イブン=スィーナーの存在付帯性説に対するラーズィーの批判は、一言で言えば、「存在が何性にとっての付帯性だとすると、何性は存在が付帯する前からその付帯対象として何らかのかたちで存在していなければならない。しかしこれはおかしい」というようなものです。存在が付帯するにも、まずその付帯対象がなければ付帯のしようがないが、存在が付帯する前からその付帯対象が存在していたなら、無限遡行が帰結してしまうだろう、と。
これに対して、トゥースィーは「ラーズィーがしたように、イブン=スィーナーの言う〈付帯〉を実在レベルでの事態と考えてはならない」と言います。トゥースィーによれば、イブン=スィーナーが言っているのはあくまで理性内での付帯です。イブン=スィーナーの存在付帯性説は、あくまで「存在と何性の関係を理性内で分析した際にはそうなる」ということしか意味せず、むしろ実在のレベルでは、ただ存在者xがあるのみ。そこには存在と何性の区別などないのである。こうした議論を通じて、トゥースィーはラーズィーの批判を反証します。
ここから翻って考えてみるに、ラーズィーは何性に対する存在の付帯を、(1)トゥースィーがしたように、理性内レベルでの付帯とは考えておらず、かといって彼のイブン=スィーナー批判そのものがその可能性を否定している以上、(2)実在レベルでの付帯も否定している、ということになるでしょう。いや、(1)については必ずしもそうは言えないのか…?いずれにしても、仮にそうだとすれば、彼はどのように話をもっていくのでしょうか。彼自身は存在と何性の関係をどのように捉えていたのか。まぁ、まさにこれがここしばらく調べている問題であるわけですが…。
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