成立の『叡智の選集』と『叡智の戸棚(選集)』に収録されたヘルメスの箴言を自由に膨らませたものに見えるそうです。さらに他の多くの箇所では、純潔同胞団の『書簡集』と『アリストテレスの神学』で唱えられる学説とも類似の学説をとっているんだとか(228 頁)。いずれにしても、13 世紀以後の数世紀、『非難』は非常に広く読まれることになります。写本は少なくとも 24 点伝存していて、そのうちの一部はイスラム教徒だけでなく、キリスト教徒の僧や聖職者によっても伝えられているそうです。ガルシューニー(キリスト教徒がシリア文字で書き記したアラビア語)で書かれた写本が一点あり、他の諸写本中にもキリスト教徒の写字生に特徴的なサインが見てとれる。ここからもわかるように、アラビア語圏において「古の賢者ヘルメス」というモチーフは、イスラム教徒だけにかぎられたアピール力を有していたわけではないという点は、銘記しておくべきでしょう。ムハンマド以前、アリストテレス以前という非常に古い時代の人と考えられていたわけで、その点で汎用性が高かったんですね。アラビア語を読み、かつ哲学にもとづいた彼岸への態度を受け入れ、他人もそうするべきと説得するための根拠を求める者ならば、イスラム教徒だろうがキリスト教徒だろうが、『非難』のうちに求めるものを見いだしたことだろう、とは van Bladel のまとめです(229 頁)。
時をおなじくして、ペルシアの偉大な文人ニザーミー・ギャンジャヴィー(1209 年没)も、ヘルメスについて語ります。古代ギリシアの賢者らについては、彼もやはり『叡智の選集』をつうじて学びました。アレクサンドロスの世界征服を描いた長編韻文叙事詩『栄誉の書』(Šaraf-nāma)とその続編『接近の書』(Iqbāl-nāma)で、彼はギリシア人の王アレクサンドロスが学芸を振興し、哲学者たちを相互に論争させる場面を描いています。たとえば『接近の書』のある場面では、ヘルメスを七賢者の一人としてアレクサンドロスの面前に登場させます。また別の場面では、集会に参加した他のギリシア人哲学者らがヘルメスの圧倒的学識に嫉妬したとも伝えています。70 の賢者が学識者の集会で彼を拒絶することに同意し、そして無視する。そこでヘルメスは彼らを呪う。アレクサンドロスはヘルメスを支持し、70 の賢者の「洪水」(ṭūfān)のなか、ヘルメスのみ無傷だった、と。ここでニザーミーは、識者の言葉に耳を貸さない者への教訓としてヘルメスの名に言及していますが、これ以外にも、彼はさまざまなエピソードに登場します。土星天球までの昇天エピソードは純潔同胞団の『書簡集』にもとづいて、彼の教えが洪水を生き延びた話はアブー=マアシャルの『幾千の書』にもとづいて、そして霊的存在(rūḥāniyyāt)にかんする卓越した知識は擬アリストテレス・ヘルメス関連文書にもとづいて、それぞれ披露されている可能性を、少なくとも van Bladel は示唆しているように見えます(231-32 頁)。
13 世紀に活動した照明学派、つまりスフラワルディーのフォロワーのあいだでも、ヘルメスは引きつづき高い崇敬を集めていました。世紀末のイラン、スフラワルディー派の一人あるシャフラズーリー(§4 参照)は壮大な哲学史書『聖霊の散策』(Nuzhat al-arwāḥ)で、『叡智の選集』が伝えるヘルメスの箴言も全て書き写して、自らの哲学史叙述に取り込んでいます(229 頁)。逆に 13-14 世紀アゼルバイジャンのペルシア詩人シャビスタリー(1321-22 年頃没)は、1317 年執筆の『神秘の薔薇園』(Gulšān-i rāz)でイドリースの昇天を取りあげながら、ヘルメスの名は明言しません。曰く、「彼の者は非難されるべき行為から清められた。これはちょうど第四天球にいる預言者イドリースと同様である」と。著者はこれを「わざわざ名前を出してイドリースと同一人物だと説明する必要すらなくなった、それほどまでに常識化したのだ」と理解しているようです(232 頁)。なるほど、そうかもしれません。15 世紀ヘラートの学者詩人ジャーミー(1492 年没)は韻文著作『アレクサンドロスの叡智の書』(Ḫirad-nāma-ʾi Sikandarī)を、上述のニザーミー『接近の書』をモデルに執筆しました。彼もまたニザーミー同様、ギリシアの全哲学者が自身の格言と教説をアレクサンドロスの宮廷で語るという架空の設定を採用して、分量的には多くないものの、ヘルメス・エピソードも披露しています(232 頁)。
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このようにヘルメスの名は時代を経て、占星術や錬金術のような特定のオカルト学分野を越え、多様な書き物の分野で受け入れられていきます。歴史叙述、知恵文学、哲学、スーフィズム、歴史、伝記、さらには詩作のような領域にまで、ヘルメス論は入り込む。こうして古代人ヘルメスについての知識は、他のさまざまな事柄とならび、「学識」の重要な判定基準にすらなっていくのです(232 頁)。ちなみに著者自身は指摘していませんが、ジャーミーは反オカルト学的傾向を有しているため、その彼がヘルメスを賢者として扱っているというのは、もはやこの時点でヘルメスが脱オカルト化されていたことの証左といえるかもしれません。こうしたアラビア語ヘルメス関連文書やヘルメスへの崇敬は、少なくとも 18 世紀まで、文学伝統の内部で絶え間なく再生産されつづけます。そこに大きな転換をもたらしたのが、ヨーロッパ列強による中東の植民地化と印刷技術・近代的教育システムの導入です(238 頁)。伝統的な学芸、ならびにそれと不可分の関係にあった写本作成技術が凋落の途についたとき、両者と密接な関係を築いた(築いてしまった)アラビアのヘルメスも、ともに学問の表舞台から消えゆく運命にあったのでしょう(私見)。
参考資料
- 大橋喜之訳 (2018):「『アストゥタスの書』」.(おそらく上述の擬アリストテレス・ヘルメス関連文書の『ウストゥウワタースの書』のラテン語版からの翻訳)
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