Janssens, J., ''Bahmanyar ibn Marzuban: A Faithful Disciple of Ibn Sina?'', in: D. Reisman (ed.), Before and After Avicenna: Proceedings of the First Conference of the Avicenna Study Group (Leiden: Brill, 2003), pp. 177-97.
コピーしたきり、ツンドク状態だったのでざっと読んでみました。バフマニヤール(1066年没)はイブン=スィーナー(1037年没)の弟子の1人として知られる人物。彼は『獲得 Al-Tahsil 』という著作を残していて、少なくとも私はこの1点を除いて彼の著作を知らないのですが、いずれにしても同書は一般に師イブン=スィーナーの哲学を簡潔にまとめたものと見なされています。しかしそうではない可能性がある、というのがこの論文でのJanssensの主張です。
彼はまず『獲得』の構成に注目します。同書はイブン=スィーナーの主著『治癒の書 Al-Shifa' 』だとか、『指示と勧告の書 Al-Isharat wa-al-tanbihat 』などの構成(論理学→自然学[→数学]→形而上学)には依拠していません。むしろ『知識の書 Danish'namah 』の構成(論理学→形而上学→自然学)に依拠しています(ちなみに『知識の書』はイブン=スィーナーのペルシア語著作で、ガザーリーが後に『哲学者の意図 Maqasid al-falasifah 』をまとめる際にひな形として用いたことで有名な哲学書ですが、Janssensは同書のアラビア語版オリジナルが存在した可能性を指摘しています)。バフマニヤールはこの後者の順番に沿って記述を進めるわけですが、重要なのは『獲得』の自然学に対応する箇所のタイトルが「自然学」(al-'ilm al-tabi'i / al-tabi'iyat)とはなっていない、という点です。ここでのタイトルは、「存在者どもの本質の諸様態に関わる学」('ilm bi-ahwal a'yan al-mawjudat)となっています(a'yan [sg. 'ayn] をこのように解釈することが妥当かどうか私にはわかりませんが、差し当たってはJanssensの訳語に従います)。そしてここの箇所でバフマニヤールは、「それ自体において必然的に存在するものとそれがもつ諸属性(の列挙)」(wajib al-wujud bi-dhati-hi wa-ihsa' sifati-hi)、並びに「原因をもつ存在者ども」(al-mawjudat al-ma'lulah)という2つの問題について論じています。つまり自然学に対応する箇所で、神学が論じられているわけです。これはイブン=スィーナーではあり得ないのだとか。
ここからJanssensは『獲得』で引用されているイブン=スィーナー諸著作の対応箇所を比較検討することで(バフマニヤールの引用については、『獲得』校訂者モタッハリーがある程度、引用元の同定をしてくれています)、1) バフマニヤールは師が神学をその一部として包含させていた形而上学から神学を排除して、「形而上学」を純然たる存在論として打ち立て、2) 更に自然学上の様々な学説を(あくまでイブン=スィーナーの諸著作からの引用を通じて)改変することで、アリストテレスが行っていたように自然学的に神を探究する可能性を取り戻した、というようなことを主張します。
もちろん穏当な議論にとどめるため、途中途中ここには書かなかった様々な留保がなされていくのですが、結論としては「以上のことから、バフマニヤールがイブン=スィーナー思想を〈再アリストテレス化〉(re-Aristotelizing)したとまで言うことはできないが、少なくとも彼をイブン=スィーナーの忠実な弟子と見なすことはできないだろう」といったものになっています。ちなみにアリストテレスにおける形而上学と神学ということで、ラムダ巻をめぐる問題についても論じられていましたが、議論が難しく細かすぎてついていけませんでした。またこれ以外にも細かくてついていけない箇所が多かったのですが、前々から特にラーズィーの形而上学なんかを見ていたときに、ところどころで自然学的な要素が重要になってくるような印象を漠然と受けていたので、しばらくして問題意識がはっきりしてきたらまた読み直してみようと思います。
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