先の論文ではタフターザーニーの批判とそれに対するファナーリーの反駁のうち、後者を中心に話を組み立てました。ファナーリーは批判論駁にあたって、〈関係〉という概念に依拠します。しかしそもそもこの概念自体がタフターザーニーの批判の中で(若干)問題視されている、という問題があります。論文としてまとめるためには仕方ないと考え、こないだはそれをはしょって、わずかに注で言及するだけにとどめました。でもそれが自分ではどうしてもイヤで、それを今回の発表では取り上げたというかんじです。
ちょっと乱暴なまとめ方かもしれませんが、タフターザーニーは存在一性論者の言うように、必然者(=絶対存在)とそれ以外の存在者どもとの間に〈関係〉があるとしたら、塵芥に至るまでの全ての存在者が必然的に存在するということになってしまう、と主張します。それに対してファナーリーはむしろ〈関係〉があるからこそ、必然者以外の存在者どもも存在できているのだ、と主張します。ある意味では、両者の見解の対立は〈関係〉というものの捉え方に起因しているわけです。彼らのいわば「論争」は、少なくともある一面においては、必然者とそれ以外の存在者どもとの間に〈関係〉を認めるか認めないか——この点をめぐってなされていると考えられます。今回の発表ではこうした観点から、タフターザーニーとファナーリーの議論を取り上げ、まず〈関係〉をめぐって見解の対立が起こっているということを示し、次いでそれがどのような思想史的背景をもつ対立かを明らかにするために、関連の予想される論理学の述語付け論における基底形(muwata'ah)/ 派生形(ishtiqaq)の問題を検討する、ということをやってみました。
ただ、当初思っていた以上に基底形 / 派生形をめぐっては論者ごとのコントラストが出て来ませんでした。ファナーリーはちょくちょくファフルッディーン・ラーズィーの言葉を肯定的に引用するため、少し前から彼の『提要Al-Mulakhkhas』の論理学の部分を読んでいたのですが、そこでラーズィーは「この問題をめぐっては、イブン=スィーナーとバグダーディーの間で見解の対立があった」という旨を論じていました。そこからもしかするとバグダーディー→ラーズィー→ファナーリー路線と、イブン=スィーナー→トゥースィー→タフターザーニー路線の対立という構図があったのかもと思い至ったのですが、トゥースィーの『指示と勧告の書注釈』論理学を読んだ限りでは、どうもトゥースィーはこの問題においては(少なくとも基底形と派生形の間の関係という点に限っては)明確にバグダーディー→ラーズィー路線に対立しているようには見えませんでした。またファナーリーの『イーサーグージー注釈』(論理学書)も読んではみたのですが、問題の議論については触れられておらず、そもそもタフターザーニーの『太陽の書簡注釈』(論理学書)には目も通せていなかったため、ファナーリーとタフターザーニーの間の述語付け論における対立についても示すことができませんでした。
加えて、そんなこんなで舞台裏が最後の最後まであわただしい状態にあったため、わかりやすいさとはほど遠い議論になってしまいました。全くもって甘かったです。わざわざ足を運んで下さった方々には本当に申し訳なかったです。深謝します。
そして、『オリエント』の〆切が1ヶ月後にせまっています。気を抜かずにがんばりましょう。
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