Sonntag, 28. Februar 2010

ランドルト「スフラワルディー思想におけるプラトン的イデアと形象の世界」

先日複写依頼を出した、Landolt, H., ''Les idees platoniciennes et le monde de l'image dans la pensee du Šaykh al-išraq Yahya al-Suhrawardi (ca. 1155-1191)'', in D. De Smet & M. Sebti (eds.), Miroir et savoir: La transmission d'un theme platonicien des Alexandrins a la philosophie arabo-musulmane (Leuven: Leuven University Press, 2008), pp. 233-50 が届いたとのこと。明日回収し、早速読みます。有益で密度の濃い議論が展開されていることを祈ります。読み終わったら、感想を追記として書きます。

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[後日付記]
フランス語があまり簡単ではなかったため、一か月近く棚上げしてしまっていたのですが、昨日と一昨日(だったか?)何とか集中して、読み切りました。正直な感想を言えば、いまいち。内容はほとんど概説的なものに終始しているようだし、ところどころ興味深いテーマが取り上げられはするものの、どうも議論が深まらない。ほんの一年あまり前に書かれたものということで、期待しすぎてしまいました。とはいえ、スフラワルディーについて概説的な知識すらもちあわせていない私にとっては、益するところがなかったわけでは決してありません。以下、気になった点を箇条書き的にメモしておきます。

1. スフラワルディーはアヴィセンナあるいは逍遥学派を、「
理性によって作り上げられた仮象ども」(al-i'tibarat al-'aqliyah)を諸物の実在に対して意味なく付加されるものとして捉えた、という点で非難したが、これによってスフラワルディーは普遍者の実在を否定したわけではない。スフラワルディー曰く、普遍者には二つの種類がある。(1)多性に先立つ普遍者、そして(2)多性より後にくる普遍者である。スフラワルディーが逍遥学派を非難しているのは、彼らが「形相の自存(=離存)説」を批判する際に、実はこれら二つの種類の普遍者を混同してしまっているから。彼は『照明哲学』Hikmat al-ishraq 第一部(par. 94)において、彼らの議論を次のように批判している。逍遥学派においては、或る任意の形相に関与する如何なる個物も自らが内在するための基体を必要とするため、種的形相(=人間性、馬性など)が自存(=離存)するなど考えられない、とされる。しかしこれは「形象」と「それの形象であるところのもの」とを混同していることに由来する誤りである。

2. スフラワルディーは高次の世界においてそれ自体において存立する何性(=イデア)を、
その種が偶像であるところの主ども」arbab al-asnam al-naw'iyah)であるとする。

3. スフラワルディーにとって、「
高次の経綸的諸光」(al-anwar al-mudabbirah ak-'ulwiyah; =天体の魂)がもつエネルギーは星辰を媒介として伝達される。しかしこれら諸光は、それ自体においては「主」ども の「補佐的諸光」(al-anwar al-isfahbadiyah)でしかない。そして「主」どもは宇宙的知性あるいは「圧倒的諸光」(al-anwar al-qahirah)であるのだが、これらの上には更にもう一つ別の「圧倒的諸光」の秩序がある。後者の諸光は天体の質料からすら完全に離れてある。

4. その「圧倒的諸光」の二つの秩序とは以下の通り:(1)経線的秩序(tabaqat al-tul)…「至高なる」(a'lawn)圧倒的諸光の秩序。「根源的なものども」(ummahat)とも呼ばれる。(2)緯線的秩序(tabaqat al-'ard)…「形相的(?)圧倒的諸光」(anwar qahirah suriyah)、即ちプラトン的イデア、あるいは「
その種が偶像であるところの主ども」の秩序。(1)は(2)にとっての原因であるが、(2)もまた諸天体を導くそれらの魂(「経綸的諸光」「補佐的諸光」)にとっての原因である。

5. スフラワルディーはこの(2)緯線的秩序について、厳密な位置付けを行っていない。

よくわからないところだらけではありますが、いずれにせよ、ここでLandolt が与えているarbab だとか種だとかについての説明は、Badawi が『プラトン的知性的諸形象』Al-Muthul al-'aqliyah al-Aflatuniyah の序文で与えている説明とは、また少し異なる角度からなされているように思われます(少なくともBadawi の解説では、種の形象よりも更に高次のものについては触れられていませんでした)。ふう。

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