我々は言う。そこから全ての付帯性が取り去られたものとしての存在である限りでの存在は、一なる種的本性である。故にそれが要請するものどもが互いに異なるなどということはありえない。そしてもしそうであるなら、存在は我々の真理においては、何性を必要とする付帯性となる。
فنقول الوجود من حيث هو وجود محذوفاً عنه سائر العوارض طبيعة واحدة نوعية فلا يجوز أن يختلف مقتضاها وإذا كان كذلك فالوجود في حقّنا عرض مفتقر إلى الماهية محتاج إليها.
Fakhr al-Din al-Razi, ShlT, ed. Najafzadah, vol. 2, p. 360, line 16-p. 361, line 1.
それではWassoufの博論は、この問題について何らかの解決を与えてくれているのか。現在読んでいる範囲では、残念ながら解決は与えられていないように見えます。確かに問題自体は取り上げられてはいます。彼によると、ラーズィーは存在のことをあたかも1つの何性であるかのように扱っているが、それと同時に彼にとって存在は付帯性でもあったとのこと。ここから彼は「もしかしたらそもそもラーズィーにおいては何性という語の用法が一般的な用法から少しズレているのかも」という提案を行ってはいます。しかしながら彼の考えでは、どうやらそうではないらしく、しかもラーズィーの何性論はこの博論の主題でないということもあり、立ち入ることが避けられています。とはいえ、この辺は議論自体が難しく、きちんとついていけなかったので、また追ってまとめなおそうと思います。
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