Aladdin, B. (éd. [1995]): ʿAbd al-Ġanī al-Nābulusī (1143/1731). al-Wuğūd al-ḥaqq. Damas: Institut français de Damas. 9-82 [Fr. Intr.].
オスマン朝後期の存在一性論者ナーブルスィー(1731 年没)の著作『真なる存在 al-Wuğūd al-ḥaqq 』の校訂・解説を行った浩瀚な一冊から、これまたマッスィヴな序論部の解説を拾い読み。ただし今回のメモはあくまで自分に関係のある箇所だけ(pp. 25-29, 31-41, 45-52, 58-60)の、拾い読みのさらに拾い読みで、しかも仏語辞書がかびていて使う気がせず、辞書なしで流し読みしただけということもあり、全体の論旨はきちんと把握できていないということを告白しておきます。
ナーブルスィーは『真なる存在』のなかで、先行する神学者による存在一性論批判を反駁しています。彼の主たる反駁対象は、タフターザーニー(1389/90 年没)です。彼は同書のなかでタフターザーニーによる批判の論点を 7 つにまとめ(pp. 45-52)、これを逐一批判しています。しかしここで注意しなければならないのは、このタフターザーニーからの批判というのは、しばしば彼に帰される存在一性論論駁書『無神論者の破廉恥 Fāḍiḥat al-mulḥidīn 』に見られる批判のことを指すのではないということです。この著作は実際には彼でなく、彼の弟子であるアラーウッディーン・ブハーリー(1437 年没)が 1431 年 4 月頃に著したものです(p. 16)。むしろナーブルスィーが『真なる存在』中で論駁しているのは、タフターザーニーが主著『神学の目的注釈 Šarḥ al-Maqāṣid 』で展開している批判と重なるのだといいます(『無神論者の破廉恥』が『神学の目的注釈』からの強い影響下に著されたことは事実であるものの、仔細に比較検討してみると、ナーブルスィーの反駁はソースである『神学の目的注釈』の方での批判にさかのぼったものだということがわかるらしい)。
ちなみに以前読んだKnysh の研究(注 1)では、たしか『無神論者の破廉恥』中で展開されている批判はイブン=タイミーヤ(1326 年没)が行った批判と軌を一にする部分があるということでしたが(この点、記憶ちがいもあるかもしれないので要注意)、そもそも著者 Aladdin によれば、タフターザーニーとちがって、イブン=タイミーヤの存在一性論理解はかなり雑なもので、タフターザーニーが実際にこれを読んでいたとしたら、驚くしかなかっただろう、とのこと(pp. 28-29)。さらに、たしかに Knysh の言うとおり、ファラオの信仰の問題などをめぐっては、ブハーリーの議論と先行するイブン=タイミーヤのそれとのあいだには共通点が見られるけれども、基本的には両者のあいだにあったのは対立関係だったのだのだそうです。というのも、当時のダマスクスではアシュアリー派対ハンバル派の熾烈な闘争が繰り広げられており、ブハーリーはアシュアリー派陣営に属しながら、ハンバル派批判を展開していたからです。
存在一性論に対する批判としては、タフターザーニーのもの以外にも、ジュルジャーニー(1413 年没)によるものがあります。ただしジュルジャーニーの存在一性論に対する態度は、タフターザーニーのそれとはちがい、かなり錯綜しているようです(pp. 58-59)。彼が同論に対してよい印象をもっていなかったということは、彼の主著『神学教程注釈 Šarḥ al-Mawāqif 』(イージー[1355 年没]著『神学教程』に対するもっとも代表的な注釈)から見てとれます(ただしこれはイージーの本文に従った結果、そうなったのかもしれないとのこと)。その一方で『信条傍注 Ḥāšiyat at-Tağrīd 』(トゥースィー[1274 年没]の『信条の抽出 Tağrīd al-iʿtiqād 』に対する傍注)では、彼のとる立場はもう少し中立的なものとなり、そしてさらにペルシア語著作『存在に関する論考 Risālat al-wuğūd 』では、逆に存在一性論者のことを「一神教徒のスーフィー(ṣūfiyya muwaḥḥidūn)」と呼ぶまでに至るといいます。ナーブルスィーの議論はこのうち『存在に関する論考』中に示されたジュルジャーニーの議論と類似点があるとのことですが、おそらく著者の書きぶりから察するにナーブルスィー自身が彼の名に明示的に言及しているわけでもなさそうです。
最後に少し興味深い点が本序論中で指摘されていたことを報告しておきます。後期の存在一性論者がしばしば参照する Laṭāʾif al-aʿlām と呼ばれる著作。この著作は大きくわけて、クーナウィー(1274 年没)著者説とカーシャーニー(1330 年頃没)著者説とが併存し、帰属問題が紛糾していたのですが、Aladdin によると、その本当の著者はクーナウィーの直弟子の 1 人であるファルガーニー(1300 年頃没)だったのだそうです(pp. 40-41, note 38)。このことを彼は個人的な史料調査の結果知った(大意)とのことですが、その調査の内実については明かされていません。彼はその傍証の 1 つとして、Laṭāʾif al-aʿlām に見られる議論とほとんど同内容の議論がファルガーニーの『ターイーヤ注釈 Mašāriq ad-darārī 』中で示されているという点を挙げていますが、これが一体何の傍証になっているのでしょうか。少なくともクーナウィー説は、ファルガーニーがクーナウィーの著した同書を『ターイーヤ注釈』中で参照しているという可能性を排除しないと思うのですが(ただしこの点も、私の仏語読解能力に起因する誤読かもしれないので、要注意です)。
注1: A. D. Knysh (1999): Ibn ʻArabi in the Later Islamic Tradition. The Making of a Polemical Image in Medieval Islam. Albany: SUNY Press. 87-111 & 141-65.
オスマン朝後期の存在一性論者ナーブルスィー(1731 年没)の著作『真なる存在 al-Wuğūd al-ḥaqq 』の校訂・解説を行った浩瀚な一冊から、これまたマッスィヴな序論部の解説を拾い読み。ただし今回のメモはあくまで自分に関係のある箇所だけ(pp. 25-29, 31-41, 45-52, 58-60)の、拾い読みのさらに拾い読みで、しかも仏語辞書がかびていて使う気がせず、辞書なしで流し読みしただけということもあり、全体の論旨はきちんと把握できていないということを告白しておきます。
ナーブルスィーは『真なる存在』のなかで、先行する神学者による存在一性論批判を反駁しています。彼の主たる反駁対象は、タフターザーニー(1389/90 年没)です。彼は同書のなかでタフターザーニーによる批判の論点を 7 つにまとめ(pp. 45-52)、これを逐一批判しています。しかしここで注意しなければならないのは、このタフターザーニーからの批判というのは、しばしば彼に帰される存在一性論論駁書『無神論者の破廉恥 Fāḍiḥat al-mulḥidīn 』に見られる批判のことを指すのではないということです。この著作は実際には彼でなく、彼の弟子であるアラーウッディーン・ブハーリー(1437 年没)が 1431 年 4 月頃に著したものです(p. 16)。むしろナーブルスィーが『真なる存在』中で論駁しているのは、タフターザーニーが主著『神学の目的注釈 Šarḥ al-Maqāṣid 』で展開している批判と重なるのだといいます(『無神論者の破廉恥』が『神学の目的注釈』からの強い影響下に著されたことは事実であるものの、仔細に比較検討してみると、ナーブルスィーの反駁はソースである『神学の目的注釈』の方での批判にさかのぼったものだということがわかるらしい)。
ちなみに以前読んだKnysh の研究(注 1)では、たしか『無神論者の破廉恥』中で展開されている批判はイブン=タイミーヤ(1326 年没)が行った批判と軌を一にする部分があるということでしたが(この点、記憶ちがいもあるかもしれないので要注意)、そもそも著者 Aladdin によれば、タフターザーニーとちがって、イブン=タイミーヤの存在一性論理解はかなり雑なもので、タフターザーニーが実際にこれを読んでいたとしたら、驚くしかなかっただろう、とのこと(pp. 28-29)。さらに、たしかに Knysh の言うとおり、ファラオの信仰の問題などをめぐっては、ブハーリーの議論と先行するイブン=タイミーヤのそれとのあいだには共通点が見られるけれども、基本的には両者のあいだにあったのは対立関係だったのだのだそうです。というのも、当時のダマスクスではアシュアリー派対ハンバル派の熾烈な闘争が繰り広げられており、ブハーリーはアシュアリー派陣営に属しながら、ハンバル派批判を展開していたからです。
存在一性論に対する批判としては、タフターザーニーのもの以外にも、ジュルジャーニー(1413 年没)によるものがあります。ただしジュルジャーニーの存在一性論に対する態度は、タフターザーニーのそれとはちがい、かなり錯綜しているようです(pp. 58-59)。彼が同論に対してよい印象をもっていなかったということは、彼の主著『神学教程注釈 Šarḥ al-Mawāqif 』(イージー[1355 年没]著『神学教程』に対するもっとも代表的な注釈)から見てとれます(ただしこれはイージーの本文に従った結果、そうなったのかもしれないとのこと)。その一方で『信条傍注 Ḥāšiyat at-Tağrīd 』(トゥースィー[1274 年没]の『信条の抽出 Tağrīd al-iʿtiqād 』に対する傍注)では、彼のとる立場はもう少し中立的なものとなり、そしてさらにペルシア語著作『存在に関する論考 Risālat al-wuğūd 』では、逆に存在一性論者のことを「一神教徒のスーフィー(ṣūfiyya muwaḥḥidūn)」と呼ぶまでに至るといいます。ナーブルスィーの議論はこのうち『存在に関する論考』中に示されたジュルジャーニーの議論と類似点があるとのことですが、おそらく著者の書きぶりから察するにナーブルスィー自身が彼の名に明示的に言及しているわけでもなさそうです。
最後に少し興味深い点が本序論中で指摘されていたことを報告しておきます。後期の存在一性論者がしばしば参照する Laṭāʾif al-aʿlām と呼ばれる著作。この著作は大きくわけて、クーナウィー(1274 年没)著者説とカーシャーニー(1330 年頃没)著者説とが併存し、帰属問題が紛糾していたのですが、Aladdin によると、その本当の著者はクーナウィーの直弟子の 1 人であるファルガーニー(1300 年頃没)だったのだそうです(pp. 40-41, note 38)。このことを彼は個人的な史料調査の結果知った(大意)とのことですが、その調査の内実については明かされていません。彼はその傍証の 1 つとして、Laṭāʾif al-aʿlām に見られる議論とほとんど同内容の議論がファルガーニーの『ターイーヤ注釈 Mašāriq ad-darārī 』中で示されているという点を挙げていますが、これが一体何の傍証になっているのでしょうか。少なくともクーナウィー説は、ファルガーニーがクーナウィーの著した同書を『ターイーヤ注釈』中で参照しているという可能性を排除しないと思うのですが(ただしこの点も、私の仏語読解能力に起因する誤読かもしれないので、要注意です)。
注1: A. D. Knysh (1999): Ibn ʻArabi in the Later Islamic Tradition. The Making of a Polemical Image in Medieval Islam. Albany: SUNY Press. 87-111 & 141-65.
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