Montag, 21. November 2011

オリエント学会第53回大会(@ノートルダム清心女子大学)

ひさしぶりの更新になってしまいましたが、昨日なんとか発表してきました。個人的な感触としてはいまいちの出来でしたが、好意的な質問もいただけたため、その点は率直にうれしかったです。なお以下が大まかな構成です。

1. 序論
2. 実相学の主題設定
3. 学問論の改変
3.1. 主題論の改変
3.2. 原理論の改変
4. 探究の目的
5. 結論
補遺1: 『親密の灯』前半部の構成
補遺2: 緒言第4章の構成

ファナーリーは『親密の灯』冒頭部で、逍遥学派学問論を援用して「学問」の構造に関する議論を展開しています。彼の目的は「実相学」という1つの学としての存在一性論の確立。今回はその中から、彼の学問構造論の肝になると考えられる「実相学('ilm al-haqa'iq)の主題設定」と「主題論・原理論の改変」という2つの問題を取りあげて検討を行いました。おもな主張は次の2点です。(1)ファナーリーが行う実相学の主題に関する議論と逍遥学派学問論における主題論・原理論に対する改変は、神の存在としての絶対存在の実在性を探究するための道具立てだった。(2)では何故ファナーリーはそのような探究の必要性を感じたのかと言えば、それはタフターザーニーからの存在一性論批判を意識していたからだ(実際『親密の灯』の構成からもその点は読みとれる)。この2点のみに限っていえば、おそらく間違いはないと思います。しかし細かい部分では、どうにも理解できない点がいくつもありました。そのうちの一番やっかいな問題が「絶対存在」と「それ自体において捉えられた神」とのあいだの関係です。

ファナーリーは「実相学」の主題を「世界とのつながりにおいて捉えられた神の存在」とします。しかし彼は後にこれを「絶対存在」と言いかえて、それ自体において捉えられた存在(これはファナーリーにおいては神に対応する)に関する探究へと向かっていきます。つまりファナーリーは一方では「世界とのつながりにおいて捉えられた神」について語っていながら、他方ではそれをそのまま「世界とのつながりから離れてそれ自体において捉えられた神」として語ってしまっている、ように見えるわけです。彼は両者の関係をどのように考えていたのでしょうか。発表では触れませんでしたが、1つの可能性としては、ファナーリーにおいて「絶対存在」は世界とのつながりから離れた、存在論的階層の頂点に位するものではない、という解釈が考えられます。この解釈は指導教員の竹下先生がクーナウィー(1274年没)に関する論文の中で展開しているもので、もしかするとファナーリーでもそうなのかもしれません。しかし京大の東長先生にたずねてみたところ、やはり絶対存在は普通は階層の頂点だと考えられている(少なくともクーナウィーとファナーリーのあいだの時代に属すカーシャーニー[1329年没]はそう言っている)そうです。一言で「存在一性論」とは言っても、「絶対存在」を頂点に置くかどうかでちがいがあったのでしょうか。そういえば有名どころでは、カーシャーニーの弟子であるジーリー(1428年頃没)とか、「目撃一性論(wahdat al-shuhud)」などと呼ばれる派の人々も、たしか絶対存在を頂点とは考えていなかったはずです。とはいえ、彼らが頂点とその一段下位に位するものとのあいだのちがいをクーナウィー(& ファナーリー)と同じレベルで語っているかどうかは不明です。具体的に言うと、彼らは神(Allah)の至高性を保持するために、通常もっと下位に置かれる「神」という位階を頂点に配したはずですが、クーナウィー(そして特にファナーリー)はむしろ頂点とその一段下位に位するものとを同じものとして語ったり、でも実際には同じではないのだがとか、そういうレベルで語っている気がします。うーん、この点が大事なのかな…。

ちなみに原稿はここにあげておきます。よろしければ、ご批判などいただけたらと思います。

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