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うー、、あと2、3 時間…
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[更新後付記]
書きあぐねている理由の一つが、ファナーリーの言う〈関係〉(nisbah)と〈関係的存在〉(al-wujud al-idafi)が果たして同定されるのか、若干懐疑的になってきたからです。修論の試問で指導教員に言われた「〈関係〉と〈関係的存在〉は別物なんじゃないか?」という一言がここへ来て重くのしかかりつつあります。確かにファナーリーは両者をあからさまに同定してはいません。ただ、簡単にですが調べ直してみると、やはり両者は同じものとして論じられていると考えるのが妥当なのではないでしょうか。
例えば以下のような一節:
個体化したものどもの多数性から不可離的に帰結するのは、存在者ども・「存在者であるということ」ども—–つまり〈存在〉の〈諸関係〉—–の多数性(ta'addud al-mawjudat wa-al-mawjudiyat a'ni nisab al-wujud)であって、〈存在〉それ自体の多数性ではない(Fanari, Misbah al-uns, pp. 164-5, pars. 3/332, lines 4-5)。
下線部からわかるように、ここでファナーリーは「存在者であるということ=存在者性」を〈関係〉と同定しています。そしてこの「存在者性」こそが、〈関係的存在〉の意味するところな訳です(Fanari, Misbah al-uns, pp. 152-3, par. 3/273, lines 2-3)。ということは、やはり両者は同じ意味で用いられているとしか思えません。
またタフターザーニーは、〈存在〉とは「諸存在に対して〈あること〉という一なる意味概念を通じて適用される類比的なもの」(mushakkak yaqa'u 'alay-ha [i.e. al-wujudat] bi-ma'nan wahid huwa mafhum al-kawn)だと主張します(Taftazani, Sharh al-Maqasid, vol. I, p. 341, lines 17-8)。つまりタフターザーニーにとって〈存在〉とは、先行・後行、強弱、或いは適切さにおいて程度の差こそあれ、あらゆる存在者が共有する〈あること〉という概念を意味する訳です。で、この見解に対してファナーリーは以下のように述べます:
〈あること〉とは、それ〔つまり〈存在〉〕の—–自己顕現・顕現の諸々の場(majali-hi [i.e. al-wujūd] wa-mazahiri-hi [i.e. do.])を通じた—–〈あるものども〉(al-ka'inat)〔つまり被造物〕に対する〈関係〉の謂いであり、それの実相の謂いではない(Fanari, Misbah al-uns, p. 168, par. 3/346, lines 2-3)。
ここでファナーリーは、タフターザーニーの考える〈存在〉(=〈あること〉)を〈存在〉の実相ではなく、あくまで〈関係〉に過ぎないと言っています。これはファナーリーが〈存在〉の関係を〈あること〉という概念と同定している、ということを示しています。
しかし指導教員曰く、「〈関係〉は概念かもしれないが、〈関係的存在〉は概念ではあり得ない」と。で、ここで一番はじめに引用した一節の下線部に再び目を遣る訳です。よくよく見ると、ここでは「存在者性」と〈関係〉だけでなく、「存在者」と「存在者性」も同義で用いられているように思えます。この点を考えるならば、〈関係〉=〈関係的存在〉としても指導教員の提示してきた問題は解消するように思います。たぶん。。。
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