Mittwoch, 8. April 2009

バイラクダル『ダーウード・カイサリーにおける神秘哲学』第2部(1)

M. Bayrakdar, La philosophie mystique chez Dawud de Kayseri (Ankara: Editions Ministère de la Culture, 1990).

これは半年くらい前にコピーだけしといて、ほとんど読まずに埋もれてしまっていた資料の一つで、最近の引越し作業によって無事発掘されたもの。もともとは1978年にソルボンヌに提出された博論のようです。

ダーウード・カイサリー(Muhammad Dawud Qaysari Rumi, 1350年没)はオスマン朝最初期の学者で、存在一性論の系譜に属する思想家の一人として有名ですが、ぼくにとって重要に思われるのは、こいつがタフターザーニー(Sa'd al-Din Mas'ud ibn 'Umar al-Taftazani, 1389/90年没)が活躍する直前を生きた存在一性論者だ、という点です。
タフターザーニーは存在一性論における〈存在〉把握を誤りとして批判し、ファナーリー(Shams al-Din Muhammad ibn Hamzah al-Fanari, 1431年没)はそれに対して反駁を行う。この〈存在〉をめぐる「論争」が、存在一性論の理論的展開に対して何らかの影響を及ぼしたとすれば、それはまず修論で得た知見をこのカイサリーの〈存在〉論と比較することによって検証されるべきなのかもしれない(と思っていたのですが、やはりことはそう単純ではないのかもと思い始めてきました)。

ということで、同書の第二部Ontologie Unitude (pp. 64-111) をまず読んでみることにしました。スピードは残念なほどゆっくりずつしか進まないのですが、とりあえず10ページほど読んでみて気になった点をメモっときます。大体気になった点は大きく分けて以下の3点:

1. カイサリーは「〈存在〉とはあらゆる自然的なもの(le tout naturel; kulli tabi'i)である」と言う(Qaysari, Matla' khusus al-kilam (Bombay: [?], [?]), p. 7, lines 15-6; Bayrakdar, La philosophie, p. 64)。

2. カイサリーは「〈存在〉は必然者(al-wajib)であり、神(al-Haqq)である」と言う(Bayrakdar, La philosophie, p. 66)。

3. カイサリーは「神の〈本体〉は〈存在〉の原因である」と言う(Qaysari, Matla', p. 212?; Ibid., pp. 66-7)。

 まず1ですが、正直言って、これは端的に誤訳としか言いようが無いと思います。
kulli tabi'i をle tout naturel と訳している時点で、おそらく(少なくとも当時の)著者Bayrakdar には哲学における普遍論についての知識が欠けている、と判断せざるを得ないでしょう。そもそもle tout naturel だったら、kulli tabi'i ではなくて、kull tabi'i でしょう。そして更に、Bayrakdarによれば、カイサリーがこれを〈存在〉と同定している、というわけですが、これも正直、初見で度肝を抜かれました。修論の第一章を書いてるときに、彼が引いてる箇所は飛ばし読みですが、気になってちょっと見ていました。でもそんなことは書いてなかったような気がしたのです。たまたまぼくがPDFで持ってる版がどうやらBayrakdar が使ってる版と中身が同じようで(たぶんどちらかがどちらかのリプリントなんでしょう)、おそらく彼が引いてるのであろう箇所を見つけることができました。ちょっと「同定できた」と言い切れるまでの自信は無いのですが、まぁ、たぶんここなんじゃないかと。上の1 のところの典拠で挙げたのがそうで、その周辺はこんなかんじです:

فان قلت الوجود من حيث هو هو كلي طبيعي وكل كلي طبيعي لا يوجد الا في ضمن فرد من افراده فلا يكون ان الوجود من حيث هو واجبا لاحتياجه في الحقيقة الى ما هو فرد منه قلت...

fa-in qulta al-wujud min haythu huwa huwa kulli tabi'i wa-kull kulli tabi'i la yujadu illa fi dimn fard min afradi-hi fa-la yakunu anna al-wujud min haythu huwa wajiban li-ihtiyaji-hi [i.e. kulli tabi'i=al-wujud min haythu huwa huwa] fi al-haqiqah ila ma huwa fard min-hu qultu...

もしお前が以下のように言ったとする:「それ自体において捉えられた〈存在〉は本性的普遍者であるが、あらゆる本性的普遍者はその[下に包含される]或る何らかの個物のうちでしか存在しない。それ故、必然者がそれ自体において捉えられた〈存在〉であるなどということは[あり得ない]。何故ならそれ〔ここでは本性的普遍者=それ自体において捉えられた〈存在〉を指す〕は、実相においてそれの個物を必要とするからである」と。そうしたら私は以下のように言う…

文法的に一箇所よくわからないところがあるんですが、恐らく意味としては上のようなかんじになるはずです。つまりBayrakdar がカイサリーの説として紹介している議論は、恐らくカイサリーの論駁対象の議論なのではないか、と思います。拾い読みしかできていなくて、全体の流れなども把握できていないので、完全な自信はありませんが…。ただこれがカイサリーの議論であるとしたら、カイサリーは「〈存在〉=必然者」とは言わないということになり、2 の論点と抵触することになります。たぶんBayrakdar の間違いなんじゃないかなぁ…。

 次に2 です。この点に興味が引かれたのは、「〈存在〉=必然者(=神)」という定式化がいつ頃から存在一性論の中に現れてきたのか気になっているからです。指導教員のゼミから窺い知るに、クーナウィー(Sadr al-Din Qunawi, 1274年没)は、やはり厳密な意味では「〈存在〉=神」とはしないようです。もしかしたらここに〈存在〉をめぐる論争が何らかの役割を果たしたのかも、と修論執筆中には考えたりもしましたが、しかしファナーリーも「〈存在〉は厳密な意味では神ではない」というクーナウィーの議論を肯定的に引いているし、カイサリーもやはり「〈存在〉の絶対性は必然性(al-wujub)、可能性(al-imkan)などから離れている」という旨の発言をしているもよう(Bayrakdar, La philosophie, p. 71)。う~ん、、、よくわからん…。

 次に3です。やはり、まぁこれは存在一性論においては当たり前の議論なんですかね…?単純に基礎知識が足りないだけなのかも知れないです。カイサリーによれば、「〈本体〉と〈存在〉は両者の間の関係という観点から見たときにのみ同一であり、神の存在と顕現した諸存在との間の関係という観点から見たときは同一でない」そうです(Bayrakdar, La philosophie, p. 66)。 ふ~ん、、、

 感想としては、1. なんか著者独特の用語法が用いられているような気がする(最初から読んでないからわからないだけかも);2. アラビア語・フランス語ともに異様にスペルミスが多い;3. 訳語がたまに自由すぎる気がする;4. (少なくとも当時の)Bayrakdar には哲学方面の知識があまり無かった、というかんじですかね。まぁ、正直いろいろわからないところもあるんですが、とにかくタフターザーニー以前から〈存在〉をめぐる論争は何らかのかたちで行われていたようですね。それを伝える資料が現在まで残っていないというだけなんでしょう、きっと。そうすると修論の議論とカイサリーの〈存在〉論をいきなり結びつけて云々というのは、やはり性急なかんじがします。いずれにせよ、とにかく続きもがんばって読んでいきたいと思います。

4 Kommentare:

  1. お引っ越し及びブログ開設、おめでとうございます。

    さっそくカイサリー。
    ぼくのほうのコピーは、書棚に行儀よく収まったまま。
    人前に出るのが、恥ずかしいんだとか。
    気持ちがよくわかるので、そっとしておいてます。

    気になった点の3つ目ですが、dhat と wujud の差異化についてですね。

    これは、イブン=アラビーを読んでいて、いつも気になっています。
    イブン=アラビーでは、同義的だった気がします。
    読み直してみます。

    もし、本当にカイサリーが左様なことをのたまいたもうたなら、お弟子さん第一か第二世代から、そういう議論になってるってことですね。

    あにはからんや、姉謀りしや。

    カーシャニーではどうなってるのか、気になります。

    あとで、見てみましょう。

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  2. ありがとうございます。
    ぼくはお恥ずかしながら、イブン=アラビーはほとんど読んだことがないのでわからないのですが、そうなんですか。
    ぼくは正直「大体同義なんだろう」くらいの認識で、修論(特に第二章第二節辺り)でもほとんど同義として書いてしまっているので、そこを読んだときは「げっ」と思いました。
    ただ、「両者の間の関係という観点から見たときは、dhatとwujudは同義」らしいので、まぁ何とか修論での議論を決定的に破綻させるような問題にはならないだろう、という結論に達しました…。
    とにかくこの研究書、読み進めてみます。
    カーシャーニー、、、もそうですね、気にはなるんですよね…。

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  3. そう、早く先生の研究書が出て欲しいですね。
    開祖と、孫弟子をつなぐ、解釈の発展や展開を明らかにして欲しいです。

    ちなみに、ハイデガーでもSein(Seyn)とWesenが同じになります(たぶん)。

    その場合、むしろAnwesenとかEreignisの意味が強調されます(たぶん)。

    けっきょく、みんな同じことを言ってるようで、たまに勉強が無意味に感じます。

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  4. >先生の研究書
    そうですね~。いつになるのやらというかんじですが…。

    >ハイデガー
    いや、、、すみません、正直よくわからないです…苦笑
    とくにAnwesen(現前?)とEreignis(起こり?)…?

    何かWesenて「本質」だけじゃなくて、das höchste Wesenみたいな言い方もできるんですよね?
    これは「至高の存在」とかって訳になりそうですが、SeinとWesenが同じというのはそういうことですか?

    あ、でも、ハイデガーのSeinとWesenが存在一性論のwujudとdhatに対応するのか、ちょっとよくわからないですが、そうだとしてもハイデガーが両者を同定するのに対して、存在一性論では完全な同定はしないわけだから、多少は違うじゃないですか。

    ただ、このままだとチャット以上に紛糾する恐れが出てくるので、今度会ったときにでも教えてください。

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