Montag, 20. Juni 2011

ヴァスフ「ファフルッディーン・ラーズィーにおける存在」読書メモ1

先日ブログで言及したWassoufの博論を少しずつ読んでいます。とりあえず序論と結論、そしてラーズィーの存在論について扱った第6章第4節の一部のみを拾い読みしました。そもそもこの論文を読む必要性を感じたのは、ファナーリーが形象論を援用して絶対存在の実在性を肯定しようとする際に持ち出す「絶対存在は種である」という考え方が、ラーズィーに淵源するのではないかと予測されるからです。例えばタフターザーニーは『神学の目的注釈Sharh al-Maqasid』第1巻第2目的第1章において、この存在種説をラーズィーに帰しています(Taftazani, ShM, ed. 'Umayrah, vol. 1, p. 319, lines 1-6)。それではラーズィー自身はこの学説をどのように表明しているのか。私が確認できている限りでは、『指示と勧告の書注釈Sharh al-Isharat wa-al-tanbihat』「形而上学」中に、次のような発言があります。

我々は言う。そこから全ての付帯性が取り去られたものとしての存在である限りでの存在は、一なる種的本性である。故にそれが要請するものどもが互いに異なるなどということはありえない。そしてもしそうであるなら、存在は我々の真理においては、何性を必要とする付帯性となる

فنقول الوجود من حيث هو وجود محذوفاً عنه سائر العوارض طبيعة واحدة نوعية فلا يجوز أن يختلف مقتضاها وإذا كان كذلك فالوجود في حقّنا عرض مفتقر إلى الماهية محتاج إليها.

Fakhr al-Din al-Razi, ShlT, ed. Najafzadah, vol. 2, p. 360, line 16-p. 361, line 1.

確かにここでラーズィーは存在のことを「一なる種的本性(tabi'ah wahidah naw'iyah)」だとしています。しかしながらその直後に彼は、存在は付帯性だと言い切ってもいます。本性でありながら付帯性でもある。この一見矛盾を孕んだかに見える発言の真意がつかめない限り、上記のファナーリーの議論を容易にラーズィーと結び付けることは危ういように思われます。

それではWassoufの博論は、この問題について何らかの解決を与えてくれているのか。現在読んでいる範囲では、残念ながら解決は与えられていないように見えます。確かに問題自体は取り上げられてはいます。彼によると、ラーズィーは存在のことをあたかも1つの何性であるかのように扱っているが、それと同時に彼にとって存在は付帯性でもあったとのこと。ここから彼は「もしかしたらそもそもラーズィーにおいては何性という語の用法が一般的な用法から少しズレているのかも」という提案を行ってはいます。しかしながら彼の考えでは、どうやらそうではないらしく、しかもラーズィーの何性論はこの博論の主題でないということもあり、立ち入ることが避けられています。とはいえ、この辺は議論自体が難しく、きちんとついていけなかったので、また追ってまとめなおそうと思います。

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