Mittwoch, 2. Juni 2010

アイヒナー「イブン=カンムーナ『叡智に関する新たなもの』の「存在と非存在の章」」

Eichner, H., ''The Chapter 'On Existence and Non-Existence' of Ibn Kammuna's al-Jadid fi al-Hikma: Trends and Sources in an Author's Shaping the Exegetical Tradition of al-Suhrawardi's Ontology'', in: Y. T. Langermann (ed.), Avicenna and His Legacy: A Golden Age of Science and Philosophy (Turnhout: Brepols, 2009), pp. 143-77.

とりあえず読み切りました。イブン=カンムーナ(1284年没)はユダヤ教からの改宗者で、イブン=スィーナーやスフラワルディーの著作に対する注釈も残している哲学者。この論文は、基本的には彼の『叡智に関する新たなものAl-Jadid fi al-hikmah』を取り上げ、その「存在と非存在」について扱った章にランニングコメンタリーを付していくというようなものです。よくわからないところが多いし、そもそも複数の記述間の連関がいまいち理解できないため、再読の必要性を感じています。今回は気になった点のみを箇条書き程度にメモしておこうと思います。

1. ラーズィーの著作ではAl-Mabahith al-mashriqiyahAl-Mulakhkhas fi al-hikmahの影響が大きい。
2. 後期の哲学者たちの間で
見られる、「一般的な事柄(al-umur al-'ammah)について」という章を著作の形而上学冒頭部に挿入するという伝統は、ラーズィーに淵源する。
3. スフラワルディーは[イブン=スィーナーと同じように]
「何性」(mahiyah)の意味で「もの性」(shay'iyah)という語を使う。しかしバフマンヤール(1067年没;イブン=スィーナーの弟子の一人)は「もの性」ではなく、「もの」(shay')という語を使 う。
4. 諸々の何性どもの間での「存在の共有」(musharakat al-wujud)について論ずるとき、つまり「共有されるもの」(mushtarik)としての存在について論ずるとき、ラーズィーはこのmushtarikという語を単に'amm(一般的な、共通する)と同義で理解するのみだが、バフマンヤールはこうした「一般的なもの」(amr 'amm)としての存在が存在者どもに対して述語付けられる際の二つの異なる仕方、つまりbi-al-tashkik / bi-al-ishtirakの区別について語る。これは後者がmushtarik / ishtirakの意味内容にカテゴリー論での議論とのつながりを意識しているのに対し、前者はほとんど意識していない、ということを示している。
5. ラーズィーは「存在は何性と同一である / ない」の区別を「内 / 外」の区別と結び付けて、

① 存在は何性と同一(外延が等しい)
② 同一でない
 a) 存在は何性の内にある(部分である)
 b) 存在は何性の外にある(後者に対して付加される)

という分類を行うが、イブン=カンムーナはそれを「自存 / 基体に内属」という区別と結び付け、

存在は何性と同一(外延が等しい)
② 同一でない
 a) 存在は自存する(→何性の外にある)
 b) 存在は基体に内属する(→何性の内にある)

とする。ここから両者の間で、「自存する / しない」と「内 / 外」の対応関係が逆転することになる。
6. イブン=カンムーナは存在が如何にして関係たり得るのか説明している。
7. li-dhati-hiとbi-dhati-hiには違いがある(前者は''self-subsistent''の意味で、後者は''caused by itself''の意味)らしい。
8. 「具体的な存在」/「意識内存在」/「発話における存在」/「文字における存在」[恐らく原語はそれぞれ、al-wujud fi al-a'yan, al-wujud fi al-adhhan, al-wujud fi al-'ibarah, al-wujud fi-al-kitabah]という存在の4つの区別は、アリストテレス『命題論』第1巻第1章の受容から帰結したschema。
9.
ラーズィーは意識内存在を認めない。
10. イブン=カンムーナ曰く、「原因の非存在は結果の非存在を必然化するが、結果の非存在は原因の非存在を必然化しない。これと同様のことが、条件(shart)とそれによって規定されるもの(mashrut)、絶対非存在(al-'adam al-mutlaq)と意識内存在者(mawjud fi al-dhihn)というペアにも当てはまる」。
11. 原因と結果、shartとmashrutの間のつながりは、Mulakhkhasの中では絶対非存在の中に多数性と識別があるということを示すための議論として提示されている。
12. テーマ的に、Wisnovsky, Avicenna's Metaphysics in Context; Langermann, ''Ibn Kammuna and the 'New Wisdom' of the Thirteenth Century''; Wolfson, ''The Amphibolous Terms in Aristotle, Arabic Philosophy and Maimonides''などが触れられていないのは絶対におかしい。
13. mujarrad al-mahiyahのmujarradを「絶対的」と訳すのは違うと思う。

1 Kommentar:

  1. 管理人さま

    はじめまして。
    ブログ拝見させていただき、勉強させていただいております。私は、管理人様と同じ大学出身のアラビア語科卒の者です。覚えておられますでしょうか。

    在学中(7年ほど前)に一度、管理人様にアラビア語を誤って教えてしまったことがあります。この場を借りてお詫びしたい所存です。

    もしよろしければ、小生のHP等から、ご連絡いただければ幸いです。
    よろしくお願いいたします。

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