先達の中の或る者は、一般的付帯性の例として「人間」にとっての「白さ」を挙げている。しかし師〔イブン=スィーナー〕はこれを否定している。何故[師がそうした見解を否定するの]かと言えば、「白さ」は「それはそれだ」というかたちでは「人間」に対して述語付けられないからである。[ここで]我々が問題としているのは[正に]述語であるわけだが、「白いもの」こそがそうした述語となるのである。何故なら「人間は白いものだ」と言われる以上、一般的付帯性であるのは「白いもの」なのであって、「白さ」ではないからである。
しかし『個人的省察によって確立されたもの』の著者〔バグダーディー〕は、「白さは述語付けられない」とする師のこうした主張に対して反駁を行っている。彼曰く、「白いもの」とは「白さをもつもの」の意である。ところで「…をもつもの」という表現は関係に依存する。[つまり]実際に述語付けられているのは「白さ」なのである。そしてそうであるならば、「白いもの」ただそれだけが述語付けられているのではないということになる。むしろそれ〔「白いもの」〕は「述語本体+関係」〔「白さ」+「…をもつもの」〕を指し示す表現なのであって、実際に述語付けられているのは〔つまり「述語本体」は〕「白さ」なのである、と。
وقد اورد بعض المتقدمين في مثال العرض العام البياض للانسان والشيخ انكر ذلك لان البياض لا يحمل على الانسان بانه هو وكلامنا في المحمولات واما الابيض فانه محمول لانه يقال الانسان ابيض فالعرض العام هو الابيض لا البياض.
واعترض صاحب المعتبر على قوله البياض غير محمول فقال الابيض معناه ذو البياض فلفظة ذو للنسبة والمحمول بالحقيقة هو البياض واذا كان كذلك فالابيض ليس بمحمول فقط بل هو لفظة دالة على ذات المحمول والنسبة فالمحمول بالحقيقة هو البياض.
Razi, Mantiq al-Mulakhkhas, ed. Qaramaliki
& Asgharinizhad, p. 88, lines 3-9.
問題となるのは、例えば「人間は白いものである」という命題です。一見して明らかな通り、ここで述語の位置にきているのは「白いもの」です。ところでこの命題を少しいじって、「人間は白さだ」としてみましょう。そうすると、途端におかしな命題になってしまいます。常識的に考えて、人間は白さではないでしょう。だから述語となるのは、あくまで「白いもの」という派生形(ishtiqaq)であって、「白さ」という基底形(muwata'ah)ではない。これがイブン=スィーナーの主張です(cf. e.g. Shifa', Madkhal)。しかしこれに対してバグダーディー(1152年没)は、「人間は白いものだ」という命題においても、実際に述語となっているのは「白さ」だと考えます。何故なら彼によれば、「白いもの」とは「白さをもつもの」という意味だからです。そして「人間は白さをもつものだ」と言えるということは、人間と白さの間に何らかの関係があるということを意味します。つまり「人間は白いものだ」という述語付けにおいても、実際は「白さ」が関係を介して「人間」に対して述語付けられている。バグダーディーはこのように考えるわけです。
私にとって重要なのは、こうした議論が絶対存在の実在性を問題にするような文脈でも適用される、という点です。いや、正確に言うと、現状では「適用されているのではないだろうか」くらいの自信しかないのですが。まず存在一性論者は絶対存在を存在者と考えます。何故なら絶対存在が非存在者であるとしたら、(非存在者が非存在を通じて属性付けられるようなものである以上)、絶対存在がその矛盾概念である非存在を通じて属性付けられる、ということになってしまうからです。しかし例えばタフターザーニーのような存在一性論批判者は、「不可能なのは、絶対存在に対する非存在(基底形)の述語付けだけであって、非存在者(派生形)の述語付けに関しては全く問題ない」という風に考えます。
端的に言えば、こうした「存在に対する非存在の述語付け」という問題と「人間に対する白さの述語付け」という問題はリンクするところがあるのではないか、ということです。もちろんイブン=スィーナーとバグダーディーが論じているのが「人間に対して述語付けられるのは、『白さ』(基底形)なのか『白いもの』(派生形)なのか」であるのに対して、タフターザーニーとファナーリーが論じているのは「存在に対して非存在者(派生形)が述語付けられるということが、許容できるのか否か」であり、この点で完全な対応はないわけですが。
またこれとの関連で、上の引用テクスト中には、更に目をひかれる記述があります。バグダーディーの見解として引かれている、「…をもつもの」と「関係」をからめた議論です。というのも、これはタフターザーニーが存在一性論者の議論として批判しているものだからです。ここからもしかすると、存在一性論者の絶対存在論だとか関係論には、バグダーディーによるイブン=スィーナー批判や、そこで打ち出された述語付け論(ないしその述語付け論の中で導入されている関係論)が影響を与えているのではないか、という可能性が浮かび上がってくるわけです。これは現状ではあくまで仮説というか妄想でしかないのですが、自分の中ではある程度の説得力はあるような気がしています。
ただ、問題なのは、タフターザーニーの批判の中で既にこうしたバグダーディーの議論が槍玉に挙げられている以上、彼の議論は既にタフターザーニー以前の存在一性論者に対しても影響を及ぼしていたと考えざるを得ない、ということです。となると、カイサリー(1350年没)なのか、カーシャーニー(1329年没)なのか、クーナウィー(1274年没)なのか、あるいはイブン=アラビー(1240年没)だったりするのか。安易にファナーリーに対する影響のみを云々すればよいわけではないので、その点で影響の実相を明らかにするというのは相当大変な作業を伴うわけですが、しかしそれでも少しずつこの線での検討も進めていこうと思います。
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