Dienstag, 24. November 2009

ファナーリーの形象論4

ここ数日のことの顛末です:

ファナーリーが何を言っているのかさっぱりわからない。
N. Heer が昔した発表のレジュメによると、ファナーリーの議論のソースは『プラトン的知的諸形象』Al-Muthul al-'aqliyah al-Aflatuniyah(著者不詳)である。
→同書には'A. Badawi による校訂版があるので、それを見てみる。
→確かに「ファナーリーの形象論1」で書いた学問別の探究対象のような議論は、ここから引いているようにも思われる。
→同書の冒頭には、校訂者による割と長めの解説的序文が収録されている。
→半分ちょっとくらい読んでみたが、これまたよくわからない。
→しかし同序文には、形象をめぐる有名な哲学者たちの見解の紹介があり、これによって以下のことがわかる:

1. イブン=スィーナーは『治癒の書』形而上学第7 講話第2-3 章において、形象と数学的対象の離存説反駁を行っている。
2. イブン=スィーナーのこの議論は、アリストテレス『形而上学』M-N 巻にあるプラトンのイデア説反駁に基づいているが、特にM 巻第6-9 章、N 巻第2 章以降と内容的にほとんど同じ。
3. ファフルッディーン・ラーズィーは『東方的探究』Al-Mabahith al-mashriqiyah において形象について論じている(が、Badawi 自身が用いているリトグラフ版の頁数しか挙げられておらず、議論の具体的な箇所は自分で探す必要がある)。
4. スフラワルディーは『照明哲学』Hikmat al-ishraq 第一部第三章において、形象論を展開している。

この後を見てみると、クトゥブッディーン・ラーズィーやらクトゥブッディーン・シーラーズィーなんかも言及されているようで、非常に興味をそそられます。とりあえずはBadawi の序文を読了し、アリストテレスとイブン=スィーナーの議論に(和訳と英訳で)ざっと目を通し、更に懸案のSebti の論文をいい加減読み終えることを、明日の明け方くらいまでの目標とします。こういう議論がどこまでファナーリーの議論に関わってくるんだろう…。

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