Mittwoch, 29. Januar 2014

ファズルオール「サマルカンド学派の数学・天文学」

Fazlıoğlu, İ (2008): The Samarqand Mathematical-Astronomical School: A Basis for Ottoman Philosophy and Science”, Journal for the History of Arabic Science 14, 3-68.

以前の記事で触れたFazlıoğlu の論文。触れておきながら、いまだちゃんと読んでいなかったので、一念発起して読みました(本文はこちらのページからダウンロード可)。タイトルからすると、サマルカンド学派における数学と天文学の展開を扱った狭いアラビア科学史研究といった印象なのですが(というか、そう思っていたから、いままで敬遠していたのですが)、実際に読んでみると科学史だけでなく、オスマン朝下のイスラム思想史の展開(とりわけアヴィセンナ以後の神学・哲学と数学・自然科学の受容)に鋭く光を当てる超重要論考だということがわかりました。英語のつたなさと論述の徒然さ、そして形式の不備等もあって、読んでいてあまり心地のよい論文にはなっていないのですが、内容の重要さに鑑みて、アウトラインのみを抜き出し、再構成しておきます。

ティームール朝第4 代君主ウルグ・ベク(1449 年没)が天文台を建設し(1420 年頃)、あつい学芸保護を行ったことは広く知られています。彼を中心として形成されたサマルカンド学派は数学・天文学の分野で多くの成果を残しました。ところが彼らの業績は、じつは中央アジアの一都市にとどまることなく、15 世紀後半以降、遠く離れたアナトリアにも(そしてさらには西欧世界にも)受け継がれていたのだと、著者は言います。ではそのような遠隔地での受容はどのようにしてなされたのか。そしてそもそもこのサマルカンドにおける学芸保護はいかにして起こったのか。

サマルカンドにおける数学・天文学研究の興隆をもたらした決定的な要因の1 つとして、著者はマラーガ学派による数学・天文学研究を挙げています。イルハン朝下の1259 年、マラーガ(現在のアゼルバイジャン領)には当時最先端の天文台が建設されました。この天文台には、トゥースィー(1274 年没)をはじめとし、アブハリー(1264 年没)やカーティビー(1277 年没)、そしてクトゥブッディーン・シーラーズィー(1365 年没)といったさまざまな哲学者・科学者たちが集い、この地を中心として自然科学・自然哲学研究が大いに振興されました。彼らの生み出した成果は隣接地域に住むシリア正教徒によってシリア語訳されたり、あるいはビザンツの学者によってギリシア語訳されたりしながら、さまざまな文化圏で受容されていたのだそうですが、これと同じことが中央アジアのサマルカンドでも起きていたのだといいます。

それではアゼルバイジャンで生み出された知が、いかにしてサマルカンドまで伝播したのか。この点に関して確定的な答えは出ていないようですが、著者自身はウルグ・ベク自らが若い頃、実際にマラーガの天文台を訪れた経験をもつという点が、間接的な要因の1 つになっていたのかもしれないと論じています。いずれにしても、サマルカンド学派が残した史料からは、彼らがマラーガ学派の生み出した著作群を熱心に読みこんでいたことは明らかであり、またそれらの著作に対する註釈も数多く残されているため、彼らの活動がマラーガの大きな影響下に成立していたこと自体は間違いないようです。

サマルカンド学派の中心にいたのは、ウルグ・ベクその人と彼の家庭教師でもあったカーディーザーデ・ルーミー(1437 年没)という人物でした。カーディーザーデはブルサ出身の数学者で、シャムスッディーン・ファナーリー(1431 年没)の弟子の1 人。師のすすめを受けて1411-12 年頃サマルカンドにやって来た彼は、ほどなくしてウルグ・ベクの厚遇を得、サマルカンド・マドラサの主任教授や、ウルグ・ベク天文台の監督(2 代目;初代ジャムシード・カーシー[* 年没]、3代目アリー・クーシュジー[1474 年没])などを歴任します。著作としては、サマルカンディー(1302 年没)が著した数学書Aškāl at-taʾsīs (ユークリッド幾何学の公理論に関する著作)への註釈Šarḥ Aškāl at-taʾsīs や、マフムード・イブン=ジャグミーニー(1221 年頃没)の天文学書al-Mulaḫḫaṣ fī l-hayʾa al-basīṭa への註釈Šarḥ al-Mulaḫaṣ fī ʿilm al-hayʾa (なおジャグミーニーの著作自体はイブン=ハイサム[1040 年没]のHayʾat al-ʿālam とトゥースィーのat-Taḏkira fī ʿilm al-hayʾa の伝統を引くものとのこと)などが代表作であり、オスマン朝下のマドラサではこれら2 つの著作がそれぞれ数学と天文学の標準テキストとして学ばれていくことになります。

では、サマルカンドで著されたこれらの著作がいかにして、アナトリアにまで運ばれたのか。きっかけとなるのは、君主ウルグ・ベクの殺害でした。彼が息子のアブドゥッラティーフに殺害され、そのアブドゥッラティーフ自身もまた翌年に殺害されると、周辺の政情は一気に不安化の一途をたどります。こうした政情不安を避けるべく、カーディーザーデの弟子である前述アリー・クーシュジー(天文台の3 代目監督)と、同様にサマルカンド学派の一員であったファトフッラー・シルワーニー(1486 年没)は学派内で生み出された著作群をたずさえ、アナトリアへと逃避します。著者Fazlıoğlu によれば、これこそがオスマン朝下での同著作群受容の決定的な契機となるのだそうです。こうして主としてクーシュジーとシルワーニーの手によって、13 世紀後半マラーガで生み出された知は中央アジアを経由し、15 世紀後半に至ってふたたび地中海東岸地域へと、いわば逆輸入されることになったのです。ただしオスマン朝で受容されたのは、このようなマラーガ=サマルカンド的な数学・天文学のみではありませんでした。周知のとおり、ティームール朝のもう一方の主要都市ヘラートでも、学芸はあつく保護されていました。ヘラート学派はサマルカンド学派とは学風を異にし、重きが置かれたのはむしろ伝統的宗教諸学と神秘主義思想です(有名な詩人・存在一性論者であるジャーミー[1492 年没]が活躍したのもヘラート)。そしてこの地を代表する神学者タフターザーニー(1389/90 年没)の神学書Šarḥ al-MaqāṣidŠarḥ al-ʿAqāʾid an-Nasafiyya などもまた、クーシュジーらの手によってオスマン朝へと持ち込まれていたのです。

しかし何故、学風をまったく異にするヘラート学派の著作が、サマルカンド学派の手によってわざわざ持ち出されることになったのか。鍵となるのは、神学者ジュルジャーニー(1413 年没)の存在です。彼はヘラート学派のタフターザーニー同様、伝統的な宗教諸学に精通していました。ところがその一方で彼はサマルカンドを拠点に活動し、サマルカンド学派とも近しい関係を有していました(一時期は前述カーディーザーデの師でもあった)。事実、彼は法学書・神学書以外にも、天文学書をいくつもものしています。例えばトゥースィーとジャグミーニーの前述2 書にくわえて、クトゥブッディーン・シーラーズィーのat-Tuḥfa aš-šāhiyya fī ʿilm al-hayʾa に対しても、彼は註釈を付しています。ここで重要なのは、彼の代表作である神学書Šarḥ al-Mawāqif (1404 年にサマルカンドで完成)では彼のそうした数学的天文学的知識が広範に援用されているという点です。ここに著者は、ヘラート的学風とサマルカンド的学風との総合を見てとります。そしておそらくクーシュジーらサマルカンド学派のメンバーも事前にこのことを理解していました。つまり難解なジュルジャーニーのŠarḥ al-Mawāqif を理解するためにはその前提知識を提供する書物として、標準レベルの神学書も必要だった。だからこそ彼らはヘラート学派の著作も同時に持ち出したのだ。これがおそらく著者の見解です(明言はされていませんが)。

現在、13 世紀のマラーガ学派の活動内容などについては、欧米でも少しずつ研究が現れはじめています。しかしそれはまだあくまで端緒についたばかりの段階であって、本論文ほどの広いタイムスパン・地理的領域にまたがっての数学的・天文学的・神学的知識の伝播と受容を扱った研究は、管見のかぎりでは、まだまったくと言ってよいほどなされていないように思います。その意味で本論文は、たしかに先駆的な業績と言えるでしょう。ただし同時にこれは有に一書をなしうるテーマであって、1 本の雑誌論文だけで論じようとするのは、いささかつめこみすぎの感が否めません。事実、ジュルジャーニーŠarḥ al-Mawāqif の重要性が説かれるわりには、具体的なテクスト分析は一切なされておらず(かといって先行研究がその主張を十分に裏付けているようにも見えない)、消化不良の印象をつよく覚えました。できれば著者にはジュルジャーニーのŠarḥ al-Mawāqif が先行する数学書・天文学書・神学書をどのように受容しているかを明らかにする論文を、もう1 本書いてもらえたらうれしいです。

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