Freitag, 26. Februar 2010

ファナーリーの形象論11

なかなか遅々として進みません。先日も書いた通り、ファナーリーは『親密の灯』中で『プラトン的知性的諸形象』を大量に引用して議論を進めています。ファナーリーの議論はただの同書からの引き写しでしかなく、まったく独創性のないものなのか。その可能性も常に考慮しておかなければならないわけですが、現在の感触では単純にそうとも言い切れないと考えています。

校訂者Badawi によれば、同書は存在一性論と照明哲学、特に後者から大きな影響を受けているそうです。実際に本文に当たってみると、確かにこのBadawi の主張は間違っていないように思われます。しかし彼も言っている通り、同書の著者は存在一性論、照明哲学ともに適宜批判を加えていきます。

その中で特に私にとって重要となるであろうと思われるのが、「照明哲学を推し進めていくと、実際は形象の存在を否定せざるを得なくなる」という旨の議論です。ファナーリーはこの議論の周辺をかなり大量に、しかも肯定的に引用しているように見受けられます。(そのためかなり繊細な注意が必要となってくるわけですが)しかし肝心なところでは、この形象の存在否定に結びつける議論を、「衒学的な者ども」(mutahadhliqin)の主張として斥けています(少なくとも現在の私にはそう見えます)。ここでファナーリーは恐らく照明哲学の側に立っています。

ファナーリー、『プラトン的知性的諸形象』の著者、照明哲学、これら三者の微妙な相関関係を読み解かなければなりません。

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