Sonntag, 2. August 2009

まとめあぐねる3:タフターザーニーよ語れ

昨日はタフターザーニー存在論の中で、〈存在〉の必然性をめぐる批判の基盤となっているであろう部分の探り出しを行いました。問題の批判は具体的には以下の三点から成ります:

1. 芥もくたの存在の問題
2. 〈存在〉の分割の問題
3. 多性との折り合いの問題

これらの批判の根拠は以下のような流れで示すことができます:

・〈存在〉は存在必然者と存在可能者とに分割される(しかし〈存在〉が存在必然者と同定されたら、存在必然者が存在可能者にも分割されるということになってしまう。これは明らかに背理である→批判2 の根拠)。
・そして分割の源というのは、その諸区分の間で共有されるものである。
・故に〈存在〉とはあらゆる存在者が共有するようなものだということになる。しかしその共有は実在レベルで起こるのではない。
・何故なら〈存在〉はあらゆる存在者に対して一義的に(という訳でよいのかはわかりませんが…;bi-ma'nan wahid)述語付けられなければならないからである。「存在者」とはそもそも「〈存在〉をもつもの」(dhu wujud)という意味である。しかしもしこの〈存在〉が存在必然者たる神だとしたら、「人間は存在者である」=「人間は〈存在〉をもつものである」なのに、「神は存在者である」=「神は〈存在〉である」となって、述語付けにおける〈存在〉の一義性が保たれなくなる(そして芥もくたに至るまでのあらゆる存在者のもつ〈存在〉が存在必然者=神だということになってしまう。これは明らかに背理である→批判1 の根拠)。
・それ故〈存在〉の共有は言葉レベルでのものとせねばならない(ishtirak lafzi)。

けれど、このように或る程度まで統一的に説明することができるのは、批判1 と2 の根拠についてまでです。批判3 の根拠も関連付けて論じることはできないこともないのでしょうけど、とにかくそのようなことが論じられている箇所自体が見つかりません。

存在必然者は一なるものであるが、〈存在〉は顕現の場の多性を通じて多なるものとなる。しかし多なるものとなるようなものの存在が、必然的であるはずはない。タフターザーニーの批判3 の要点はここにあります。そしてDavidson 曰く、このような議論はプロクロスの『神学綱要』からファーラービー、そしてイブン=スィーナーへと受け継がれているような議論なのだそうです。具体的に言えば、それは以下のようなものです:

「それ自体において存在するようなものは単純的なものでなければならない。何故ならもしそれが複合的であるとした場合、そのものはそれを構成する諸部分の存在を原因として存在しているということになる訳で、そのようなものは〈それ自体において存在している〉とは言えないからである。」

Davidson を使えばイブン=スィーナーやらファーラービーの議論を引くことはできそうですが、彼はタフターザーニーの議論を分析するなどということは行っていません。でもできればタフターザーニーに一言頂きたい訳です。ということで、昨日はタフターザーニーの『神学の目的注釈』(全5 巻)の中から以下の部分に当たりました:

第1 巻
・〈存在〉の何性に対する付加(pp. 310ff.; 〈存在〉、何性、特殊存在などについての神学者と哲学者の見解がまとめられているが、難解)
・存在一性論批判(pp. 335-41)
・必然性、可能性、不可能性(pp. 456ff.)

第2 巻
・一性と多性(pp. 27ff.)
・原因について(pp. 77ff., esp. 87ff.; 何故一から多が生ずるのかという問題について論じられているが、難解)

第4 巻
・必然者の本質は可能的なものどもとは異なる(pp. 25-6; あまり大したことは論じられていない)

昨日のおよそ半分はこの探り出しに費やしました。が、結局、成果は上がらずです。うーん…。

とりあえず探り出し作業は続けつつも、目下は全体を通して書き上げることを第一の目標とします。今度こそ明日の朝までには。

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[後日付記]
必然者の一性に関するタフターザーニーの議論ですが、やっと見つけました。第4 巻pp. 31ff. で論じられていました。これでタフターザーニーに語らせることができます。よかった。

それと昨日は、上記の「〈存在〉の言葉レベルでの共有」について、今までかなり誤解していたことに気付きました。私はこの共有をめぐる議論というのは、「諸存在者は〈存在〉を共有しているが、それは言葉レベルで共有しているだけ(lafzi)なのか、それとも〈存在〉という何か具体的に存在するものを共有している('ayni?)のか」というようなものだと考えていました。でもそうではなくて、寧ろここでの議論は、「諸存在者は言語表現上〈存在〉を共有しているように見えているだけ(lafzi)なのか、それともそれらは確かに〈存在〉という一なる意味概念を共有している(ma'nawi)のか」というものなんだと思います。タフターザーニーによれば、ishtirak lafzi を主張している代表的人物がアシュアリーです。でもタフターザーニー自身はishtirak ma'nawi を主張しているようです(実際にタフターザーニーがこの用語を使用しているかどうかは未確認)。私がishtirak lafzi だと思っていたものは、恐らくishtirak ma'nawi に対応するような共有です。論文の論旨には影響のない部分だったので助かりましたが、しかしまた修論にミスを発見…。あぁ。。。

そして結局まだ第II 章のまとめに終始しています。たぶんもう少しで出来上がると思うんですが…。

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[付記の付記]
批判の前提となっている議論については、大枠はほぼ書けました。ただ、論文で言及する為には、タフターザーニーが行っている証明を全部丸ごと載せる訳にはいかないので、かなりごそっとサイズダウンしてしまいました。その証明は全体で三つの観点から為されているのですが、そのうち一つ(或いはがんばって二つ?)くらいしか本文中では言及できそうにありません。けっこう残念ですが、紙幅の都合上、仕方ないですし…。

とにかくこの後は、問題の存在一性論批判の箇所を、今まとめた議論との関連が理解できるようなかたちで、手を入れ直します。

しかし何て明晰さの無い文章なんでしょう…。一刻も早く整えたいです。

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[付記の付記の付記]
まだII 章をやっておりますが、恐らくもうちょっとでII 章は仕上がります。自分で言うのもなんですが、なかなか整ってきたかんじです。

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